★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その72)ビートルズが日本にやって来た! (その1)

1  始めに

スチュアート・サトクリフの話を続けていたところですが、ここでまたまた話題を変えます。話がコロコロ変わってすいませんf^_^;)今からちょうど50年前にビートルズがこの日本にやって来たのです。ちょうどいい時期なので、このことを採りあげてみたいと思います。

 

2  ビートルズ日本武道館公演

f:id:abbeyroad0310:20160702001123j:plain

Tumblr

1966年6月29日、ついにビートルズが日本へやって来ました。これが最初で最後の公演となってしまいましたが、彼らのコンサートは後々の日本の文化、特に当時の若者達に大きなインパクトを与えました。やはり、レコードやラジオで聴くのとライヴやテレビ放送を観るのとでは、影響力が桁違いです。

 

「あれでその後の人生が変わった」と語る人々は日本中にたくさんいます。団塊の世代の人が中心ですね。その頃、中学生だった人も今や60代半ば。でも、彼らを観た感動は永遠に消えることはありません。リアルタイムで観ることができた人は本当に幸せだったと思います。

 

日本公演についてはもちろん、地元ですから多くの本や雑誌が出版されています。ですから、それを読んでいただければ一番良いんですが、ファンでない方は買ってまで読もうとは思いませんよね。なので、ここで手っ取り早く解説します。私のブログは時系列で彼らの足跡を追っているんですが、実はまだこの日本公演まで辿り着いてないんです。ただ、「来日50周年」という記念すべきタイミングで、様々なイベントが開催され、興味を持たれた方も多いと思うので予定を繰り上げて解説することにしました。

 

3 ビートルズはなぜ来日したのか?
そもそも日本でコンサートを開催するというオファーは、ビートルズ側から持ち込まれたのです。もちろん、もうその頃には日本でも爆発的なビートルズブームになっていましたが、まさかそんな超大物が日本に来てくれるなどとは誰も夢にも思ってませんでした。今でこそ外国人のビッグ・アーティストが来日してコンサートを開くのは珍しくなくなっていますが、それは日本にそれだけの経済力が備わったからです。

 

1960年代ではとてもそこまではいきませんでした。日本は高度成長期に入り、新幹線、東京タワーを作り、東京オリンピックも成功させ、まさに日の出の勢いでした。しかし、まだまだ第2次世界大戦後の焼け跡から立ち直って急成長を続けていた頃ですから、円とドルのレートも今とは全然違います。当時の為替レートは、1ドル=360円という固定レートでした。つまり、円の価値は今より遥かに低かったんです。

 

ですから、海外アーティスト、それもビートルズのような超大物を日本側でオファーしようと考えた人はいませんでした。それで採算を取ろうとすれば、とんでもないチケット代になってしまいます。まさに夢物語だったということですね。

 

4 ブライアン・エプスタインの巧みな戦略
しかし、ここでもビートルズの敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタインの巧みな戦略が発揮されます。彼は、彼らを売り込むことにかけて、デビュー当時からそれまで誰も考えたこともない天才的な発想を見せてきたのです。彼の存在なくしてビートルズの成功はあり得ませんでした。そして、その才能は、来日コンサートでもいかんなく発揮されました。

 

彼は、成長著しい日本市場に目を付けていたのです。確かに、日本でもビートルズのレコードは良く売れていました。しかし、まだまだ彼らの音楽が広く一般の人々に定着するところまでは達していませんでした。彼らは、アメリカの人気番組「エド・サリヴァン・ショー」に出演したことで、全米そして世界を制覇することに成功しました。やはり、彼らが演奏するところをライヴで見せることのインパクトは巨大だったのです。

 

そこで、ブライアンは、日本に直接乗り込み、コンサートを開催することで同じ効果を狙ったのです。彼の基本的な戦略は、「損して得取れ」という日本古来の商人の発想に近いところがあると思います。

 

つまり、最初は損してでも良いからとにかく売り込む。それで人気が出てくれば後は放っておいても勝手に売れてどんどん儲かるというシステムです。この戦略は後のマイクロソフトにも通じるところがあると思います。

 

5 メンバーの希望
また、ビートルズ自身も日本に来たがっていました。彼らは、早くから東洋思想に目覚めており、神秘の国、日本に行きたいと思っていたんです。ジョンやポールのファンであり、友人だったスチュアート・ケンドールさんのお話では、特にジョンとは仏教や禅などについても良く議論したそうです。

 

アジアでは既に香港でコンサートをやりましたが、当時はイギリスが租借していたのでイギリスの一部みたいなもんでしたからね。主権国家としては日本がアジアで初めてのケースでした。

 

6  来日が実現するまで
NHKの特別番組でその当時の裏話が放送され、このブログでもご紹介したので詳細についてはそちらをご覧ください。6月6日付けの号外です。

 

7  ホテルでのビートルズ
ホテルで軟禁状態だった彼らは、退屈しのぎに後に「Images Of A Woman」と称される絵画を一緒に描きました。4人ともランプを30×40インチの紙の真ん中に置いて描きました。絵画が完成するとランプがどけられ、できた空白に彼らはサインしました。それがこれです。

f:id:abbeyroad0310:20160702000555j:plain

(norwegianwood) 

紙と絵具はプロモーターの永島達司が用意し、絵が完成したら慈善事業のためにオークションに掛けるといいました。結局、それは日本のファンクラブの代表で、映画館の支配人の下山三郎が買い取りました。

 

この絵画は、おそらく4人が共同で描いた唯一のもので大変貴重なものです。しかも、絵心のある方ならお分かりになると思いますが、芸術性もかなりあります。おそらくジョンが芸大生だった頃のキャリアを生かして中心になって描いたのではないでしょうか?これだけの作品をたった2晩で完成させたんですから凄い。これは、作業中のジョンとポールです。完成したばかりのアルバム「Revolver」を聴きながら描いたのだとか。

f:id:abbeyroad0310:20160702000613j:plain

norwegianwood)  

その後、これは大阪で1,500万円で売却され、さらにe-Bayのオークションサイトに2002年に出品されました。さらに、2012年9月14日ににニューヨークのフィリップ・ワイス・オークションに出品され、15万5,250ドルで落札されました。

 

8  ついに開演!
この頃のコンサートは、会場を盛り上げるために前座と呼ばれる人たちが先にパフォーマンスを見せるのが一般でした。そこで、若き日の内田裕也と尾藤イサオがまず前座を務めました。画像を見ればわかりますが、内田裕也がガチガチに緊張しているのが伝わってきます。

 

また、ドリフターズも前座を務めました。メンバーの仲本工事は、こう語っています。「司会者が『ザ』と言っただけでギャーって絶叫が起きた。その後に『ドリフターズ』って言ったんだけど聞こえてないんだ。それを聞いたリーダーのいかりや長介が怖気づいて『おい、逃げようぜ』って言ったんだ。」「サッカーでゴールしたらすごい絶叫が起こるよね。あれが10分も20分も続くんだよ。それはすごかった。」

 

そして、いよいよ本命のビートルズの登場です。彼らは30分で11曲を演奏しました。今のライブと比べると極端に短いのですが、ビートルズのコンサートはこれが普通でした。それまでのアメリカやオーストラリア、ヨーロッパなどで巻き起こった絶叫には程遠い静けさです。それはそうでしょう。観客席の至る所に警官が配備され、観客が立ち上がると座らされ、絶叫すると静かにしろと制止するんですから。これじゃ盛り上がりませんよ。

f:id:abbeyroad0310:20160702001755j:plain

(Chron)

リンゴが俯いてちょっと不満そうな表情を浮かべていたのが印象的です。おまけにポールのマイクスタンドのセットがぐらついて、ポールがヴォーカルしながらマイクを盛んに直していました。「マイクの調子が悪くて」ってコンサート中にぼやいてました。もう、肝心な時に何やってんだよ、スタッフ!(# ゚Д゚)

(続く)