1 エネルギーを充填したビートルズ
(1)休養期間がビートルズを蘇らせた
1965年12月、ビートルズは「Rubber Soul」をリリースし、恒例のクリスマスライヴも止め、3「目のビートルズ映画となる予定だった「A Talent For Loving」の撮影をぎりぎりになってキャンセルしました。そして、彼らは、1966年3月までゆっくりと休暇をとり、心身ともにリフレッシュしました。この3か月間の休養期間は、彼らにとってとても貴重なものでした。
彼らは、ブレイクして以来ほとんど休まず働き続け、プライヴェートでもマスコミやファンに追い回され、心身ともに疲れ果てていたのです。彼らが気力体力ともに充実していたことが、次の彼らにとって初めての実験的アルバムの成功の大きな要因となったことは間違いないでしょう。
(2)ジョージの飛躍的な成長
レノン=マッカートニーというの偉大なデュオから見ても、彼らが「ジュニア・ビートル」とみなしていたジョージが本領を発揮し始めていました。「ジョージは、この時点で本当に進化していた」とマーク・ルーイスンは語っています。「彼は、彼らが獲得した3~4か月の休養期間から大きな恩恵を受けた。特に、彼がインドのあらゆることに没頭し始めたという事実においてである」
彼は、 この頃、インドの思想や音楽に深く傾倒し、それが彼の音楽だけでなく人生にも大きな変化をもたらしました。彼がアーティストとしての才能に目覚めたのは、多分にインドの影響が大きかったといえます。
一方、作家でありポップカルチャーの研究家であるロバート・ロドリゲス(ポッドキャストで放映された「サムシング・アバウト・ザ・ビートルズ」においてインタヴュアーとなり、ビートルズのドキュメンタリー 映画「Get Back」のピーター・ジャクソン監督がゲストとしてインタヴューに応じました)は、こう考えています。「ジョージは、ビートルズ内でクリエイティヴな力を付けて地位を上げていた。彼は、アルバムで3曲を獲得しただけでなく、オープニングも獲得した」
ジョージがレノン=マッカートニーに完全に実力を認められたとまでは言えませんが、アルバムに3曲が採用されオープニングを任されたのは、曲のクオリティーがこのアルバムに相応しいと彼らに認められた証です。
2 ジャイルズ・マーティンが父親について語った
(1)父の教え
ジャイルズ・マーティンは、プロデューサーとしての最大の成功について、父親から「どう聴こえるか、頭の中で思い描くんだ」と言われたと語っています。「よほど先見の明がない限り、自分が知っていることしか思い描くことはできない。ビートルズは、確かに先進的だった」
マーティンが言いたかったのは、まず静かに音楽に耳を傾けてそれがどのようなサウンドで構成されているかを頭の中で分析し、最適に構成し直すのがプロデューサーとしての仕事であるということなのでしょう。これは、超一流のプロデューサーとしての息子に対する教えですね。
ミュージシャンは、サウンドを作ることに力を注ぎますが、プロデューサーは、ミュージシャンが作るサウンドをどう構成するかを考えます。おそらくビートルズの音源を聴いた彼の頭の中には、まず編集のラフスケッチができあがり、それが精密な設計図へと書き換えられていったのでしょう。
そのマーティンにしても、ビートルズが次々と繰り出すアイデアに驚嘆したのです。彼らは、マーティンよりも遥かに先を走っていました。
ジャイルズもプロデューサーとしての道を歩み、素晴らしい業績を残しています。持って生まれた才能に加え、父の教えをしっかりと理解して実践したことが成功につながったといえます。
(2)ジョージ・マーティンの積極的なサポート
クラシック音楽の道をずっと歩んできたマーティンにとって、ビートルズの実験的な取り組みは、とても驚きであったとともに新鮮に聴こえたと思います。マーティンは、彼らの実験を温かく見守り、一生懸命サポートしました。
もし、彼が伝統的なスタイルを重んじる古いタイプの人物であったら、頭から彼らの取り組みを否定してしまったでしょう。実際、企画の段階でプロデューサーの意向に合わず、作品をボツにされてしまったアーティストも数多くいます。いや、むしろ、意向に合わないことの方が多いかもしれません。
もし、マーティンの意向に沿わなかったら「Revolver」は、企画の段階から排除されたか、あるいはまったく違う作品になっていたかもしれません。このアルバムの成功は、ビートルズの才能と野心に加えて、それをすべて受け入れて積極的にサポートしたマーティンの功績に負うところが大きかったのです。
3 単なる思いつきではなかった
(1)先見の明を持っていた
これは重要なところなのですが、ビートルズは、単なる思いつきでこれらの実験を行ったのではなく、この実験が必ず成功するという確信のもとに行っていたのです。そして彼らの先見の明は、まさに時代の最先端を行くものでした。
「彼らは皆、サウンドを見つけ出し、機材を最大限に活用することに興味を持っているという共通点を持っていた」とルーイスンは説明しています。ビートルズは、師匠であるマーティンからレコーディングの技術を学び、さらにそれを自分たちで先へと発展させようとしていたのです。
(2)好きなだけスタジオと時間を使えた
ビートルズは、彼らのあらゆる願いを叶えるプロデューサー、マーティンとエンジニアリングチームとともに、それ以前のどのアーティストも得られなかった特権を与えられました。「彼らがEMI と結んだ契約により、彼らは、無制限でスタジオを使用する時間を無償で与えられた。これは、彼らが 4 月にレコーディングを開始し、それまで完成しなかったため、期間を6月まで延長した最初のプロジェクトであった」とルーイスンは説明しています。
「彼らは、自分たちの創造性を探求する機会を楽しんでいた。明らかに非常に創造的な作品である『Rubber Soul』は、実際には急いで完成した作品だった。しかし、『Revolver』では、彼らが満足のいくまで時間を費やした。プレッシャーは、自分自身に課せられたものであった。」
それまでビートルズは、殺人的なスケジュールの中でシングルやアルバムを制作してきました。しかし、ここにきてようやく自分たちの納得が行くまで、好きなだけ時間を費やしてアルバムを制作できたのです。
4 「Tomorrow Never Knows」のレコーディングに着手
(1)サイケデリックの真髄
そのため、1966 年4月6日のレコーディング・セッションの初日、ビートルズは、ジョンの仮タイトル「マークⅠ」のレコーディングから開始しました。後の「Tomorrow Never Knows」です。
「誰もが『Tomorrow Never Knows』が何であるかを理解しようとし、どのようなものになるだろうと考え、最善を尽くした」とルーイスンは主張します。なかなか解釈が難しい表現ですが、この作品は、ビートルズとして初めてのサイケデリックな楽曲です。当時としてはあまりにもぶっ飛び過ぎていて、果たしてこれがレコードに収録できるクオリティ-のあるものになるのかどうかすら分かりませんでした。何しろコードがE(レコードではCとB♭/C)だけでしたから。
しかし、マーティンは、唸りながらも面白いと感じました。凡庸なプロデューサーだったら、即座に却下していたでしょう。彼が何でも受け入れる度量の大きさと柔軟な頭脳を持っていたことが、ビートルズにとっては幸いだったと思います。
メンバーも初めて聴かされた時は、よく理解できなかったでしょうが、それでもこの曲をボツにすることなく、みんなで一生懸命にものにしようと取り組んで素晴らしい作品に完成させたのです。 完成に近づいていくにつれて、手応えを感じたのではないでしょうか?
(2)いつでも簡単に聴けるが
ルーイスンは、続けてこう語っています。「我々は、今、多かれ少なかれボタンを押すだけで何でもできる世界に住んでいる。多かれ少なかれどんな音でもボタンを押すだけで聴くことができる。我々が聴いたことのないサウンドはあまりない。だから、既に知っている事実を捨て去り、これらを聴いたことがない時点まで自分自身を戻すことは難しいのだ。」
「それをポケットに入れたら、立ち止まって考える必要がある。50年経った今でも、足を止めてしまうようなレコーディングの一つである。彼らは、自分たちの能力にどれほどの自信を持っていたのか?音楽がどこに向かうのかというヴィジョンにどれほどの範囲があると彼らは考えていたのか?」
ファンは、既に知ってしまっているので、初めて聴く人以外は、新鮮な気持ちでは聴けません。それは仕方のないことですが、改めて聴き直してみて、やはりビートルズの偉大さを感じることはできるのではないでしょうか?
(3)改めて知る革命的なアルバム
レコーディングを振り返ってリンゴは、より率直に語っています。「ビートルズのキャリアを見ると、最後は少し足並みが揃わなかったが、カウントインが始まった後は、全員が全力を尽くしたので、何が起こっていても問題ではなかった。僕らは、お互いの心を読むことができた。」
こうして見てくると、ビートルズ全員が全身全霊をかけ、渾然一体となってこのアルバムの制作に取り組んだといえるかもしれません。そういう意味において彼らのアルバムの中で、最も彼らの芸術性や創造力がフルパワーで注ぎ込まれたアルバムといえるでしょう。
(参照文献)エスクアィア
(続く)
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