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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズとともに進化したジョージの作曲能力(461)

ジョージ・ハリスン・クイズ【全10問】

1 なかなか曲が採用されなかった

(1)遅咲きだった

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ビートルズのレコーディング・アーティストとしての大活躍が終わる頃には、ジョージ・ハリスンは、バンドメイトのジョン・レノンポール・マッカートニーと肩を並べるほどの作曲と演奏を行っていました。しかし、最初からそうだったわけではありません。

実際、ジョンとポールは1960年代初頭、ジョージのことをビートルとしては自分たちより格下だと考えていました。その理由の一つは彼がメンバーの中で最年少だったことですが、オリジナル曲のクオリティーも関係していたのです。後にジョンは、「ジョージの曲がそれほど良くなかった恥ずべき時期」について語りました。

(2)初期はほとんど採用されなかった

ジョンが言っていたのは1964年のアルバム「A Hard Day's Night」の頃のことだと思われますが、確かに、このアルバムではジョージの参加曲はありませんでした。「Sgt. Pepper」のレコーディング中にも、ジョージには荒波が押し寄せていました。彼は、このアルバムに「Within Without You」でしか参加していません。

ジョージは、このセッションの初期にもう1曲を紹介しましたが、採用されませんでした。スタジオでは、ジョンの無関心と、プロデューサーのジョージ・マーティンと彼のチームからの多くの否定的な反応が返ってきたのです。

みんなが「A Day in the Life」にオーケストラ・パートが追加されるのを待っている間、ビートルズは3曲の制作に取り掛かりました。ジョンがバンドを率いて「Good Morning, Good Morning」、ポールは「Fixing a Hole」、そしてジョージも自分の曲に挑戦しました。

 

 

2 「Only a Northern Song」は酷評された

(1)「Sgt. Pepper」には不採用

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その曲「Only a Northern Song」は、ジョージが紹介したときに嘲笑に近いものを受けました。ジェフ・エメリックは、自著「Here, There and Everywhere」に書いているこの曲を「弱々しい曲で、みんなうろたえた」と評しています。エメリックはまた、この曲が他のビートルをひるませ、ジョンがバンドに加わって基本的なトラックを作ることさえなかったと述べています。ジョージ自身も著作権がないことに対する不満をぶちまけたもので、胸を張れるような作品ではないと認めています。

ただ、ジョンは、後にピアノとエフェクトを加え、ポールとリンゴもベストを尽くしました。しかし、残念なことに結果は芳しくなく、翌日の夜にもう一度トライした後、バンドは「Sgt. Pepper」が完成するまでこの曲を再び取り上げることはありませんでした。

(2)「Yellow Submarine」に収録された

コントロール・ブースでの出来事を報告したエメリックは、ジョージ・マーティンが死の宣告をしたことを指摘しました。「ジョージがもっといいものを思いつかなかったのが残念だ」とマーティンはいつものように機転を利かせて言いました。その時点で「Only a Northern Song」を「Sgt. Pepper」に収録するのは奇跡的なことでした。その場にいた誰もがインスピレーションに欠ける音楽だと考えており、エメリックはこの曲を「不適切」と評していました。

ビートルズの関係者の誰もがこの曲を厳しく評価していたことは、この曲がアニメ映画のサウンドトラック・アルバム「Yellow Submarine」に収録されたことから理解できます。これは、彼らが規格外とみなした曲の受け皿だったからです。ただ、振り返ってみると、この曲はもっと評価されてしかるべきだったと言えるでしょう。バンドが「Yellow Submarine」のセッションでこの曲をサイケデリックで衝撃的なものに変えてからは、かなり魅力的になりました。

 

 

3 クラプトンをテーマにした「Savoy Truffle」

(1)クラプトンは親友だった

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ジョージとエリック・クラプトンは親友でした。ジョージの最初の妻、パティ・ボイドが彼と別れてクラプトンの妻になっても彼らの友情は変わりませんでした。普通は絶交しちゃうところでしょうけどね。ジョージは2人の友人であり続け、結婚式にも出席しました。彼は時折、冗談めかして自分のことを「義理の夫」と呼んだりもしました。

ジョージは、ビートルズのホワイト・アルバムに収録された彼の友人をテーマにして曲を書いたこともあります。ホワイト・アルバムのリスナーが「Savoy Truffle」を聴くと、軽快なオルガン・パート、ホーン、そしてエキゾチックなお菓子についてのジョージの辛辣なヴォーカルが聴こえてきます。サヴォイ・トラッフルとはチョコレートの種類です。ジョージは、クリーム・タンジェリン、モンテリマー、そしてハート型のパイナップルがのったジンジャー・スリングなどとスイーツの名前をこれでもか挙げます。そして、スイーツばかりを食べていると、歯を全部抜かなければならなくなるだろうと警告しています。この間、彼は、クラプトンが甘いものに目がないこと、そして、彼の虫歯の問題に言及していました。

(2)クラプトンをからかった

ジョージとクラプトン

1977年にジョージは、こう語っています。「エリックは甘いものが大好きで、口の中を治療したばかりだった。彼の歯医者は、キャンディはもうやめなさいと言っていた。だから敬意を表して、『サヴォイ・トリュフを食べたら、歯を全部抜かなきゃならなくなるよ』って書いたんだ」ジョージがそのアイデアを楽しんでいたのは明らかで、彼のサボイ・トリュフは、ある種の究極の治療でした。食べてもいいけど、そのあと歯が全部抜けるよと警告したのです。

1980年のインタヴューで、ジョージは、クラプトンがケーキやキャンディーなどに弱いことを詳しく語っています。「エリックはいつも歯痛に悩まされていたけど、それでもチョコレートをたくさん食べていた。彼は、チョコレートに我慢できなくて、一度箱を見たら全部食べなければ気がすまなかったんだ」いくつかのスイーツの変わった名前について、ジョージはあまり調べる必要はありませんでした。「エリックが僕の家に来たとき、テーブルの上に『Good News』のチョコレートの箱があって、蓋の中の名前から曲を書いたんだ」

ジョージは、歌詞の中にビートルズのリスナーにもう一つのお楽しみを用意しました。4番目のヴァースで、彼は、「Obla-Di-Bla-Da」と歌っていますが、これはポールの曲を引用したものです。ディストーションなしのブラス・セクションを聴きたい人、あるいはエリック・クラプトンのようにまだ歯痛が残っている人でない限り、全体として、この曲は爆笑ものでした。

 

 

4 「Something」と「Here Comes The Sun」はそれほど評価していなかった

New Beatles' 'Abbey Road' Reissue Unveils Rare Outtakes, Demos

ファンやロック評論家は、ジョージの「Abbey Road」制作に熱狂しましたが、彼は、ビートルズ最後のスタジオ・アルバム制作中に天啓を得たとは感じていませんでした。彼にとってこのアルバムは、これまで制作してきたものと同じクオリティーのものであり、ただ少しラジオ向きにアレンジしただけなのです。

ジョージは、「『Something』と『Here Comes The Sun』はいいと思った」と1969年にデヴィッド・ウィッグに語っています。「ちょっと売れ線の作品かもしれないが、曲としては(「White Album」に収録された私の曲より)あまり良くない。だから、自分の中ではこの騒ぎが何なのかわからないんだ」

これは驚きです。あんな名曲をジョージ自身があまり評価していなかったとは。彼は、世間が大騒ぎしていたのを不思議に思っていたんですね。ただ、ジョージがホワイト・アルバムに「While My Guitar Gently Weeps」と「Long, Long, Long」を収録していたことを考えれば、それは一理あるかもしれません。実際、ファブ・フォーが唯一のダブル・アルバムをレコーディングしたとき、ジョージはもっと多くの曲を持っていました。

 

 

5 採用されなかった「Not Guilty」と「Sour Milk Sea」

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ビートルズがレコーディングを始めたものの断念した「Not Guilty」に加え、ジョージは「Sour Milk Sea」という「White Album」に合うと思われるゴージャスな曲を持っていました。しかし、いくつかの理由でレコードには収録されませんでした。「Not Guilty」はビートルズが演奏するにはトリッキーすぎたかもしれませんが、「Sour Milk Sea」「White Album」に収録されなかったのは、ジョージがこの曲を手放したからです。

アップルとの最初の契約者であった友人のジャッキー・ロマックスが、アルバム制作の準備をしていました。ジョージは、彼が良いスタートを切れるようにと、この曲を提供したのです。ロマックスは、喜んでこの曲をアップルからのデビュー・シングルとして選びました。ジョージは、単に質の高い曲を与えただけでなく、この曲をプロデュースし、レコーディングにも参加しました。

それだけでは足りないと、ジョージはポール、リンゴ、そしてクラプトンを68年6月のセッションに参加させました、ピアノは、ニッキー・ホプキンスが弾きました。要するに、ジョージは最初のアップル・レコードの日にオールスター・バンドをロマックスに提供したのです。彼の人柄が偲ばれますね。

しかし、この曲は、誰もが期待したほどの成功とはなりませんでした。クラプトンと3人のビートルという超豪華メンバーを従えても、UKチャートにはまったく入らなかったのです。アメリカでもトップ100に入れませんでした。ジョージは、もっと自己主張して自分でこの曲をビートルズのアルバムに入れるか、それがダメならソロアルバムに収録してリリースすべきだったのかもしれません。それならチャート入りはしていたでしょう。

(参照文献)チートシート

(続く)

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