★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その58)ア・ハード・デイズ・ナイト(アルバム)(その2)

1  リッケンバッカーのサウンド

ビートルズは、1964年2月にアメリカを初めて訪れた時、あの有名なギターの製造元であるリッケンバッカーの社長のフランシス・ホールに会いました。

 

ホールは、新しい楽器とアンプのデモをするために、ニューヨーク市で会議を開きました。そして、リッケンバッカー社は、ジョージに新品の12弦のリッケンバッカー360をプレゼントしました。ジョンもリッケンバッカー325の12弦ギターをオーダーメードし、これは後日届けられました。

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ジョージは、こう語っています。「どんな感じかって?驚きさ。凄く良いね。いつも思うんだけど、弾いてるとエレクトリックピアノを弾いているような気がするんだ。とても重厚なサウンドだよ。」写真のジョージはいかにもご満悦って感じですね。
 
 
リッケンバッカーのサウンドは、このタイトル曲の重要な要素になりました。12弦ギターは、タイトルトラックのオープニング・コードで一番目立っていました。そして、それは「I Should Have Known Better」と「You Can't Do That」でも使用されました。彼らが使用した楽器もまたレコードと同じく、彼らに続くバーズやサーチャーズなどのバンドに多大な影響を与えました。
 
 
リッケンバッカーのサウンドの特徴は、シャープで輪郭がはっきりしていることです。やや硬い印象も受けますが、そのためソロ・プレイよりむしろバッキングに向いています。ですから、ジョージにはピッタリだったかもしれません。これが「A Hard Day's Night」のオープニングをスリリングでゾクゾクするサウンドにしたのです。
 
 
リッケンバッカービートルズに自社のギターを提供し、ポールも同社の4001Sを使用するようになりました。ビートルズがこぞって同社の製品を使用したことは、同社に多大な宣伝効果をもたらしました。そして、1960年代は、同社がギブソンフェンダーを抜いて、業界のトップの地位に躍り出たのです。やはり、著名人、特にアーティストやブロスポーツ選手の持つ影響力は今も昔も変わりませんね。今ならライセンス契約してガッポリ儲けるところですが、この頃はそんな発想はまだありませんでしたから、リッケンバッカーにしてみれば、「濡れ手に泡」ってところですね。
 
 
2  2トラックから4トラックへ
さて、スタジオでの収録の技術開発も進み、従来の2トラックから4トラックによるレコーディングへと進化しました。アルバム「Please Please Me」や「With The Beatles」で使われた2トラックの収録機材もそれに交換されていきます。
 
 
ジョージ・マーティンは、こう語っています。「我々がごく初期の頃に制作したレコードはモノラルだった。私は、ステレオの機材は持ってたんだがね。ミキシングを簡単にするためにヴォーカルとバッキングを別々に収録した。私は、ステレオ機材をダブルトラック用として使用した。」
 
「ステレオとして使おうという考えじゃなく、単にモノラルをミキシングし直す時にもう少し柔軟にできるようにするためだった。だから、ステレオが導入された最初の年のレコーディングは、まだ2トラックでやっていて、しかもライブだった。生放送するのと同じようにね。」
 
「4トラックの技術が大きく進歩するにつれ、我々は、オーヴァーダビングができるようになり、セカンド・ヴォーカルとギター・ソロを後から付け加えられるようになった。『A Hard Day's Night』を収録する頃までには、我々は、まずベースになるトラックを収録し、その後ヴォーカルを収録するようになった。」

「いつも、私は、すべてのリズム楽器を1か2のどちらかのトラック(大抵は1のトラック)に置き、ベースとギターは一体になるようにした。後でベースを付け加えて、ポールがより自由に歌えるようになったのはもっと後になってからだ。」
 
 
今では当たり前のステレオなんですが、この頃はちょうどモノラルからステレオに切り替わる過渡期だったんです。一般家庭にステレオが普及し始めた頃だったので、ビートルズの初期の作品はモノラルで収録されていました。
 
 
やがてビートルズは、アイドルからアーティストへと大変貌を遂げるのですが、その背景にはこういったレコーディング技術の進歩も大きく関わっていたのです。
 
 
3  スタジオでの収録
「A Hard Day's Night」で最初に収録された曲は、ポールの「Can't Buy Me Love」でした。1964年1月29日にパリのEMIのパテ・マルコーニ・スタジオでテープに収録されました。オリンピア劇場でのコンサートの前の昼間にそのセッションは行われました。 
 
 
ビートルズは、そのセッションで「She Loves You」「I Want To Hold Your Hand」の2曲のドイツ語版を収録する予定でした。収録が予定より早く終わったので、新曲を収録できる余裕ができました。
 
 
「Can't Buy Me Love」は、ちょうど4テイクで、多分、1時間もかからずに収録されたと思われます。この曲は、1964年3月20日にシングルとして英国でリリースされる「I Want To Hold Your Hand」の追い風になりました。また、同時にビートルズが将来リリースするレコードと、この次のアルバムを追い求める人々との時間的な空白を埋めることにも繋がりました。
 
 
ビートルズは、「You Can't Do That」をレコーディングしましたが、それは同時に、彼らがアメリカを席巻して帰国する2月25日までスタジオに戻らないという小さな問題があることも意味しました、つまり、何か問題があっても、彼らがいなければ再録できないわけです。そんなこともあって、「And I Love Her」と「I Should Have Known Better」の早期のヴァージョンは、両方とも彼らが帰国してからリメイクされました。この写真は、ツアーから帰国して初めての収録の時のものです。ジョンが珍しく黒縁のメガネをかけてますね。

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2月と3月上旬の残りの期間、ビートルズは、映画のサウンドトラックのために曲を収録しました。彼らは、それとは別にリリースされる「Long Tall Sally」のEP盤用のいくつかの曲をテープに収録しました。
 
 
1960年代初期の頃は、ビートルズは、アルバムのためにセッションをミキシングしたり、編集する作業には関わりませんでした。これは、その当時は一般的なことでした。後に彼らは、そういった作業に関わることになりますが、そこがアイドルからアーティストへの大きな転換点だったと思います。
 
 
ジョージ・マーティンは、グループが不在の中でレコーディングに取り組みました。彼らの休暇中に「You Can't Do That」の一部へピアノパートを付け加える作業です。
 
 
「A Hard Day's Night」の撮影は4月末までには終わっていましたが、ツアーは続行しました。6月4日からはデンマーク、オランダ、香港、オーストラリアとニュージーランドへ、初の本格的なワールド・ツアーを開始したのですが、その前にビートルズは、6月1日から3日連続でLP用にサウンドトラックではない曲を収録しました。
 
 
彼らが不在の間、アルバムは、ジョージ・マーティンとEMIのスタジオ・エンジニアによってモノ用とステレオ用に編集されて、ミキシングされました。その作業は、6月22日には完了し、7月10日にイギリスでアルバムがリリースされました。この時は、レコードは、モノラル、ステレオの両方が同時にリリースされ、併せてオープンリールテープのモノラルもリリースされました。
 
 
あ、若い方も流石にレコードって何だかは分かりますよね?CDしか見たことありませんか?エジソンが発明したんですけど、レコードを回転させてその上に針を載せると、アンプで増幅されてスピーカーから音楽が流れるんです。現代の音源は、全てデジタル化されていますが、中にはアナログのレコードの音の方が響きが良いという人もいます。これは、ホントに感覚の問題ですが、クリアではないけれど、何となく懐かしいというか、ホッコリさせてくれるサウンドですね。
 
 
なお、1987年2月26日に、「Please Please Me」「With The Beatles」「Beatles For Sale」の3枚のアルバムが、初めてCDとしてリリースされました。
 
 
ビートルズの最初のアルバムは、4トラックの機材で収録されましたが、ステレオ化して楽器とボーカルを分離させ、より大きな柔軟性を持たせるために、2009年までにリリースされたCDは全てモノラルでした。2009年9月9日にリリースされたリマスター・ヴァージョンは、アルバムとして初めてCD化されました。
 
 
4  リリースとチャート
アメリカでは、イギリスより2週間早い1964年6月26日にリリースされました。映画の卸売元のユナイテッド・アーティスツ(UA)は、サウンドトラックに対する権利を持っていました。それは異なるアートワークによるユナイテッド・アーティスツUA 6366(モノラル)とUAS 6366(ステレオ)としてリリースされました。また、写真撮影がロバート・フリーマンによって行われました。
 
 
UAは、1963年秋にEMIがビートルズとの契約上、映画のサウンドトラック盤をリリースすることについて何も触れていないことを知りました。その時点ではまだアメリカで人気が出ていなかったビートルズだったにもかかわらず、同社は、イギリスにおける彼らの著しい名声を利用することができると考え、主要作品を制作する権利について交渉しました。早い話が、UAがEMIを出し抜いたってことですね。まあ、これはEMIのミスというより、いち早くビートルズに目を付けたUAを誉めるべきでしょう。何せキャピトルは、まだ彼らとの契約を拒否していたんですから。
 
 
UAのプロデューサー、ウォルター・シェンソンが会社から受けた指示は単純でした。「サウンドトラック・アルバムを制作するという明確な目的のために映画が必要だ。」さらに、彼はこう告げられました。「サウンドトラック・アルバムを制作するためには十分な新曲が必要だ。ただし、予算はオーヴァーしないように。」何だか映画の出来はどうでもいいから売れる曲をたくさん作らせろ、それも予算の範囲内でなどと虫の良い言い分のようにも聞こえますね。ま、しかし、結果的に映画は記録的な大ヒットを収めたのでUAとしてもホクホクだったでしょう。
 
 
このアルバムは、イギリスで25万枚の予約がありました。 1964年の終わりまでには60万枚を売り上げました。1964年7月25日からイギリスでチャートナンバー1を21週連続独占し、38週間チャートに残りました。アメリカでは100万枚以上の予約があり、それまでの記録を更新して3か月以内に最も早く売れたアルバムの一つとなりました。それはその年に14週間のアメリカのビルボード・アルバム・チャートのアルバム部門の最長記録を更新しました。
 
 
ビートルズは、この曲のリリースと同時にアメリカとイギリスのシングルとアルバムのチャートでトップを飾ることにより、1964年8月5日の週間チャートの歴史を塗り替えるという偉業を達成しました。
 
(参照文献)THE BEATLES BIBLE, And Only Need One, Weekend NOTES, smokeandthebeatles.tumblr.com
(続く)