1 徹底的にサウンドを作り込んだ
(1)スタジオにこもった
この頃のビートルズは、ライヴに嫌気がさしていたこともあり、このアルバムに収録された新作をステージで演奏できるかどうかにはほとんど関心がありませんでした。むしろ、ライヴで再現できないような音楽をあえてレコーディングしていたのです。
ツアーが苦痛になった彼らにとって、スタジオは実験場であり、非常にエキサイティングな場所でした。「レコーディングが好きだから、今はレコーディングにより多くの時間をかけているんだ」とジョージは1966年に説明しています。「今回、新しいアルバムのために、レコード会社は、いつでも好きなときにスタジオを使わせてくれたから、満足いくまで作業ができたんだ。
(2)スタジオという実験場を見つけた
ビートルズは、「レコーディングした曲はライヴでも演奏する」という常識を破り、ライヴではもはや再現できないような作品を次々と制作しました。彼らがレコーディングの概念を変えた瞬間です。
現在ではアルバムに収録された曲をライヴで演奏することも可能になっていますが、当時の貧弱なシステムではとても再現することはできませんでした。しかし、ビートルズにとってそんなことは、もはやどうでもよかったのです。彼らは、ライヴに嫌気がさしていて、どっちみちライヴ活動を止めるつもりでしたから。
彼らは、メロディー、コードと歌詞を制作し、それをどのように斬新にアレンジするかでアイデアが泉のように湧き出てきました。後は、それをどのようにして成果品としてまとめ上げられるかでした。
2 新たな実験を開始
(1)多彩な楽器を使用した
新たに取り組んだ実験の結果は、驚くべきものでした。2本のギター、ベース、ドラムからなるビートルズの標準的な楽器の構成は、むしろ脇に追いやられてしまいました。ブラスセクション、インド楽器、テープループ、バックワードギター、コミカルな効果音、フレンチホーンソロ、ストリングスを使用するなど、ビートルズの定番であった楽器がほとんど使われなくなったのです。
前年の「Yesterday」では、アコースティック・ギターを弾くポールのヴォーカルに弦楽四重奏が加わり、新境地を開拓していました。しかし、「Eleanor Rigby」は、ビートルズとして初めてギターがない、そしてビートルズが楽器を一切演奏しない曲となったのです。彼らは、この短期間で「バンドが自ら作曲し、演奏する」という自分たちで作り上げたスタイルすら覆すまでに進化していました。
(2)タイトルの由来
自分たちのアルバムに名前をつけることができるようになったビートルズは、このアルバムがレコーディングされた直後の短い海外ツアーの間に、タイトルをどうするか自分たちのアイディアを出し合うことになりました。バリー・マイルズは、著書「Many Years From Now」の中で、その詳細を記載しています。「1966年6月24日の夜、ミュンヘンのホテルの一室に『月刊ビートルズ』の編集者ジョニー・ディーンが一緒にいた...最初、彼らは、ニュー・アルバムのタイトルを4人とも『Abracadabra』にしたかったのだが、誰かがすでに使っていた。『Pendulums』と『Fat Man And Bobby』というアイデアも出された。」
「リンゴは、ローリング・ストーンズが『Aftermath』というアルバムをリリースしたばかりだったので、それをもじって『After Geography』はどうだと冗談で提案しました。ジョンは『Beatles On Safari』を提案し、ポールは『Magic Circle』を思いついた。ジョンは、それを『Four Sides Of The Circle』『Four Sides Of The Eternal Triangle』に変更し、そのうちになんとなく『Revolver』に落ち着いた。」
いずれにせよ、このタイトルは、銃とは関係ありません。確かに、リヴォルヴァーは、回転式の拳銃の意味もあります。ビートルズがアメリカツアーを行った時に、警官が拳銃を腰に下げていたのを見て思いついたと主張する説もありますが、どうやらこれは都市伝説のようです。イギリス人である彼らが、アメリカ人ほど銃に関心があったとは思えないからです。1966年にリンゴは「レコードってクルクル回るからリヴォルヴァーなのさ」と説明しています。
3 レコーディング技術を習得していた
(1)マーティンからレコーディング技術を習得していた
ビートルズは、1965年までレコーディング・スタジオで常に創意工夫を凝らしながら、自信満々に音楽の領域を外へと押し広げていました。プロデューサーのジョージ・マーティンは、自著「All You Need Is Ears」の中で「最初の頃、私は、弟子を持つ師匠のようで彼らは私の言うとおりにしていた」と回想している。「彼らは、レコーディングについて何も知らなかったがすぐに覚えた。そして、最後にはもちろん、私が召使いで、彼らが主人になることになったのだ」
ビートルズは、デビューした頃こそレコーディングについて何の知識もありませんでしたが、マーティンの指導を受けてたちまち身につけました。そして、いつのまにか師匠と弟子の立場が逆転したのです。彼らが大人しくマーティンの指示に従うだけで、レコーディングの技術に興味を持たなければ、アイドルとしてはともかくアーティストとして成功することはありませんでした。
(2)大きかったジェフ・エメリックの参加
ビートルズがレコーディングの知識を身に着けるようになった頃に、レコーディング・エンジニアが交代してより多くの実験が行われるようになりました。ノーマン・スミスは、それまでのビートルズのレコーディングでずっとエンジニアを務めていましたが、プロデューサーへの転身を希望し「Rubber Soul」の完成後すぐにプロデューサーに昇格しました。彼は、マーティンとほぼ同い年で、ルール通りに規律正しく行動するタイプだったため、ビートルズの要望を満たすことは次第に難しくなっていました。
彼の後任となったのは、まだ19歳のジェフ・エメリックでしたが、彼は「ミキシングボードのコントロールをいじって、革新的なサウンドのアイデアを考えつく」ことが大好きだったと、自著「Here, There And Everywhere」で語っています。「幸運なことに、私が彼らのためにエンジニアを始めた頃には、ビートルズは、すべてのルールを破るという考えを完全に受け入れていた」
この革新的なアルバムの制作を開始するという絶妙なタイミングで、エメリックがエンジニアに就任したのは、ビートルズにとって幸運でした。彼がエンジニアに就任しなかったら、とてもあのようなサウンドは生み出されなかったでしょう。何ものにもとらわれず常に革新的な楽曲を制作するアーティストと、その無謀ともいえる要求にすべて応える技術をもった型破りなエンジニアの素晴らしいチームが誕生したのです。
4 レコーディングを開始
(1)「Tomorrow Never Knows」をレコーディング
時間があり、インスピレーションが溢れ出ていたビートルズは、「Revolver」に収録されることとなる楽曲をスタジオで約11週間かけて制作しました。このセッションには、初夏のシングル「Paperback Writer」と「Rain」のバックも含まれていました。
いつものように、ジョンが作曲した曲から作業を始めました。この曲の仮タイトルは「マークⅠ」でしたが、最終的にはリンゴに触発された「Tomorrow Never Knows」になりました。最初のセッションは1966年4月6日でした。
その年の6月21日に行われたアルバムの最終ミキシング・セッションで、1曲が足りないことが判明し、その日にスタジオに入り、もう1曲、ジョンの名曲「She Said She Said」をレコーディングすることになりました。曲数が足りないからと言ってサラッと補充できちゃうんですから驚きですね。
その3日後、彼らは、西ドイツ(当時、ドイツは、第2次世界大戦で敗北した後、米ソの冷戦下で東西に分割されていました)で最近のアルバムを携えて、短いワールド・ツアーを始めていました。その中には1966年6月30日から7月2日にかけて開催された武道館公演が含まれています。
(2)好きなだけスタジオを使えた
このアルバムのレコーディング期間は、前作「Rubber Soul」の約2倍強である約2か月半ですが、実際にスタジオで過ごした時間は大幅に増え、ほとんどのセッションが翌日の早朝までずれ込みました。当時の様子をエメリックはこう振り返っています。「我々は、良い時間を過ごしていた。常に新しいことに挑戦していたから大変な作業だった。実際、このセッションで私が一番強く印象に残っているのは、ひどく消耗していたことだ。」
「EMIのセッションは、夜11時を過ぎてはいけないことになっていたのだが、ビートルズは、その頃には十分にビッグになっていたので、すべてのルールが通用しなくなっていた。彼らは、好きなだけ遅くまで、あるいは長く働くことができ、我々は、ずっと彼らと一緒にいなければならなかった」
(参照文献)ビートルズ・ミュージック・ヒストリー
(続く)
この記事を気に入っていただけたら、下のボタンのクリックをお願いします。
下の「読者になる」ボタンをクリックしていただくと、新着記事をお届けできます。