1 キャピトルはビートルズを拒否した
(1)彼らのことは忘れてくれ
ビートルズが1963年を通してイギリスで次々とヒットを生み出していたにもかかわらず、キャピトルの重役たちは、彼らの曲をアメリカでレコードとしてリリースすることを拒否しました。彼らは、「アメリカの聴衆は、無名のイギリスのロックンロール・バンドには興味がない」という呪文を何度も何度も繰り返しました。
ビートルズの最初のイギリス・シングル「Love Me Do」を皮切りに、ヒット曲の可能性を国際市場で監視する責任者であったデイヴ・デクスター・ジュニアは、一貫してビートルズを否定していました。彼は、キャピトル社長のアラン・リヴィングストンにこう語りました。「アラン、彼らは長髪の子どもたちの集まりだ。彼らは何でもない。忘れてくれ」
この事実は、人が固定観念に囚われることがどれだけ成功を妨げるかをよく教えてくれます。ただ、デッカ・レコードと異なり、キャピトルは、最終的にはビートルズを受け入れました。危うく金の卵を産む鶏を逃がしてしまう寸前で捕まえたのです。
(2)弱小レーベル
ビートルズを否定したキャピトルに怒りと苛立ちを覚えたエプスタインは、シカゴを拠点とする黒人所有の無名のレコード会社、ヴィー・ジェイと配給契約を結び、「Please Please Me」と「From Me to You」をリリースしましたが、まったくヒットしませんでした。この会社は、ファースト・シングルでバンド名のスペルすら「The Beattles」と間違えていました。いやはや酷いもんです。
その後、ブライアンは、「She Loves You」をフィラデルフィアの小さなレーベルであるスワン・レコードにライセンスしました。しかし、これもヒットしませんでした。やはり、大手のレーベルがリリースして派手にPRしないとどんな素晴らしい曲でもヒットしないんですね。
2 ようやくビートルズに目を向けた
(1)ついにキャピトルが動いた
ニューヨークからロンドンに戻ったブライアンは、キャピトル社長のリヴィングストンに電話をかけました。ブライアンは、リヴィングストンにビートルズがリリースを予定している「I Want to Hold Your Hand」には、彼が「アメリカン・サウンド」と呼ぶものがあると告げ、キャピトルの社長にこの曲を聴いてくれるよう懇願した。リヴィングストンは後に、この曲に魅力的なものを感じ、配給を決めたと主張しています。彼は、ニュー・シングルの宣伝に4万ドルを投じるというブライアンの要求にも応じました。ようやくキャピトルもビートルズを認めて彼らのPRに本腰を入れたのです。山が動いた瞬間でした。
2000年に発表されたBBCのインタヴューで、彼はこう回想しています。「私は、電話で話したブライアンが好きだった。彼は紳士で、説得力があった」それはおそらく間違いないでしょう。しかし、より信憑性の高い証言は、EMIと仕事をしていたアメリカのエンターテイメント専門の弁護士、ポール・マーシャルによるものです。
(2)EMIも後押しした
彼によれば、EMIのジョセフ・ロックウッド会長は、ビートルズの楽曲がイギリスで数百万ポンドを売り上げていることを強く認識しており、アメリカでも同じことができると信じていたと伝えています。ロックウッドは、タイム誌にお気に入りのレコードは何かと尋ねられたことがありますが、即座に「売れるレコード」と答えました。
キャピトルの反射的な拒絶反応は彼を困惑させました。彼は、ついにEMIのマネージング・ディレクター、L.G.ウッドをニューヨークに派遣し、リヴィングストンと対決させました。「L.G.はもう何も求めなかった」とマーシャルは、ビートルズの伝記作家ボブ・スピッツに語っています。彼は、リヴィングストンにこう語りました。「あなたは、彼らを受け入れるべきです」それ以上何も言う必要はないということでしょう。
3 ようやくアメリカも認めた
(1)マスコミが認め始めた
ビートルズに有利に働いた要因の一つは、アメリカのマスコミがようやくビートルズを文化現象として注目し始めたことでした。ニューヨーク・タイムズ紙の小さな記事は、10月下旬にエド・サリヴァンが目撃したというロンドン空港での乱痴気騒ぎについて報じていました。CBSとNBCの夜のニュース番組は、冷ややかな目ではありましたが、この興奮をすぐに取り上げました。NBCのエドウィン・ニューマンは、ビートルズの快進撃に関する多くのネットワーク・ニュースの中で、「ビートルズ人気の理由の一つは、彼らの声を聞くことがほとんど不可能だということだ」と結論づけました。
(2)ラジオが放送し始めた
それでもまだ懐疑的なキャピトルの重役たちは、「I Want to Hold Your Hand」の発売日を1964年1月12日に設定し、当初は5,000枚しかプレスしない予定でした。しかし、アメリカの大衆は、待てませんでした。12月初旬、「CBSイブニング・ニュース」でイギリスのビートルマニアに関する4分間の報道を見たマサチューセッツ州シルバー・スプリングに住む15歳のマーシャ・アルバートは、地元のWWDC-AMのラジオ・ディスクジョッキー、キャロル・ジェイムズに手紙を書き「なぜアメリカでこの音楽が聴けないの?」と訴えました。
ジェイムズは、BOAC社で働くCAの友人に、ダレス行きの次の便でこのディスクのコピーを持ってこさせました。彼は、マーシャを放送に招き、そのレコードを毎晩の番組でヘヴィー・ローテーションで放送しました。彼はまた、シカゴ、セントルイス、ロサンゼルスのディスクジョッキーに無許可のテープを配布しました。キャピトル・レコードの弁護士がキャロルに中止を求めましたが、彼は無視しました。もちろん、著作権を侵害する違法行為ではありますが、この場合は、キャピトルもビートルズも強力なPRになったと喜ぶべきでしょう。
4 キャピトルの壁を破壊した
(1)ミリオンセラーを達成
ついに現実に屈したキャピトルは、発売日を1月12日から12月26日に変更し、必死に注文を増やしました。キャピトルはまた、500万枚の「ビートルズがやって来る!」と銘打ったステッカーを注文し、それを国中に配り、男性社員にビートルズのカツラをかぶって仕事をするように命じました。これって東芝の高嶋弘之さんが日本でビートルズを宣伝したのと同じ手法ですね。
しかし、キャピトルが土壇場になって経費を注ぎ込んだことは、ビートルズの突然の成功の些細な要因にすぎないことは、後にリヴィングストンも認めています。1月10日までに「I Want to Hold Your Hand」は100万枚を売り上げ、キャッシュボックス・チャートで1位を獲得しました。また、キャピトルからリリースされたアルバム『ミート・ザ・ビートルズ』は、バンドがニューヨークに到着するまでに1位を獲得しました。
(2)ラジオ局も飛びついた
従来とは異なる情報源も手伝って、ビートルズに関する報道は急増しました。ライフ誌の編集者ジョージ・ハントは、10代の娘がハイウェイの陸橋でラジオの電波が妨害されない場所に車を止めさせ、「I Want to Hold Your Hand」を聴き入っていたことをきっかけに、1月に5ページの見開き記事を任されました。
それよりも重要だったのは、AMラジオのトップ40が好意的な評決を下したことです。ニューヨークの三つの主要トップ40局、WABC、WMCA、そして比類なく熱狂的な「マーレイ・ザ・K」カウフマンが率いる攻撃的で小規模な競合局WINSは、緊急の「ビートルズ・ウォッチ」を作り、「I Want to Hold Your Hand」をはじめ、ニューアルバムやヴィージェイが再発売したビートルズのカットを、手に入る限りすべて流していました。ビートルズがニューヨークに発つと、三局は飛行機がJFK空港に着陸するまでの時間をカウントダウンし、大群衆に包囲された空港から最新情報を生中継しました。
5 レコードを売るのはラジオ
(1)ラジオが重要
「レコードを売るのはラジオだ」とキャピトル重役のブラウン・メッグスはニューヨーク・タイムズに語りました。「ビートルズは信じられないほどラジオで取り上げられた。この国では、ラジオで驚異的に放送されない曲がヒットすることはなかった」この当時は、曲が売れるためには、ラジオ局が何度も放送してくれることが何より重要だったのです。
ニューヨーク、ワシントン、マイアミでの2週間は、ビートルズを世界的名声へと押し上げました。1964年の最初の3か月間で、彼らは、アメリカで売れたレコードの60%を占めたと推定されています。その年のトップ40には19曲がランクインし、2,500万枚のレコードを売り上げました。それは、すべてが必然であるかのように思わせた最初のアメリカ訪問でした。ここへ来てついにビートルズは、アメリカを征服したのです。
(2)ポールの回想
ポールは、自著「1964: Eyes of the Storm」でこう回想しています。「1964年2月末、アメリカを訪問し、『エド・サリヴァン・ショー』に3回出演した後、僕らはついに、当初恐れていたように、多くのグループがそうであったように、僕らがただ消えていくことはないだろうと認めざるを得なくなった。僕らはもっと重大なこと、文化における革命の先陣を切っていたんだ」ビートルズは、ついに全米を制覇したのです。それだけではなく社会や文化にも大きな影響を与えました。
そして、ポールがかつてBBCに語ったお気に入りの思い出の一つが、この責任者のことでした。「水玉模様のスカーフを巻いたブライアンが観客の後ろにいて、自分の息子たちを誇らしげに眺めていた」キャヴァーンの下積み時代に彼らを発見し、彼らの成功を信じてここまで育て上げたブライアンも万感の思いだったでしょう。
(参照文献)ザ・ワシントン・ポスト
(続く)
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