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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズが本気を出した(221)

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1 きっかけはポールの提案

(1)「Let It Be」の仕上がりに満足がいかなかった

前回の記事でビートルズが「Let It Be」の仕上がりに満足せず、もう一度真剣にアルバムを制作しようと「Abbey Road」の制作に取り掛かったと書きました。もう少し丁寧に説明すると、その先導役を務めたのはポールでした。

彼は、もう一度スタジオに戻って、ちゃんとしたアルバムを作るようにメンバーに働きかけたのです。ジョージとリンゴは、素直に応じてくれましたが、問題はジョンでした。実のところ、彼は、新しいアルバムの制作にはそれほど熱心ではなかったのです。

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彼は、1969年3月に結婚したばかりのヨーコとの新婚生活を楽しんでいて、彼らの実験的な音楽プロジェクト(Plastic Ono Band)に取り組んでいました。「Abbey Road」の制作は、7月1日に開始されていましたが、その3日後の7月4日にジョンは、Plastic Ono Bandのクレジットによる初のソロ・シングル「Give Peace a Chance(平和を我等に)」をリリースしていました。

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(2)ジョンも説得に応じた

つまり、ビートルズへの関心が一番薄れていたのは彼だったため、新しいアルバムの成否は彼の決断にかかっていたのです。ポールが熱心にジョンを説得した結果、彼は、ようやくレコーディングに参加することに同意しました。

今となっては、ジョンがよくポールの説得に応じてくれたと思います。それがなければ、あの最高傑作は誕生しなかったのですから。

この間のことを長年ビートルズのエンジニアを務めてきたジェフ・エメリックは「私は、彼らがいくつかの私的な会議を開き、これまでゴタゴタしてきたことを封印して、もう一度グループとして一緒に活動しようと決断したと信じている。」と語っています。

ビートルズとして新たなアルバムを制作することに初めは消極的な姿勢だったジョンも、メンバーと何度も話し合いを重ねていくうちに「ビートルズをこのまま終わせるわけにはいかない。」と考えを変えたのでしょうね。

 

2 ジョージ・マーティンにプロデュースを依頼

(1)再びマーティンと組んだ

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次のアルバムの制作に積極的だったビートルズとは裏腹に、プロデューサーのジョージ・マーティンは、むしろ消極的でした。

「「Let It Be」は、たとえ、いくつかの素晴らしい曲が含まれていたとしても、決して満足のいくアルバムではなかった。私は、これでビートルズは終わったと真剣に考えていた。私は、二度と彼らと一緒に仕事をすることはないと思っていたんだ。だから、ポールが私に電話をかけてきて「次のアルバムを作りたいからプロデュースしてほしい。」と言ってきたことには非常に驚いた。」

「私はすぐにこう応えた。「君が、我々がこれまでやってきたやり方でやってくれるならね。」すると彼はこう応えた。「ああ、そうしたいと思ってるよ。」「ジョンも加わるのかい?」「ああ、そうさ。」それで私は応えた。「本当にやりたいのなら一緒にやろう。もう一度集まってみよう。(でも)戻って行ってやりたくないようなたくさんの指示を受けなければならないとしたら、私は帰るよ。」

「それは、素晴らしいレコードだった。誰もがもうこれで最後だと思っていたから、とても素晴らしい作品になったと思う。」

(2)解散を意識はしていたが、確信まではしていなかった

ビートルズは、「Abbey Road」が彼らの最後のアルバムになるだろうから、ラストにふさわしい作品を世界に提示しようと考えていたと一般的には受け止められています。しかしながら、メンバーがビートルズが終わりを迎えようとしていると漠然とした意識を共有していたのは事実ですが、このアルバムの完成後に解散するとまで確信はしていませんでした。あくまでも「その日は、突然やってきた。」のです。

アルバムの制作にあたり、全員が心の中でビートルズの終わりは近いだろう。その日が来るまでに最高の作品を残してやろう。」とそれぞれが決意を固めていたというところでしょうか。中途半端に終わった「Let It Be」が最後の作品になるというのは、全員が納得いかなかったのでしょうね。ただ、彼らの思惑とは異なり、結果的には「Let It Be」が最後にリリースされた作品となってしまったのは皮肉でした。

 

3 ジェフ・エメリックも招集した

(1)ポールからの予期せぬ電話

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元々EMIのレコーディング・エンジニアでビートルズの実験的なアルバム制作に多大な貢献をしたジェフ・エメリックは、ビートルズが立ち上げたアップルのエンジニアとして招かれ、スタジオの整備をしていましたが、ポールから予期せぬ電話を受けました。

「やあ、ジェフ。どうしてる?」「いい感じだよ。新しいスタジオの費用がどの位かかるか、ちょっと整理しようとしていたところさ。」とエメリックは、ポールがスタジオの整備が順調に行っているかどうかを聞こうと電話してきたのだと思って応えました。

「それは気にしなくていいよ、ジェフ。もっと大事な話があるんだ。我々は、今年の夏にEMIに戻って新しいアルバムをレコーディングしようと思っているんだ。そのレコーディング・エンジニアを君に頼みたいんだよ。」

 

(2)懐疑的な気持ちは抱いたが

エメリックは、何の躊躇(ちゅうちょ)もせずに「それは、素晴らしい。」と応えましたが、今までに自分たちがやってきたのと同じようなやり方でできるのかと率直に尋ねました。やはり、そこが一番気になるところですからね。

彼は、ホワイト・アルバム制作のチーフ・プロデューサーでありながら、メンバー間のギスギスした雰囲気に耐え切れず、レコーディングの途中で抜けてしまいました。マーティンもエメリックも良く快諾したなと思います。「ビートルズは、今度こそ本気でスゴいアルバムを制作しようとしている。」と直感したのでしょう。

ポールは、「いい感じになってるよ。我々は、問題の多くを整理し、今回のスタジオはもっと良い雰囲気になっているだろう。今度のアルバムは、ジョージ(マーティン)がプロデュースしながら、我々がこれまでやってきたのと同じようなやり方でやろうと計画しているんだ。」とエメリックに語りました。

彼は、あまりにも楽天的なポールの話に懐疑的な気持ちを抱きましたが、それを自ら封印しました。「何が起ころうと、結局、私は、新たなビートルズのアルバムのエンジニアを務めることになるだろうと考えた。」彼は、根っからのポール信奉者でしたから、彼の行くところならどこでも行こうと決意したのでしょう。

こういった電話のやり取りを経た後、アルバム「Abbey Road」の公式セッションは1969年7月1日に始まりました。ビートルズは、プロデューサーのクリス・トーマスとともに、2月にスタジオで慌ただしくレコーディングしました。

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その中には、「I Want You (She's So Heavy)」「Oh! Darling」「Octopus's Garden」「Something」などの曲が入っていました。ビートルズの新たなアルバムの制作に取り組むため、ジョージ・マーティンの指示で、EMI Studio Twoが8月29日まで毎日午後2時30分から10時までに予約されました。  

(参照文献)THE BEATLES BIBLE, The BeatlesAbbey Road album review, Newsweek

(続く)

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