映画のレポートとレヴューを続けます。
1 リヴァプールの英雄
ジョンは、インタヴュアーから「ゼスト(熱意)を持ち続けることは難しいか?」と聞かれ「ゼストを尽くしてるよ」(多分、ベストのしゃれのつもりでしょうね)と答えました。そして、「なぜファンがあんなに熱狂するのか?」と聞かれると、「分かるわけないよ、そんなこと。」と笑いながら答えました。ジョンは、サッカーでゴールすると観客が絶叫する、あれに近いものだとも答えていました。
(YouTube)
映画ではリヴァプールFCの本拠地、アンフィールドスタジアムで、サッカーを観戦していた地元のファンの青年たち全員が肩を組んで身体を左右に揺らしながら、「シー・ラヴズ・ユー」を大合唱するシーンが出てきます。BGMで楽曲が流れていたので、試合前かハーフタイムの時にスタジアム側が流したんでしょうね。
She loves you - by Boys of Liverpool's Kop curve (1964)
(YouTube )
どうやら1964年にリヴァプールFCが優勝した時に、ビートルズがお祝いのメッセージを送ったことに対し、ファンがリヴァプールが生んだ音楽の英雄を讃え、感謝の意を込めて合唱したようです。それにしても、みんな歌詞を全部覚えてたんですね。
その当時のリヴァプールなどのイギリス北西部地方は、労働者階級に属する人が多く住んでいて、国内でも差別の対象にされていたのです。ポールの母親は、4人に対し、ちゃんとした言葉を使いなさいと日頃から諭していました。リンゴも映画の中のインタヴューで、リヴァプールという土地柄は、「オレは、リヴァプール出身だ。それがどうした、クソ野郎め!」と言うような所だったと語っていました。
(Mirror)
ですから、リヴァプール市民、特に労働者階級の人々にとってビートルズは、まさにリヴァプールを世界的に有名な街にしてくれた救世主のように写ったのかもしれません。こういった背景があることを意識してあのシーンを観れば、より感慨深いものを感じると思います。
2 なぜ過酷なツアーを続けたのか?
ビートルズは、イギリス国内はもちろん、スウェーデン、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカと、ツアーに次ぐツアーの毎日でした。
(knox.org)
1公演辺り約30分、アンコールなしですからせいぜい11曲位ですし、この頃の彼らの曲は3分未満の短いものが殆どだったとはいうものの、何でこんなにたくさんスケジュールを詰め込んだんだろうと不思議に思いますよね?
こんな熱狂的な人気がいつまで続くか分からないから、今のうちに稼げるだけ稼いでおこうということもあったのでしょうが、実は、もう一つ重大な理由がありました。
それは、映画の中でチラッと紹介されるのですが、彼らがデビューした当時に結んだ契約では、彼らの手元には楽曲の印税が一切入らないことになっていたのです。つまり、いくらレコードが売れても作詞、作曲したジョンとポールには1銭も入らないのです(実は、この辺りの経緯は非常に複雑で説明すると長くなるので省略します)。
敏腕マネージャーと呼ばれたブライアン・エプスタインですが、彼が犯した最大の失敗とされています。ですから、彼らは、ツアーやテレビ、ラジオの出演料で稼ぐしかなかったのです。ツアーへ向かうジョンが「さあ、また稼ぎに行こうか」と陽気に話しましたが、半ばヤケクソだったのかもしれません。
3 常にユーモアを忘れなかった
記者からのインタヴューに彼らは、即座にユーモアで切り返しました。記者「イギリス版のエルヴィス・プレスリーと呼ばれているが?」リンゴ「ノー。プレスリーじゃないよ。」とコンサートの時のプレスリーのように激しく腰を振って答え、笑いを誘いました。
記者「髪を切るつもりは?」ジョージ「昨日切ったよ。」記者「人気の秘密は?」ジョン「それが分かってたら、とっくに他のミュージシャンのプロデュースをやってるさ。」どんな質問を投げかけられても絶妙の答えを即座に返して笑いを誘う。これもまたビートルズなんです。
(beatlesinterview)
映画とは関係ありませんが、ビートルズによるとリヴァプールの人は、コメディーが好きなんだそうです。私もリヴァプールに行ったことがあるんですが、市民は、とても親切ですね。私がライムストリート駅前の広場で地図を広げていると、通りすがりの男性が「どこへ行くんですか?」と声をかけてくれました。どう見ても外国人の私にです。これが日本人だったら、話しかけるどころか知らん顔でス~っと通り過ぎたでしょうね。
それとファースト・フード店には日本で見たこともない自動のオーダーマシンがあり、使い方が分からず戸惑っていると、客の女性が「どうかしましたか?」と声を掛けてくれました。それで、ポケットにコインが一杯溜まっているのを思い出し、それを取り出して数えてもらうように頼みました。イギリスのコインは8種類もあり、日本の硬貨のような大きい算用数字の表記もなく、似たようなのばかりで区別が難しいんです。何枚もあったにもかかわらず、彼女は、1枚1枚丁寧に数えて総額を教えてくれました。
4 日本公演も紹介された
(bestclassicbands )
この映画は、嬉しいことに日本の武道館公演のシーンに結構な時間を割いてくれていました。これは、日本向けの特別編集したヴァージョンなんですね。映画では、国や地域によって違う編集のヴァージョンを公開することがあります。
1台も車が走っていない夜の首都高速道路を数台のパトカーだけがサイレンを鳴らしながらホテルへ向かいます。夜の沿道には誰もいません。街頭にもコンサート会場にもおびただしい数の警官が配備され、ファンは一歩も近づけませんでした。それまでのオーストラリアやニュージーランドの大群衆に出迎えられたことを思うとまるで別世界です。
(SANSPO)
当時、日本人カメラマンとして唯一撮影が許された浅井慎平のインタヴューも結構使われてましたね。ただ、すいません、ここだけは日本語なのに内容は殆ど覚えていません。3回も観たんですがf^_^;4回目で英語の字幕を見て、何と無く分かりましたが、それでも漠然としてましたね。「なぜ、あんなに反対運動が起きたのか分からない」「警備は物凄く厳重で、自分は従軍記者みたいだった。」「世界が今程狭くなかったあの時代に、あれだけ熱狂したのは凄いことだ。」位ですかね、辛うじて意味が取れたのは。
(TimeWarp)
それより残念なことが一つありました。コンサートの時にリンゴが口を曲げて、あからさまに不満げな表情を見せているところがドアップで映っちゃってるんですf^_^;これは今まで何度も観たシーンなんですが、改めて観せられるとちょっと辛いですね。他のコンサートでこんな不機嫌な彼を見たことありませんから。
リンゴは、この時のことについては、後日何も語っていないと思います。私は、日本の観客が他の国に比べてあまりに静かだったので面白くなかったのだろうと思っていたのですが、ビートルズ研究家の野口敦さんによると「お腹を壊していた」とのことでした。なあ~んだ、そうだったのか。
(childofnaturebeatles)
まあ、とにかく警察の警備があまりにも厳重でした。アメリカ大統領が来日したときでもこれほどいないだろうという位、会場内の至る所に警官が立っていましたから。それでも、映画の中では出てきませんが、当時の観客の一人は「絶叫でベースの音しか聴こえなかった。」と証言していますし、前座を務めたドリフターズの仲本工事も「サッカーでゴールした時のような絶叫が、途切れることなく演奏の間中ずっと続いていた」と証言しています。日本ですらこれですから、欧米ではもっと凄まじかったんですね。
マイクが固定されていなかったためグラグラ動いて、ジョージが演奏中に位置を直してました。イギリスのコンサートではテープでしっかり固定してありましたが、この辺り、日本がいかに大規模なコンサートに慣れていなかったかが良く分かります。
その直後がフィリピン・ツアーでこの時、イメルダ大統領夫人からのパーティへの招待をすっぽかしたと新聞で報じられ、大統領夫人が侮辱されたと激怒した200人もの群衆が空港へ押し掛け、生命の危険すら覚えるほどの恐怖を味わいました。
(todayIfoundout)
それと対比すると日本で無事にコンサートを終えて良かったなと思います。映画には出てきませんが、ビートルズも後日のインタヴューで「日本は素晴らしかった。」と感想を述べています。ここは、素直に喜んで良いところでしょう。
映画のレポートとレヴューはまだ続きます。
6 おまけ
「スタジオラグへおこしやす-バンド・音楽・楽器のお役立ちWebマガジン」というサイトにビートルズの人気の秘密について解説した記事を寄稿しました。こちらの方もよろしくお願いします。
https://www.studiorag.com/blog/fushimiten/beatles-success
(続く)