1 演奏技術の難しさ
(1)ベースラインの難しさ
ビートルズは、コンサートを行っていた1966年に「Paperback Writer」をリリースしました。その時点ではまだコンサートはやめていませんでしたし、最新のシングルでチャート1位を取りましたから、当然コンサートでも演奏したはずです。しかし、彼ら自身は、下記のいくつかの点でこの曲をライヴで演奏するのが難しいと考えていました。
まずポールのベースです。彼のベースラインは、この曲では特に複雑で単なるリズムを超えた音階を持っています。彼の演奏は、曲に深みを与え、リスナーを引き込む要素となっています。 「Paperback Writer」でのポールのベースは、分厚く力強いサウンドが特徴です。
特に、曲の冒頭や中間部、エンディングでのベースラインが際立ち、メロディーを支えています。彼はオクターヴを駆使し、リズムセクションとのコンビネーションでドライヴ感を強調しています。また、レコーディング技術の向上により、ベースの音量がギターと同等に強調されており、この曲の革新性を引き立てています。
(2)リード・ギターのようなベース
ポールは、ベースをドラムと一緒にリズムトラックとしてレコーディングするのではなく、独自のメロディーラインを作り出すことで、曲全体の構成に重要な役割を果たしています。まるでリード・ギターのようなベースラインが圧巻です。これにより、演奏者は通常のリズムパターンを超えた技術を要求されるのです。
ポールのベース・ラインは、この時期から急速に変化していきます。彼は、60年代のモータウン黄金期のベーシストであるジェームス・ジェマーソンの影響を受けたことをドキュメンタリー作品「マッカートニー3,2,1」で明らかにしています。これを演奏しながらリード・ヴォーカルを担当するのですからそりゃ難しいですよね。
2 コーラスの難しさ
この曲のコーラスは、ビートルズの他の楽曲と同様に非常に重要です。ジョン、ポール、ジョージの三人がそれぞれ異なるパートを担当し、完璧なハーモニーが求められます。この複雑なコーラスは、各メンバーの声の特性を活かしつつ、全体としての調和を生み出すため、ヴォーカリストには高い技術が求められます。特に、各パートのタイミングと音程を正確に合わせることが、ライヴパフォーマンスにおいて大きな課題となります。
コーラスのレコーディングは、ビートルズがハーモニーを重視し、特にジョンとジョージがファルセットで歌う部分が印象的です。このファルセットの使用は、ビーチ・ボーイズの影響を受けたもので、ビートルズが当時の音楽シーンにおいて新しいハーモニーのスタイルを模索していたことを示しています。
さらに、コーラスの構造は、曲全体のリズムとメロディーに対して非常に効果的で、聴く人に強い印象を与えます。特に、コーラスの最後にかけてのエコー効果は、曲の壮大さを高め、聴衆に強いエモーショナルな影響を与えます。このエコーは、レコーディング技術の革新を反映したものであり、当時のスタジオでの実験的なアプローチが生かされています。
3 レコーディング技術の進化
(1)ライヴの技術が追い付かなかった
レコーディング技術の面でも、「Paperback Writer」は特異なアプローチを取っています。ポールのベースは、通常のマイクではなく低音用スピーカーをマイク代わりに使用してレコーディングしました。この手法により独特の音質が生まれ、曲の印象を強めています。レコーディング技術の発達は、スタジオでの多重レコーディングを可能にし、ビートルズの音楽に新たなステージを提供しましたが、同時にライヴでの再現を難しくする要因ともなりました。
「Paperback Writer」のような曲は、スタジオで精密なサウンド作りが施されているため、ライヴで同じクオリティーの演奏を再現するのが難しかったのです。演奏者は、スタジオでのレコーディング時に使用された多くのトラックを一度に再現する必要があり、これがライヴでのパフォーマンスの難しさを増しています。そのため、メンバーは緊張感を持ってステージに立つことが多くなりました。
このギャップは、ビートルズがライヴパフォーマンスにおいて直面した技術的な壁の一つであり、彼らの音楽の多様性を制限する要因ともなりました。レコーディングの技術の進歩にライヴの音響技術が追いついていなかったんですね。彼らがコンサートを中止してスタジオでのレコーディングに専念した理由の一つはここにあります。
(2)進化したカッティング技術
レコードのカッティングとは、レコードの原型となるラッカー盤に音の波形を溝として切り込む工程です。アナログレコードの時代では重要な技術でした。1966年以降のビートルズのレコードのより重い低音も、ATOC(自動過渡過負荷制御装置) と呼ばれるレコーディング機器の発明によるところが大きいと考えられます。これは、マスターディスクをカッティングする際に低周波の過負荷を防ぐために使用されました。
ライトが点滅するとATOCはオーディオ信号のピークを読み取り、自動的にレヴェルを下げてラッカーマスター(レコードの原盤)を守ります。これにより、マスタリング・エンジニアのトニー・クラークは、ビートルズの「Paperback Writer」を非常に高いベース・ファクターでカッティングしても、レコード・プレーヤーの針が飛ぶことはありませんでした。
「カッティング ルームでは、2番目のヘッドよりもずっと先に信号を調べる高度なヘッドを再生テープ・マシンに取り付けた。最初のヘッドが溝の間隔を決定するため、非常に高い信号が通過する場合、その特定のポイントで溝の間隔を広げる。次に何が来るかを予測していたのだ」*1
「(『Paperback Writer』は)EMI初のハイレヴェル・カットだった。ATOCは、点滅するライトとこちらを見つめるキュクロープス(ギリシャ神話に登場する巨大な一つ目の神)の目のようなものが付いた巨大なボックスだ。私は、ATOCを使用したものとしないものの2つのカットを作成し、ジョージ・マーティンに聴かせたところ、彼はハイレベヴェルなカットの方を採用した」*2
ATOCを使用せずにポールのベースをレコードにしたら、レコードに針を落としてベースのサウンドが鳴った瞬間に針が飛んでしまったでしょう。いくらいいサウンドをレコーディングしても、それをレコードにできなければ無意味です。エンジニアたちの技術の賜物です。
4 当時のパフォーマンス環境
(1)貧弱な音響システム
1960年代のライヴ環境は、音響技術が未発達であったため演奏の質に大きな影響を与えました。特に、PAシステムの性能が限られていたためサウンドのバランスが崩れやすく、ビートルズが制作した複雑なアレンジを持つ曲では困難が伴いました。観客の声や歓声が演奏をかき消すことも多く、バンドは意図したサウンドを観客に届けることが難しかったのです。
このような状況では、メンバーは自分たちの演奏を聴くことができず、音楽の細部に集中することが難しくなります。特に「Paperback Writer」のようなリズミカルで複雑な曲では、観客の反応が演奏の質に直接的な影響を与え、パフォーマンスの一貫性を損なうことになりました。
(2)不十分な安全管理と過密スケジュール
ビートルズのコンサートは常に大規模な観客を集めていましたが、安全管理が不十分であったため演奏に影響を与えることがありました。観客の熱狂が高まる中でステージ上のメンバーは物理的な安全を確保することが難しく、これが演奏の集中力を削ぐ要因となりました。特に「Paperback Writer」のような曲では、演奏中に観客の動きや反応に気を取られ、パフォーマンスの質が低下するおそれがありました。
また、ビートルズは過密なツアースケジュールをこなしており、これがメンバーの疲労を招いていました。特に、連続した公演や移動によるストレスは、演奏の質に悪影響を及ぼしました。「Paperback Writer」のように高い技術を要求される曲では、疲労が集中力を欠かせ、演奏の精度を損なう要因となりました。メンバーは常に高いパフォーマンスを求められ、肉体的・精神的な負担が大きかったのです。
5 武道館公演で演奏した
上記のような困難を抱えながらも、ビートルズは、1966年の日本公演で「Paperback Writer」を演奏してくれました。今にして思えばよくやってくれたと思います。そしてこの曲は、1966年8月29日、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行われた最後のコンサートでも演奏されました。
「僕らはただの小さなダンスホールバンドで、自分たちをもっと大きくしようなんて思っちゃいなかった。『もう無理だな。本当にできなくなるまでは全力を尽くして、それで終わりだ」と思っていた。だから、この頃、ライヴショーでレコードの曲をたくさんミスり始めていた」
「たとえば、『Paperback Writer』はダブルトラックでレコーディングされていて、ステージ上ではかなりひどいサウンドだった。だから、少なくともアメリカツアーでは、特にひどいところまでレコーディングして、それからエルヴィスみたいな足さばきをやって観客に手を振ると、みんなが叫んでそのサウンドをかき消したんだ。ポールが言ったように、みんなが叫び声で心配な瞬間をたくさんかき消してくれたよ」*3
(続く)
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