1 ジョージの言葉に触発された
(1)ジョージが不満をぶちまけた
タイトルを見て「おいおい、ジョンが最初にビートルズを脱退するって言ったんじゃなかったのか?今さらちゃぶ台返しかよ!」と思われた方もいるかもしれませんが、決して、そういうことではないんです(^_^;)
前回までの記事で、ジョンがトロントのロックフェスティヴァルのコンサートで成功を収めたことで、ビートルズを脱退する決意を固めたと書きました。それは、もちろんその通りなんですが、もう少し遡ってみると、彼にそう思わせたきっかけというか、伏線があったような気がします。
ビートルズからの脱退を最初に口にしたのは、実はジョージだったんです。1966年、彼らの名声が爆発的に高まるにつれ、彼らのライヴは混乱の極みに達して、ファンの絶叫で彼らの演奏は全く聴き取れないようになっていました。
護衛する警察の扱いもぞんざいになり、彼らはまるで囚人のように護送車に乗せられました。警官の乱暴な運転で芋を洗うように転がされて、コンサート会場まで連れて行かれ、同じようにホテルまで送り届けられました。警察も「何でオレたちが要人でもないただのミュージシャンのために駆り出されるんだ?」と不満を抱くようになっていたんです。ジョージは、たまりかねて「こんな状況が続くんなら、僕は、もうビートルズを辞める。」と言い出したのです。
もちろん、本当に辞めるという意味ではなく、もうこんな生活はたくさんだとメンバーに不満をぶちまけたんですね。そんな状況でもポールはずっと我慢していたのですが、ジョンにとってはそれが「終わりの始まり」でした。
(2)ジョンの気持ちに変化が
彼は、こう語っています。「ビートルズが存在しない人生を考え始めたのはその時だった。そうなったら、どうなるんだろう?そしてその時、他の連中から捨てられずに、どうにかして抜け出さなければならないという種がまかれたんだ。」
つまり、ジョージの言葉にジョンが触発されたんですね。彼は「ビートルズが存在しない人生」なんてそれまで考えてもみませんでした。その時は、まだ漠然としたものにすぎませんでしたが、それまで人生のすべてをビートルズに集中していた彼の心に微妙な変化が生まれたんです。
このブログの(255)の記事で書きましたが、1966年8月17日にカナダのメイプルリーフガーデンで開催されたビートルズのコンサートでの記者会見で、ジョンは、「僕たちは解散するか、前進するかのどちらかしかない...そうなるかもしれない。可能性はかなりあるよ。」と発言しました。
これは、ビートルズが解散する可能性があることについて、メンバーが言及した初めての発言だと思います。もちろんこの時は解散するなんてさらさら考えていなかったのですが、いつまでもこんなことを続けていられないという気持ちになっていたのは事実です。ジョンの心の池に小さな水滴が落ち、そこから次第に波紋が拡がり、やがてそれが大きな波になっていったのです。
2 ほころびが見え始めた
鉄の結束を誇っていたビートルズのメンバーにも徐々にほころびが見え始めてきました。1967年にリリースされた「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」は、彼らにとって最初で最後となったいわゆるコンセプトアルバムであり、サイケデリックの本質を捉えたものでした。
正に60年代を象徴する作品であり、芸術作品としても商業的にも大成功を収めたのですが、この作品の制作にポールが強く関与したため、バンドの権力構造に変化が生ずることになりました。それまでは、ジョンがリーダーとしてビートルズを牽引していたところに、ポールが急激に頭角を現し二頭政治になったのです。一つの船に船頭が二人存在することになってしまい、バンドのパワーバランスが崩れ始めました。
この時点から、ポールは、その年のクリスマス・テレビ・スペシャルやアルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」のような自身が発案したプロジェクトを企画、監督するようになり、他のメンバーが、彼の支配的で時には見下した態度に不満を持つようになったのです。
なぜ、ポールがこのような行動をとるようになったのか?それは、彼らを下積みの頃から育ててきた敏腕マネージャーのブライアン・エプスタインが、32歳の若さで他界したという大きな不幸に見舞われたことに起因します。ポールは、このまま何もしなければビートルズは崩壊してしまうと危機感を抱いて、様々なプロジェクトに取り組んだのです。
ただ、彼の思いとは裏腹に、彼が何とかしようとすればするほど、他のメンバーには「あいつはでしゃばりすぎだ」という不満がたまるようになっていきました。ポールにしてみれば良かれと思ってやっていたことなんですが、それが結果として裏目に出てしまったんですね💦
彼は、決して自己中心的な人ではなかったのですが、ジェフ・エメリックから「ワーカホリック」と呼ばれたほど、仕事になるとのめり込んでしまうところがありました。ソロならそれでも良かったのですが、バンドとなると協調が必要ですからね。
これは、ビートルズに限らずですが、バンドの場合、メンバーの一人が突出してしまうと他のメンバーが不満を持つという、いわば負の相関関係にあるといえます。それで、メンバーが脱退したり、解散したバンドは星の数ほどあります。
3 ジョージの不満
ポールのこうした言動は、特に、自分が過小評価されていると感じて悩んでいたジョージを苛立たせました。1966年にリリースされたアルバム「Revolver」で、彼は、3つの素晴らしい作品「Taxman」「Love You To」「I Want to Tell You」を提供し、そのことで彼のコンポーザーとしての能力が飛躍的に進歩していることを示しました。
しかし、レノン=マッカートニーのパートナーシップは、彼の前に厚い壁となって立ちはだかったのです。彼は、自分の貢献が公平に評価されていないと感じていました。彼は、こう語っています。「彼らが僕の曲を聴く前に、彼らの曲を8曲ほどレコーディングしなければならなかったんだ。」
ジョンとポールにしてみれば「ジョージ、曲を作ったって?まあ、それは後で聴くとして、先にオレの曲のギターを弾いてくれよ。」という感じだったのでしょうか?彼らにしてみれば、ジョージはいつまで経っても弟分であり、曲を作るのはあくまで自分たちの仕事で、ジョージはそれに合わせたギターを弾けばいい、と軽く考えていたんでしょう。
ジョージがコンポーザーとしての才能を開花させたことは、ビートルズにとってもまた世界にとっても歓迎すべきことでした。この3年後に彼は「Something」「Here Comes the Sun」という歴史に残る名曲をこの世に生み出したのです。
ジョージが頭角を現してきたことで、ビートルズは、3人のコンポーザーを抱えることになりました。これは、ビートルズの楽曲をヴァラエティー豊かにし、長きにわたって世界中の人々に愛されることになったという意味では喜ばしいことでしたが、3人がそれぞれ違う作風だったため、衝突する原因にもなってしまいました。本当に運命というのは皮肉なものです。
「もし、ジョージ・ハリスンがエリック・クラプトンだったら」という話はファンでも、そうでない人でも仮定の話としてしばしば話題になります。しかし、クラプトンがビートルズのメンバーだったとしたら、もうこの時点で脱退していたでしょう。ジョージの温厚な性格が、欲求不満を抱きながらも彼をビートルズに留まらせたのです。
4 インドへの訪問
このようなメンバーの亀裂は、1968年2月にビートルズがマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーがいるインドのアシュラムへの旅行によってさらに明確になりました。東洋哲学に対してジョージは強い興味を抱き、超越瞑想を取り入れ、それまで常用していた麻薬を捨てようとしていました。しかし、メンバーが全て同調したわけではなく、それぞれがマハリシの講義と瞑想のトレーニング・コースに対して独自の反応を見せたのです。
リンゴは、インドの食事が口に合わず、子どもと会えなくて寂しいと、わずか10日で帰国しました。ポールは、さらに1週間滞在し、この瞑想を非常に生産的な作曲方法として活用しました。ただ、彼のどの曲のどの部分にそれが現れているのかまでは分かりません💦
ジョンとジョージは、さらに数週間滞在しましたが、ジョンは、マハリシの方法が自分の問題に壮大な形而上学的な答えを与えてくれないことに苛立ちを覚えました。彼の過剰ともいえる期待は、失望に変わりました。
このように、ビートルズがインドで超越瞑想を体験したことは、メンバーに素晴らしいインスピレーションを与えた反面、彼らが元々抱えていた問題を顕在化させ、人間関係を悪化させてしまう結果となったのです。
なお、誤解のないように申し添えておきますが、超越瞑想自体に問題があったわけではありません。現在では有力な瞑想法の一つとしてより体系化され、グローバルに活用されています。
(参照文献)INDEPENDENT
(続く)
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