1 「Magical Mystery Tour」をリリース
(1)ビートルズは順調に活動
1967年が終わる前に、ビートルズは、「Sgt. Pepper's」のサイケデリック路線の延長となる「Magical Mystery Tour」をリリースしました。これは、イギリスでは同名の映画のサウンド・トラック盤であるEPとしてリリースされましたが、アメリカでは、当時のアルバムに未収録だった「Strawberry Fields Forever」「Penny Lane」「Hello, Goodbye」「Baby, You're A Rich Man」「All You Need Is Love」をB面に入れてLPとしてリリースされました
1966年、NMEは「Pet Sounds」と「Revolver」が同率で年間最優秀アルバムに選ばれたと発表しました。ブライアン・エプスタインという大きな柱を失いつつも、1967年以降もビートルズは、シングル・アルバムとも好調でした。
(2)「Smile」の全貌が明らかになった
ブライアンが「Smile」の制作を断念したことは、ポピュラー音楽における大きな悲劇の一つです。もし、彼がそれを完成させていれば、1967年の年間最優秀アルバム賞は「Sgt. Pepper's」といい勝負だったかもしれません。何といってもビートルズがジョンとポール(この頃にはジョージも加わっていた)という二人の天才ソングライターを擁し、チームを組んでいたという有利な構成だったのに対し、ビーチ・ボーイズは、ブライアン一人が担当していて、そのハンデはとても大きいものでした。
1967年にビーチ・ボーイズがリリースしたのは「Smiley Smile」だけでした。そこにはSmileセッションの作品の断片や「Good Vibrations」のシングル・ヴァージョンなどが含まれていました。このアルバムは、商業的にも芸術的にも失敗だったと考えられていました。
しかし、現在では、「Smile」がシングル「Good Vibrations」と同じくらい野心的なアルバムであり、ポピュラー音楽の革新性という点では「Sgt. Pepper's」を上回っていたかもしれないとさえ言われています。そう高く評価されたのは「Smile」に収録されるはずだった曲が何年もかけて少しずつ拡散されたことがきっかけでした。様々なヴァージョンが海賊版としてビーチ・ボーイズのファンの間で交換され、2004年にブライアン自身が再度レコーディングした作品をリリースし、2011年に待望のオリジナル「Smile」セッションがリリースされて、その全貌が明らかになったからです。
2 ポピュラー音楽の歴史を変えていたかもしれない
(1)一部では高く評価された
「Smiley Smile」という一見風変わりなアルバムにはザ・フーのピート・タウンゼントなどの熱烈な支持者がおり、90年代から2000年代にかけてのアンダーグラウンドなローファイ・サイケデリック・ポップ・シーンに大きな影響を与えました。「Smiley Smile」に続いて1967年後半に発表された「Wild Honey」も非常によく似た作品ですが、Stevie Wonderのカヴァーも入っているなどソウル/R&Bのエッジが加わっており、これもローファイ・ポップの逸品です。
もし「Smile」が予定通りリリースされていたら、ポピュラー音楽の歴史を大きく変えていたかもしれません。「Smiley Smile」と「Wild Honey」は、1960年代のほとんどの人が高い評価を与えていなかったでしょうが、それ自体が重要なアルバムだったのです。
(2)大衆性と芸術性を両立させた
「Smile」は、ゲストとして参加したヴァン・ダイク・パークスのサポートを借りて制作されたもので、複数の曲が互いに直接流れ込み、曲の中に曲が存在し、音楽的・歌詞的モチーフが繰り返し登場するようになっています。「Surf's Up」「Heroes and Villains」「Cabin Essence」「Wonderful」「Wind Chimes」など、息をのむようなハイライトが満載ですが、正に最初から最後まで聴かなければならないアルバムと言えるでしょう。
細部にまでこだわった無数の録音をつなぎ合わせ、1960年代のポピュラー音楽が経験したことのない複雑なアレンジを施した「Smile」は、「Pet Sounds」よりもはるかに、そして「Sgt. Pepper's」よりも攻めた作品だったかもしれません。それでいながら、ブライアンが制作した耳になじむメロディーとビーチ・ボーイズのトレードマークであるハーモニーはそのままで、その2枚のアルバムと同じように親しみやすいものとなっていました。
3 ブライアンは事実上バンドを離脱
メンバーの一人であるマイク・ラヴは、ブライアンのソングライティングの方向性を批判し、キャピトル・レコードは、早くアルバムを仕上げるようバンドにプレッシャーをかけました。こういったことが重なり、ブライアンの精神的プレッシャーはとてつもなく大きくなり、彼の精神は徐々に崩壊していきました。「Smile」プロジェクトは放棄され、ブライアンが再びそこまで野心的に同じ実験をすることはありませんでした。彼は、事実上バンドから離脱し、残されたメンバーは活動を続けました。
「Smiley Smile」に続くアルバムも同様に評価は低く、ビーチ・ボーイズは、1974年に「Pet Sounds」以前の楽曲のみで構成された人気コンピレーション「Endless Summer」を発表する頃には、もう新しいアルバムをリリースしなくなっていました。ビートルズが新しいアルバムを発表して進化し続けたのとは対照的でした。やはり、ブライアンを欠いてしまっては創造性を維持することは難しかったのでしょう。
もし「Smile」が予定通り1967年に発売されていたら、すべてが変わっていたかもしれません。ビートルズとビーチ・ボーイズの競争はさらに拍車がかかり、どちらかが頂点に立とうとしてこの半世紀のポピュラー音楽は、まったく違ったものになっていたでしょう。
4 インドでインスピレーションを受けた
(1)マイク・ラヴはビートルズと共にインドへ
1968年に入ると、ビートルズとビーチ・ボーイズの競争はもはや終わったかのように見えました。この年の初め、ビートルズは、マハリシ・マヘシ・ヨーギーのもとで超越瞑想を学ぶためにインドに渡り、ビーチ・ボーイズのマイク・ラヴを含む他のアーティストたちとも同伴しました。ラヴは、ブライアンの創造性を阻害したと言われていますが、ビートルズと一緒にインドを旅行したことがビーチ・ボーイズの最高の音楽のいくつかにインスピレーションを与えたこともまた事実でした。
ビートルズもインドで大量の曲を書き、その多くが1968年の「White Album」に収録されることになりました。その中の「Back in the U.S.S.R.」は、ポールがビーチ・ボーイズの「California Girls」のパロディとして書いたものですが、ラヴは、ポールが曲を書いている間に彼にヒントを与えだのです。
(2)ビーチ・ボーイズも影響を受けた
一方、ビーチ・ボーイズの他のメンバーもヨーギーの教えを学び、彼の講義をいくつか受けていました。そして、彼らは、後にマハリシと共にツアーを行ったのです。彼は「Friends」のいくつかの曲と、それを作っているときのバンドの共同的で調和のとれた雰囲気に直接インスピレーションを与えることになりました。
代表曲である「Anna Lee, The Healer」は、マイク・ラヴがインドで出会ったマッサージ師からインスピレーションを得たもので、サイケデリックなアルバムのクローザー「Transcendental Meditation」は、マハリシの教えとインド音楽の双方からインスピレーションを得ています。
(3)「White Album」を成功させた
これに対し、ビートルズの「White Album」は、前作までのコンセプト・アルバム的なアプローチから脱却し、何でもありの2枚組アルバムになりました。ビートルズは、「Back in the U.S.S.R.」「Rocky Raccoon」のようなパロディ・ソングから、けだるい感じを漂わせたフォークソングである「I Wil」「Julia」、奇抜なサイケデリア「Happiness Is A Warm Gun」、当時新しいジャンルだったハードロック「Helter Skelter」、スカ「Ob-La-Di, Ob-La-Da」、アバンギャルドな「Revolution 9」、ジョージの最も美しいバラードのひとつ「While My Guitar Gently Weeps」に至るまでさまざまなジャンルの音楽に挑戦しました。
こんなバラバラのジャンルの曲を一枚のアルバムに収録したら空中分解してしまいますが、そこはビートルズです。統一感には欠けるものの、素晴らしい作品に仕上がっています。
(参照文献)ブルックリン・ヴィーガン
(続く)
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