
1 コーラスが美しい曲
(1)1963年の作品

「This Boy」は、ビートルズの数ある曲の中でもジョン、ポール、ジョージのコーラスが抜群に素晴らしい曲です。彼らの楽曲の中でも特にコーラスが美しい曲を挙げるとすれば、これを一位に選ぶ人も多いかもしれません。イギリスでは1963年11月にリリースされたシングル「I Want To Hold Your Hand」のB面に収録され、アメリカでは1964年1月にリリースされたアルバム「Meet The Beatles」のA面の3曲目に収録されました。
ですから、ビートルズのキャリアの中でも比較的早い時期に制作された曲です。1964年に公開されたビートルズの主演映画である「A Hard Day’s Night」でリンゴが一人ぼっちで川辺をさまよい歩くシーンでこのインストゥルメンタル・ヴァージョンが流れていました。
プロデューサーのジョージ・マーティンはこう語っています。「『This Boy』のインストゥルメンタル版をBGMとして作曲し、リンゴが川辺をさまようシーンで使用した。『Ringo's Theme』と名付けたのだが、オーケストラ盤としてアメリカのチャートにランクインしたんだ。これは私にとっても嬉しい出来事だった」*1
(2)コンサートでも盛んに演奏していた
「This Boy」は、1963年12月から1964年6月まで、このグループのステージパフォーマンスで頻繁に演奏され、アメリカやその他多くの国で歴史的な初演も行われました。1963年12月2日の「モアカム・アンド・ワイズ・ショー」は「This Boy」の初演と思われます。そして、その時のライヴ・ヴァージョンが「アンソロジー1」に収録されています。
その後、ビートルズがリリースしたばかりのシングルのプロモーションとしてイギリスのテレビ局で何度も演奏されました。この曲は、1964年1月12日の「サンデー・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム」公演を含む、彼らのイギリス公演の定番となりました。また、1964年1月16日から2月4日まで行われたパリのオリンピア劇場公演でもセットリストに含まれていました。
そして、1964年2月9日、ビートルズがアメリカそして世界を制覇するきっかけとなった伝説の「エド・サリヴァン・ショー」でも演奏されました。その後、2月11日のワシントンコロシアム・コンサートでも披露しました。1964年6月4日、彼らの最初のワールドツアーの第1弾が始まった時も、この曲はまだセットリストに残っていました。彼らはコペンハーゲン、アデレード、そしてオーストラリアのメルボルンにあるフェスティバル・ホールでこの曲を演奏しましたが、1964年6月17日のメルボルン公演からこの曲は演奏されなくなりました。
2 三声ハーモニーの誕生
(1)ハーモニーは独学で習得した

ポールはかつて、彼の父がビートルズに三声ハーモニーを教えたと主張していましたが、ジョージはこれに異議を唱えました。「This Boy」を彼らの数ある「三声ハーモニー・ナンバー」の一つであると表現した後、ジョージはこう説明しました。「初期のロックンロールを振り返ると、フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ、エヴァリー・ブラザーズ、ザ・プラターズといったアーティストが常に存在していた。誰もがハーモニーを持っていた。時にはハーモニーを歌うのが自然なことだった」
またしてもビートル同士の意見が食い違っています。どちらが正しいのかはもう推測するしかありませんが、ポールの父がそれほど彼らの音楽性に深く関わっていたとは考えにくいので、私はジョージの言うように、彼らが好きなアメリカのヴォーカル・グループの音楽を耳コピして習得したという方が正しいのではないかと思います。
(2)三声ハーモニーにチャレンジした
彼らの天性の才能は、マーティンによってスタジオで磨かれました。「彼らは常に密接なハーモニーを試みていた」とマーティンは回想しています。「私がしたのは、ちょっとした音符を変えることだけだった」これはスタジオで行われ、三人のヴォーカリスト全員が彼のピアノの前に座り、マーティンが彼らの歌声に小さな、しかし必要な調整を加えました。一方、リンゴはスタジオの後ろでタバコを吸いながらマンガを読んでいたと伝えられています。
「僕たちは自分たちの違った側面を見せたかったんだ」とポールはドキュメンタリー「マッカートニー3,2,1」の中で述べています。「ヴォーカルを一人だけ歌って、僕らがバックコーラスをするという方法もあったんだけど、ちょっと幅を広げたいって思ったんだ。だから、この曲は全部3パートのハーモニーでやってる。こういう風に展開していくのはすごく刺激的だったよ」
彼らの多くの楽曲は、一人のリードヴォーカルに他の二人がコーラスをつけるというパターンでした。しかし、彼らはそれに飽き足らず、三人が同時にコーラスするという楽曲も制作したのです。彼らの飽くなき探究心が伺えます。
3 パンダイアトニック・クラスター(汎全音階主義)を使用した
ロンドン・タイムズ紙の音楽評論家ウィリアム・マンは、1963年12月27日発行の同誌で、ビートルズの音楽を褒め称えながらも派手な批評で「This Boy」に言及しました。ポールはその記事を読んで、「マンが『This Boy』の終わりに僕らが使った『パンダイアトニック・クラスター』について言及した」と語りました。「僕らはそれをまったく意識していなかった」パンダイアトニック・クラスターとは、日本では「汎全音階主義」と呼ばれています。
とても専門的な音楽用語で説明するのは難しいのですが、半音を使わず全音を使って特に制約なしに和音を制作することで、そもそもクラシック音楽の世界で誕生した理論です。ビートルズの作品では「She’s Leaving Home」でこの理論が使用されています。
ジョンとポールは正式な音楽教育を受けていませんでしたが、彼らが耳にした音楽を聴いたり研究したりする際には、通常以上の注意を払って研究していたのは間違いありません。あるいは、クラシック音楽も熱心に聴いていたのかもしれません。
4 なぜ演奏しなくなったのか?
(1)コンサートで演奏するのは難しい?

ビートルズは、この曲をリリース後盛んにステージで演奏していたにもかかわらず、ある時期を境にパタリと演奏しなくなりました。単にセットリストから外れただけなので、彼ら自身がこのことについて言及しているソースは見当たりません。ですからその理由については推測するしかありませんが、この曲はライヴでは表現が難しいいくつかの重要な要素がいくつかあります。
一つ目は、この作品に擁する緊密なハーモニーのアレンジには、ジョン、ポール、ジョージの正確なヴォーカルの相互作用が必要で、スタジオでは実現できてもそれをステージで再現することは難しかったということが挙げられます。ビートルズは、この曲をレコーディングする時も、彼らの希望で1本のマイクに三人が集まってコーラスを入れていました。
おそらく、お互いのヴォーカルを聴いて緊密に連携できるようにしたかったからでしょう。このスタイルは、コンサートでも変わりませんでした。映像も残っていますが、観客側から見ると左からジョージ、ジョン、ポールという並びになり、ジョンが二人に挟まれていかにも窮屈そうに見えます。
二つ目は、彼らは専門のコーラスグループと違って、それぞれに楽器を演奏していますからお互いの楽器が邪魔になります。特に、ジョンが中央にいる時は、かなりギターが弾きにくかったでしょうね。彼とジョージのギターヘッドが少し動くとぶつかってしまうくらい接近しています。
また、ジョージはかなり顔を左に向けて、ギターがマイクスタンドやジョンのギターにぶつからないようにしていますが、この姿勢でギターを弾きながらハモるのは結構辛かったのではないかと思います。ポールが中央にいる場合は彼が左利きなので楽器が接触する危険はありませんが、それでも窮屈なことに変わりはありません。
(2) 観客の絶叫で聴こえなくなった
三つ目は、映像だと演奏が聴きとれるのでわかりにくいのですが、実際の彼らのコンサート会場では観客の絶叫がものすごく、ステージ上の彼らは自分たちがどんな音を出しているのか全く聴こえなかったことです。今とは違ってステージ上には返しのモニターもなくイヤモニもないので、彼らは音を探りながら演奏していたのです。
それに慣れていた彼らでもさすがにこの曲は、三声でハモりながら楽器を演奏しなければならないので、かなり負担が大きかったのではないかと思います。彼らがハモる時は、二人が1本のマイクを共用していましたが、これも観客の絶叫の中でなるべく自分たちの声が聴こえるようにしていたのが一つの理由とも言われています。
ファンが爆発的に増えて観客の絶叫の音量はますます大きくなり、初期の頃には聴こえていた自分たちの演奏が全く聴こえなくなってしまいました。ただでさえお互いの声が聴こえないとハーモニーを入れるのが難しいのに、それが三声ともなるとさらに厳しくなります。
こういった技術的な理由から、彼らはこの作品をセットリストから外したのではないかと思われます。時期的にもアメリカでのブレイク以降と重なるので、彼らの人気が爆発的になり世界中にビートルマニアが増え、絶叫でヴォーカルが聴こえなくなってしまったということでしょう。
(参照文献)ビートルズ・ミュージック・ヒストリー
(続く)
この記事を気に入っていただけたら、下のボタンのクリックをお願いします。
下の「読者になる」ボタンをクリックしていただくと、新着記事をお届けできます。