★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

アメリカにビートルマニアを誕生させたブライアンの「オペレーションU.S.A.」(462)

エドサリヴァン・ショーに出演したビートルズ

1 全米を熱狂させてから60年

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2024年は、1964年2月9日、ビートルズアメリカのエドサリヴァン・ショーに登場して世界的なスーパースターの地位を確立してからちょうど60年になります。これまで世界中で何度も取り上げられている話題ではありますが、今年はちょうど60周年の記念の年に当たるので改めて振り返ってみます。

ブライアン・エプスタインは、アメリカでの大成功のための戦略「オペレーションU.S.A.」の設計に数ヶ月を費やしました。1964年2月7日、ビートルズは、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港のパン・アメリカン101便の狭いジェット機のタラップを降り、彼らの登場に狂喜して絶叫する何千人もの若者たちの群れに笑顔で手を振りながら歩いていきました。それから2週間、彼らは「エドサリヴァン・ショー」に3回出演して記録的な観客を動員し、カーネギー・ホールとワシントン・コロシアムでチケットが完売するというコンサート・パフォーマンスを行いました。

そして、全米のAMラジオ局は、彼らのヒット曲を放送が飽和状態に達するまで流し、彼らは、ニューヨーク、ワシントンD.C.、マイアミの報道陣を小生意気なユーモアであしらい、彼らの戦闘意欲を失わせる一連の記者会見を行いました。コメンテーターたちは、目の前で起きていることのパワーを表現する言葉を失い、「旋風」「高波」「文化的地震」といった自然現象になぞらえるしかありませんでした。

 

 

2 ブライアン・エプスタインの多大な功績

(1)周到な計画

ブライアン・エプスタイン

しかし、60年前に起きたビートルズアメリカ征服は、決して自然発生的なものではなく計画的に起こされたものでした。そして、そのことに最も責任を負っていたのは、上品で自信に満ちた29歳のマネージャーであるブライアン・エプスタインでした。しかし、意外なことに彼は、正当な評価を受けていない面もあったのです。

その理由の一つは、イギリスの法律がまだ同性愛行為を犯罪とみなしていた時代に彼が同性愛者であったこと、そしてもう一つは、イギリス社会がほとんど軽蔑していたユダヤ人だったことです。どちらも今では考えられませんと言い切りたいところですが、未だに根強く差別が存在していることは事実です。

また、彼がジョンとポールにサインさせた契約のせいで、最終的にはビートルズが自分たちの楽曲の著作権を失ってしまったという大失態のため、次第に彼への態度が冷淡になりがちになり、1967年に彼が亡くなった後、それをビートルズが酷評したことも原因です。確かに、失敗と言えばその通りなんですけど、ほとんど騙されたようなもんなんですけどね。

(2)アイドル「ビートルズ」を完成させた

それでも、ビートルズが10代の聴衆を惹きつけてやまなかった高揚感、ユーモア、音楽的創造性を持っている彼らを発掘し、演技と外見を磨き、規律を植え付けたのはブライアンでした。彼の魅力、粘り強さ、揺るぎない献身がなければ、ビートルズはイギリスはおろか、故郷のリヴァプールから離れることもなく、アメリカに進出することもなかったでしょう。

エドサリヴァンのプロデューサーで義理の息子でもあったロバート・プレヒトは、40年後を振り返って、作家のジェラルド・ナックマンにこう語っています。「私の考えでは、すべてを仕組んだのはエプスタインだった。プロモーションやラジオへの露出、ビートルズの方向性など、ほとんど彼の手によるものだった。それはすべて彼の作戦だった」彼は、アメリカ全土をビートルマニアで埋め尽くそうと、事前に周到な戦略を練って見事にそれを成功させたのです。

 

 

3 ブライアンの生い立ち

(1)ビートルズとの出会い

キャヴァーン・クラブで演奏するビートルズ

1961年11月のある日の午後、リヴァプールダウンタウンにある地下のミュージック・クラブ、キャヴァーンにふらりと立ち寄った彼は、奇妙な昆虫の名前を持つ地元のロックンロール・バンドを初めて耳にしました。彼は、彼らの音楽にはあまり興味がありませんでしたが、黒いレザーに身を包んだ4人のハンサムな若者たちの無愛想でラフなルックスに魅了されました。

ブライアンは、使命を求める男でした。裕福な正統派ユダヤ商人の家の長男として生まれた彼は、この地方に家具、白物家電、音楽の店を5店舗チェーン展開していました。彼は、正規の教育を終えるまでに8つの私立学校を退学、あるいは中退しています。

本人曰く、自分に知性がなかったわけではないが、学校は退屈で他の生徒からいじめられ、教師や両親からは、デッサンやドレスのデザイン、舞台俳優といった創造的な趣味を追求する意欲を削がれていました。16歳になる頃にはリヴァプールに戻り、家業のセールスマンとして働いていました。

(2)オシャレな男

中肉中背の繊細なハンサムで、きらきらと輝く青い瞳、ふっくらとした唇、きれいに整えられた茶色のカーリーヘア。オーダーメイドのスーツとシャツ、シルクのネクタイ、カーフスキンの靴を好んで履いていました。彼は、見た目も香りも完璧で、まるで香水風呂から出てきたばかりだと、あるファンから指摘されたこともあります。

彼を大事にしていた母親は、彼にクラシック芸術と音楽への理解を植え付け、父親は、彼に家業での役割を受け入れるよう迫りました。しかし、ビジネスの才能を開花させる一方で、商人としての生活は退屈で、彼は、何度もロンドンへの逃避を試みました。しかし、物事がうまくいかなくなると、彼は、いつも実家と事業に引きこもったのです。

もちろん、両親を愛し、尊敬しながらも、それでもなお、窒息しそうな束縛から逃れたいと感じることはあり得ます。特に、両親を打ちのめすとわかっている秘密であることを持っている場合はなおさらです。

(3)同性愛者だった

ブライアンの秘密は、セクシュアリティでした。同性愛が犯罪であると同時に、危険で伝染しやすく違法な疫病のようなものと考えられていた時代に、彼は同性愛者だったのです。そして、発覚した場合の影響から身を守るため、彼は二重生活を送り、しばしば無理をして立派さを装っていました。

特に、1957年にロンドン北部の地下鉄駅の男子トイレで覆面警官を誘惑した罪で逮捕され、有罪判決を受け、保護観察処分を受けた後は、両親を困惑させてしまったことに苦悩しました。しかし、同性愛者に対するおとり捜査が行われていたとは驚きです。

ビートルズを見て、彼らが若い聴衆に与えた衝撃的な影響を観察することは、彼にとってスリリングなことでした。クレイグ・ブラウンの著書「A Cellarful of Noise」の中で、ブライアンは、こう回想しています。やがて彼は、耳を傾ける人なら誰にでもこう話すようになった「いつか彼らは、エルヴィス・プレスリーよりもビッグになると確信している」

 

 

4 ブライアンのアイドル戦略

(1)不良からアイドルへ

トレード・マークとなった襟なしスーツ

ブライアンは、RADA(イギリスのロンドンにある王立演劇学校)で培った演劇の技術を生かし、黒のレザージャケット、破れたブルージーンズ、安物のカウボーイブーツを捨てさせ、ダークグレーのモヘアスーツとピエール・カルダン風の襟なしラの衣装に身を包むよう主張しました。彼専属の理髪師は、彼らのプリンボウルのような髪型を整え、形を整えました。

リハーサルしていない曲のリクエストに応じたり、長時間のソロを入れたりするのは禁止しました。演奏中は笑顔を絶やさず、1曲終わるごとに厳粛にお辞儀をするようにとも指示しました。これがブライアンが仕掛けた「不良」から「アイドル」への変貌です。

彼がしなかったことは、ビートルズの不遜で奔放な集団的個性を抑えさせることでした。彼らは、戦後イギリスの若者を擬人化したような象徴的な存在になりました。誇り高く、恐れを知らず、反抗的でありながら、攻撃的というには少し控えめでした。この匙加減が絶妙で、彼らはアイドルでありながら、古い考え方の大人に対して反発する若者たちの代表になったのです。

(2)ロンドンの分厚い壁

ブライアンは、商業的成功への道がロンドンを通っていることを理解していました。しかし、ロンドンから遠く離れたリヴァプール出身のギター・バンドは、ショービジネスで活躍できるのはイギリスの首都で生まれ育ったアーティストだけだと確信しているエンターテイメントの巨頭には、なかなか自分たちを売り込むことができませんでした。

イギリスのレコード音楽の約80%を支配する巨大企業であるEMIとデッカの両方から拒絶されたブライアンは、EMIのマイナー・レーベルの一つであるパーロフォンのプロデューサー、ジョージ・マーティンに出会いました。彼の献身的な努力がこの運命的な出会いを引き寄せたのです。

ブライアンと同様、クラシック音楽の教育を受けたマーティンは、バンドのウィットとカリスマ性に魅了され、彼らに自作曲のレコーディングを許可し、レコーディング・スタジオでの作品の磨き方と見せ方を教えました。マーティンは、彼の的確なアドヴァイスを受けたジョンとポールがシンプルで情熱的な歌詞であり、印象的で独創的なメロディーを作り始め、若い女性リスナーを魅了したことに驚きました。1963年11月までに、彼らは250万枚以上のレコードを売り上げ、自分たちのラジオ番組を持ち、コンサートでは絶叫するティーンエイジャーの群衆を引きつけ、イギリスの新聞は彼らを「ビートルマニア」と呼んだのです。

(参照文献)ザ・ワシントン・ポスト

 

 

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