1 サウンドを聴くと色彩が脳裏に浮かんだ
エメリックは、2002年に「私は、サウンドを聴くと色彩が脳裏に浮かぶんだ。」と語りました。「私は、スタジオでレコーディングされたサウンドを元に、私の脳裏に浮かんだ色彩を参照しながら作品を構成していった。」何と彼は、サウンドを聴いて脳裏に浮かんだ色彩を参照しながら編集作業をしていたんです!
まれに「音楽を聴くと色が見える」という人がいます。音だけではなく、例えば、文字や数字にも「色彩」を感じる人もいます。
これらは「共感覚」と呼ばれ、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる知覚現象です。特に音に対して色彩を感じる知覚を「色聴」と呼びます。そのメカニズムについてはまだ解明されていません。
エメリックの言葉通りであれば、彼は、「共感覚者」であったということができます。そのような感覚を持たない一般の人間からするとうらやましいようにも思いますが、日常生活では結構煩わしいと感じるようですね(^_^;)ある意味、絶対音感を持っていることと同じような感覚かもしれません。
レコーディング・エンジニアとしても、極めてまれな存在だったのではないでしょうか?私には想像もつきませんが、彼が偉大な業績を残したのも、一つにはこのような特殊能力に恵まれていたからかもしれません。
2 貪欲に何でもやった
(1)既成概念にとらわれなかった
テープ・オペレーターを勤めていたジェリー・ボーイズはこう語っています。「ジェフは未熟だったが、何のルールも知らなかったので、さまざまなテクニックを試した。そして、ビートルズは非常に創造的かつ冒険的だったので、彼のやることすべてに賛成した。ジョージ・マーティンとジェフの化学反応は完璧だったし、彼らは恐ろしいチームを作った。別のプロデューサーと別のエンジニアとの間では、事態はかなり異なっていただろう。」
ビートルズは、正統な音楽教育は受けず、自らの才能と努力でスーパースターにのし上がりました。彼らは、常に何か新しいことをしようとチャレンジしていました。
一方、エメリックも怖いもの知らずで、何でもやってやろうと思っていました。両者の飽くなき探究心が、革新的でしかも時代を超越して世界中の人々に愛される傑作を次から次へと誕生させたのです。
もはやこの段階では、マーティンは、ビートルズが新しい作品を生み出すための化学反応を起こさせる触媒としての働きを務めていたのかもしれません。
(2)テープの速度を変えたら世界が変わった
この「Rain」も、アーティストへと変貌を遂げつつあるビートルズを代表する名曲といえるでしょう。リンゴのドラムが重厚なサウンドを出していますが、後に彼は、これがビートルズ時代の最高のパフォーマンスだったと語っています。
エメリックはこう語っています。「『Tomorrow Never Knows』のループをいじり回しているうち、速度を落とすと特定の楽器のテクスチュア(サウンドからリスナーが受ける印象)がグンと良くなり、音の深みも増すことに気づいた。」
「メインのリズムトラックは、テープ速度をかなり上げて録音し、ノーマル・スピードでプレイバックした時に、元の演奏よりずっとスローになるようにしてテクスチュアを変えたんだ。もし、ノーマル・スピードで録音したら、プレイバックを聴く度にテープの速度を落とさなくちゃならなくて、すごく手間がかかっただろう。」
これも今ならコンピューターで簡単にできる作業ですが、この当時は、全て手作業だったので編集は大変でした。しかし、エメリックは、そんな大変な手作業を少しでも簡略化できるように創意工夫したのです。
3 ビートルズの下を離れる
「Tomorrow Never Knows」の仕上がりに不満を漏らしたジョンでしたが、「ホワイト・アルバム」の制作の際にも、自分の構想とは違うと不満を漏らしました。そういった事実は、ビートルズが、必ずしも常に仕事を一緒にやりやすい相手ではなかったということを裏付けています。一流のアーティストであればあるほど、常人には理解できないこだわりがありますからね。
実際、このアルバムを製作する頃には、ビートルズのメンバー間に不協和音が漂っていて、それがスタジオのスタッフにも大変な居心地の悪さを感じさせました。そのため、世界で最もビッグなバンドのチーフ・エンジニアに昇進したばかりの22歳のエメリックは、いたたまれず後ろ髪を引かれる思いでセッションから抜け出してしまったのです。
当時撮影された写真を見ている限り、ビートルズのメンバーは、にこやかに談笑している姿が映し出されていて、ギスギスした感じは全く伝わってきません。これはあくまで私の個人的な感想ですが、仕事を離れると彼らはそれほど悪い関係ではなかったのではないかと思います。
しかし、スタジオで一旦仕事モードに入ってしまうと、お互いのエゴとエゴがぶつかり合って、途端にトゲトゲしい雰囲気になってしまったのではないでしょうか?後期になるとこういう話が増えてくるので書くのも辛くなってしまいます( ノД`)
ポールは、「Ob-La-Di-Ob-La-Da」が必ずヒットすると確信して、そのレコーディングに固執して42時間を費やしましたが、その直後にジョンの「Cry Baby Cry」のレコーディングを開始したのは間違いだったかもしれません。他のメンバーは、この曲がそれほどヒットするとは思っていなかったのです。
4 再度ビートルズの下へ復帰
(1)アップル・コア社の失敗
アップル・コア本社ビルの地下に最先端の72トラックのテープ・マシンを製作したと豪語したジョンの友人のアレックス・マーダス(またの名をマジック・マーダス)が、スタジオをごちゃごちゃに混乱させてしまいました。それで、エメリックは、それらを整理するためにビートルズに担ぎ出されたと言われています。
もちろん、「72トラックのテープ・マシン」など存在するはずがありません。この男は、とんでもないイカサマ野郎だったのですが、なぜかビートルズは、彼にまんまと騙されてしまい、おかげでアップル・コア社は、30万ポンド(2016年のレートに換算すると477万ポンド(約7億1,120万円)!)もの損失を受けたともいわれています。
彼は、ジョンの車を空飛ぶ円盤に改造したり、人工太陽を建設したりなど様々なイカサマをやりましたが、テレビを修理する程度の電気や工学の知識や技術しかなかったため、スタジオでは何もできませんでした。
ビートルズを混乱に陥れた人物ですが、2017年に他界しました。
(2)「The Ballad Of John And Yoko」のレコーディング
ホワイト・アルバムの制作中にビートルズの下を離れたエメリックでしたが、ポールの要請により再びスタジオに復帰しました。アップルに未編集の収録済みのテープが山積みになっていて、彼でなければそれらを整理してレコードにすることは不可能だったのです。
そして、復帰後の初仕事が「The Ballad Of John And Yoko」のレコーディングでした。その頃、ジョンとポールの中は険悪になっていましたが、ジョンは、ポールの自宅を訪れてレコーディング・セッションに協力してくれと要請しました。
ポールは驚きました。ジョンがいきなり訪れたこともそうですが、当時、ジョージもリンゴも休暇で不在だったからです。ポールは、彼らが戻って来てからでいいじゃないかと一旦は断りましたが、ジョンは、どうしても今やりたいと譲らず、結局二人だけでレコーディングしたのです。
この人間関係も不思議ですね。不仲だった二人が仕事になると一つになる。それに、ビートルズの不仲に嫌気がさして彼らの下を離れたエメリックがそこに加わるとは。
本当にこの頃の彼らはバラバラになりかけていたのに、どこか深くではしっかりと繋がっていたんですね。彼らを繋ぎ止めていたのは何だったんでしょうか?やはり、音楽に対する情熱でしょうか?
そして、見事にこの曲は、全英シングルチャート№1を獲得しました。結果的に、ビートルズが№1を獲得したシングルはこれが最後となりました。
やがてエメリックは、再びビートルズのアルバム制作に携わることになりました。それは完成後「Abbey Road」と命名され、後に多くの人が「ビートルズの最高傑作」と称賛するアルバムとなったのです。
もう少し、エメリックのお話を続けます。
(参照文献)The Gurdian、ザ・ビートルズ・レコーディング・セッションズ完全版、ENCORE
(続く)
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