1 オペレーションU.S.A.
(1)ビートルズのアメリカ上陸作戦
ブライアン・エプスタインは、ビートルズのアメリカ進出を自ら「オペレーションU.S.A.」と名付けていました。正にビートルズの「アメリカ上陸作戦」ですね。彼は、ビートルズが世界を征服するためには、アメリカでの成功が不可欠だとわかっていたのです。
1963年、ブライアン・エプスタインは、ニューヨーク行きの飛行機に乗り、パーク・アヴェニューのリージェンシー・ホテルのスイートを予約しました。彼は、ビリー・J・クレイマーを同行させていました。
クレイマーは、その頃契約したばかりのリヴァプール出身のハンサムな20歳のシンガーで、レコーディング・スタジオでのマーティンの専門知識とレノン=マッカートニーのヒット・マシーンから提供された曲のおかげで、そのキャリアは飛躍的に伸びていました。クレイマーは、このセンセーショナルな新ブリティッシュ・バンドについて話を聞こうと招かれたニューヨークのジャーナリストや音楽業界のプロモーターたちを魅了しようと準備していました。
(2)ビリー・J・クレイマーを売り込んだ
しかし、アメリカのメディアの反応は一様に「それがどうした?」という冷淡なものでした。クレイマーは、回顧録「Do You Want to Know a Secret?」の中で振り返っています。彼らは、イギリスのポップミュージック・グループがアメリカで大ヒットを飛ばした前例がないことを知っていたのです。
「彼らは、(私に)あまり感心をもっていないようだった」ビートルズがエド・サリヴァン・ショーでアメリカを席巻するまで、イギリスのポピュラー音楽は、アメリカからは見向きもされていませんでした。
リヴァプールの旧友がエプスタインをルックという雑誌の若いジャーナリスト、デヴィッド・ガラード・ロウに紹介しました。しかし、ルックの編集長は、長髪の男性の写真は絶対に掲載しないとバッサリ切り捨てたのです。
「彼は、まるでそこに何もないかのように写真を見下していた」とロウは電話インタヴューでそのことを回想しました。まあ、仕方ないですね。ビートルズがブレイクするまで男性の長髪は全く社会に受け入れられていませんでしたから。
2 エド・サリヴァンとの偶然の出会い
(1)全米制覇の確信があった
もし、ブライアンがそのことに失望していたとしても、彼は、そんな素ぶりも見せませんでした。「私は、アメリカはビートルズを受け入れる準備ができていると思う」と、彼は「トーク・オブ・ザ・タウン」という雑誌でニューヨークの記者であるトーマス・ホワイトサイドに語りました。
「彼らが来れば、この国を6回打ちのめすだろう」ブライアンは、ビートルズの音楽がアメリカのティーンエイジャーにも受け入れられると自信満々でした。まあ、イギリスで受け入れらるまで散々苦労しましたから、売れるのにある程度時間がかかることは想定していたんでしょう。
(2)ターゲットはエド・サリヴァン・ショー
彼の主な目的は、ビートルズがアメリカの最高視聴率を誇るTVバラエティ番組「エド・サリヴァン・ショー」に出演する契約を結ぶことでした。ビートルズとの偶然の出会いがサリヴァンに出演契約を結ばせるきっかけとなりました。
彼と妻のシルヴィアは、ロンドンでの休暇から帰る途中、スウェーデンでの短期間のコンサート・ツアーから帰国したビートルズを歓迎する何千人もの若者たちが空港の滑走路を埋め尽くす中、飛行機が3時間も遅れたという話を聞かされました。「ビートルズって誰だ?」サリヴァンは、そう言ったと言われています。彼は、それまでビートルズを全く知らなかったのです。
3 サリヴァンの能力
(1)アーティストの才能を見抜く能力があった
テレビの興行主になる前、サリヴァンは、スポーツ記者やブロードウェイのコラムニストとして働いており、ジャーナリスティックな直感があることを自負していました。「私は新聞記者だから、1面トップの現象が起こるたびに、それが無名のプレスリーであろうと、無名のビートルズであろうと......私が新聞社で鍛えられた能力は、本能的に1面トップの記事を1面トップのショービズの魅力に変換することでにある」と、彼は、イギリスのエンターテイメント界の大物レスリー・グレードに宛てた手紙の中で自慢しました。彼は、新聞のトップを飾る記事を必死で探すジャーナリストの経験を生かし、無名の新人であってもその才能を見抜く能力に自信を持っていたのです。
(2)エド・サリヴァン・ショーへの出演をオファー
ブライアンとサリヴァンは、11月11日、デルモニコ・ホテルにあるサリヴァンのアパートで面談しました。サリヴァンは、1956年と1957年にプレスリーに3回の公演で5万ドルを支払い、メンフィスの新進気鋭のエンタテイナーをライヴァルのテレビ番組から引き抜こうとしました。
サリヴァンは、1964年2月9日にニューヨークで1回、翌日曜日にマイアミのドーヴィル・ホテルからの特別放送として2回目の出演をオファーしました。ブライアンはこの条件に同意しましたが、同時にビートルズが両方の番組で、出番をトップにするよう主張しました。
サリヴァンは戸惑いました。サリヴァンのプロデューサーであるプレヒトは、アメリカではほとんど無名のイギリスのグループをトップに出演させるのは「馬鹿げている」と彼に言いました。この辺りは、ブライアンの強気な戦略が成功したというところです。
4 ギャラなどどうでもいい
(1)3回連続で出演させた
翌日の夜、プレヒトと一緒に夕食を共にした2人は、ビートルズがロンドンに戻った後の2月23日に、3回目の録画放送をすることに合意しました。グループは、合計10,000ドルを受け取ることになりました。
この内容にブライアンは、満足して帰宅しました。「私の交渉はお金ではなく、出演についてだった」と、後に彼は、ビートルズの広報担当であるトニー・バーロウに説明しました。「新人バンドがヒット・レコードを連発することなく、3回連続でブッキングされるなんて前代未聞だ」
まだアメリカでは無名の新人に過ぎなかったビートルズが3回連続で出演することなど、常識的にありえませんでした。超人気番組に出演することで、彼らの知名度を一気に上げようとしたブライアンの強気な姿勢が功を奏した面もありますが、サリヴァンのビートルズを出演させれば視聴率が上がるという鋭い直感が働いたのです。
(2)ブライアンにしてやられた
サリヴァンはすぐに、口が達者なブライアンにしてやられたと不満を漏らしました。「エドは本当に怒っていた」と、番組のアソシエイト・ディレクターであるジョン・モフィットは、録音されたオーラル・ヒストリーのインタヴューで回想しています。
サリヴァンは、タレント・コーディネーターのジャック・バブに語りました。「お金じゃないんだよ、ジャック。誰が3回も見たいかってことだよ。彼らは、パッとしない。今はホットだけど、最後のショーにはギャラを払わなきゃならないんだ」
サリヴァンは、ギャラの高さよりもアメリカでは無名の新人を3回連続で自分の人気番組に出演させることのリスクを憂慮しました。いくらなんでもやり過ぎだと後悔したんですね。それはそうです。流石に人気絶頂のミュージシャンであっても、同じ番組で3回連続で出演したら飽きられるでしょう。
失敗したらサリヴァンは、世間から手厳しい評価を受けます。しかし、彼は、自分の直感を信じてビートルズに賭けたのです。それが結果的に彼にとってもビートルズにとっても大成功となったのです。
5 アメリカでレコードを売ることこそが重要
(1)レコードが売れなければ意味がない
サリヴァンとの契約は非常に重要でしたが、ブライアンは、ビートルズにとってはそれ以上にもっと必要なことがあるとわかっていました。ビートルズ自身は、アメリカでヒット・レコードを出さない限り、アメリカには行けないと彼に話していました。
彼らもエプスタインと同じように、半端に空席のある劇場で演奏することになるか、もっとひどいことになることを恐れていました。彼らの前に大きく立ちはだかったのはアメリカのレコード会社だったのです。
(2)キャピトル・レコードという巨大な壁
キャピトル・レコードは、ハリウッドを拠点とする会社で、ベニー・グッドマン、ナット・キング・コール、ペギー・リー、ディーン・マーティン、フランク・シナトラといったキラ星のようなエンターテイナーたちを抱えていました。1955年、EMIは、キャピトルの95%の株式を購入しました。この契約により、キャピトルはEMIのアーティストのアメリカでの権利を優先的に獲得できるようになったのです。
でも、不思議ですね。EMIがキャピトルを買収したのなら、ビートルズのレコードをすんなりリリースできたはずですが。キャピトルはEMIの子会社ですから、うちのミュージシャンの曲をレコードとしてリリースしろと言えそうに思いますが。
(参照文献)ザ・ワシントン・ポスト
(続く)
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(追記)私が出演した舞台「誠の証明」にたくさんのお客様がご来場いただきました。厚くお礼申し上げます。