★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

他のバンドはビートルズをどう見ていたのか?(250)

Beatles HamburgTours on Twitter: "Hamburg 1960. On the threshold ...

1 ビートルズにお鉢が回ってきた

これは、ロンドンから初めてハンブルクへ巡業に行ったジェッツのメンバーだった、リック・ハーディーの回想を元にした記事です。

ブルーノ・コシュミダーがハンブルクからロンドンに来ていた時、アラン・ウィリアムズも、偶然、リヴァプールからロンドンに来ていて2.Isクラブに出演するバンドのオーディションに加わっていました。リヴァプールでクラブを経営していた彼が、なぜロンドンのクラブのオーディションに参加していたのか不思議なんですが、何事にも貪欲だった彼のことですから、うまくロンドンの業界に潜り込んでコネクションを作っていたのでしょう。

ウィリアムズは、その夜、2.Isクラブのオーディションで不合格となった「デリー・&・シニアーズ」というバンドをコシュミダーにカイザーケラーで演奏させるよう交渉しました。しかし、それが成立しなかったところを見ると、コシュミダーの目にも実力不足と映ったんでしょうね。

ただ、シニアーズが不合格となったおかげでビートルズにお鉢が回ってきました。数週間後、コシュミダーは、ウィリアムズを通じてビートルズと契約し、彼らは、カイザーケラーとは別にコシュミダーがオーナーを務めているインドラクラブに出演しました。

インドラは、カイザーケラーと同じグロッセ・フライハイトという歓楽街にありましたが、人の多い表通りからは少し離れた場所にあったので、そこまでたどり着く客は少なかったようです。

 

2 初めは実力不足だった

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ジェッツは、ビートルズのギグを観に行ったのですが、その当時の彼らからは、感銘を受けませんでした。彼らは、まだまだ素のままでショーマンシップのかけらもなく、その時点ではもちろん、オリジナルの楽曲は演奏していませんでした。

コシュミダーは、ステージに向かってドイツ語で「マッハ・シャウ、マッハ・シャウ(Make a show! ショーをやれ!)」と叫んで彼らに盛んにハッパをかけました。これが彼らを奮い立たせて、腕をドンドン上げさせることになります。これは、ファンにはお馴染みのエピソードですね。

なお、マーク・ルイソンの「TUNE IN」の日本語版では「マック・ショウ」と翻訳されています。しかし、私は、これは正確な表記ではないのではないかとずっと疑問を抱いていました。コシュミダーのドイツ語に近い表記なら「マッハ・シャウ」になるはずです。

しかし、Facebookでファンのご意見を伺ったところ、どうやら英語圏の人は「マック・ショウ」と発音するようです。ジョージがハンブルク時代のことをインタヴューで応えているのですが、彼も「マック・ショウ」と発音していたらしいのです。確認はできていませんが。

なので、ビートルズからするとコシュミダーは「マック・ショウ」と言っていたということになるようです。すいません、ここはイマイチ不確かです💦

その後、コシュミダーは、ビートルズのステージをカイザーケラーに変えて出演させましたが、その時に彼らは明らかに実力を上げていました。短い期間の間に長足の進歩を遂げたのですね。

3 スチュは浮いていた

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ベースのスチュアートがカール・パーキンスの曲「マッチ・ボックス」を演奏し、歌う場面がありました。後にリンゴが歌うことになる曲ですが、この当時はスチュが歌っていたんですね。ただ、彼は、他のビートルたちとは全く違って孤独なように見えました。彼は、ステージでも他のメンバーから浮いて見えたんですね。


The Beatles - Matchbox (Live! at the Star Club in Hamburg, Germany; 1962)

ステージ上でも浮いて見えたというのはよほどですね(^_^;)酔っ払いの客たちには分からなかったでしょうが、やはり、プロ・ミュージシャンの目はごまかせなかったようです。

ハーディーは、こう語っています。「スチュアートは、意識的にジェームズ・ディーンのように振る舞っていたが、残りのビートルは、カジュアルでばらばらな衣装を着ていた。彼がグループを去ったと聞いても特に驚かなかった。私は、いずれそうなるだろうと思っていた。」

スチュは、彼なりに一生懸命ベーシストとして演奏していましたが、やはり音楽には向いていなかったのでしょう。彼がビートルズを去ったのも当然だとハーディーの目には映ったんですね。

 

4 ジョンが苦手だった

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中央がシェリダン、リンゴがドラムス

「私は、ビートルズのメンバーと付き合うのは苦労しなかった。彼らは、普通にフレンドリーだった。唯一の例外は、ジョン・レノンだった。こういうことを言うと怒るファンがいることは分かっているが、彼は、皮肉っぽくて苦手だった。」

いや、別に怒りませんよ。ジョンが他人に対して辛らつな言葉を浴びせていたということは、ファンが良く知ってますから(笑)おそらく、ハーディー自身は、彼のターゲットになることはなかったのでしょうが、他人がジョンから辛らつな言葉を浴びせられているのを見て、あまりいい気はしなかったのでしょう。

「私は、1962年5月か6月に新しくオープンしたスタークラブでビートルズが演奏していた時にハンブルクを訪れ、ジョンにスチュアートが美術大学でどうしているか尋ねたことを覚えている。彼の返事は「あいつは出血で死んだ。」というだけのそっけないものだった。」

「もちろん、当時のビートルズはまだ有名ではなく、彼の死はメディアには関心がなかったので、報道されることもなかった。私は、彼が死んだことも知らなかった。私は、スチュアートがわずか1か月ほど前に亡くなったばかりだというのに、ジョンの冷たい態度にショックを受けた。私は、彼の態度が見せかけのものにすぎず、本当はとても精神的にまいっていたのだろうと確信している。」

親友がわずか1か月ほど前に亡くなったばかりですから、普通だったらショックを受けて落ち込んでいるはずですが、ジョンは、他人にはそのような姿を一切見せなかったのです。しかし、本当は泣き叫びたい気持ちをグッとこらえていたということを、メンバーだけではなく他のバンド仲間にさえも見抜かれていたわけです。

「彼がスターダムにのし上がってから変わったのかどうかは分からないが、質問に対してカッコいい応えを探そうとする彼の習慣は、私をいくぶんか不快な気持ちにさせた。もっとも、誰もが大金持ちのスーパースターになったら精神が不安定になるというのであれば納得もいくだろう。」

「実際のところ、ジョンの幼少期の不幸な経験があるにもかかわらず、もし、彼が何のコンプレックスを持っていなかったとしたら、逆にとても驚くだろう。私にとって、彼自身を愛することは難しいが、新しいスタイルの楽曲を制作する天才であり、人権活動家としての彼であれば受け入れることができる。」

ハーディーもジョンが不幸な生い立ちであったことが、彼の複雑な精神構造を生み出したということは理解していました。また、彼がとんでもない天才であったことも認めているわけです。しかし、彼の他人に対する容赦のない辛らつなものの言い方は、どうも苦手だったようですね。

 

5 才能を開花させ始めたビートルズ

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「ジェッツがトップテンに出演していたときに、時折、休憩中にビートルズがカイザーケラーへ入ってきて、我々と一緒に座っていた。こういう習慣は、1960年7月から11月まで続いた。それが終わりを迎えたのは、我々のトップテンでのステージがその年の9月下旬または10月上旬で終わり、その直後にビートルズが強制送還されたからだ。」

ビートルズとジェッツは、同じバンド仲間として数か月間付き合っていましたが、ジェッツとトップテンクラブの契約が切れた頃に、ビートルズもイギリスへ強制送還されてしまい、そこで彼らの交流は終わりを告げることになりました。

「一緒にセッションをしている間にも、ビートルズは、メキメキと実力を上げていった。彼らは、その時期には作曲できる才能があることにはまだ気づいていなかったが、彼らは、ハーモニーの分野でテクニックを開発していた。私は、ジョンとポールが「True Love」のような素敵な作品を作曲したことを覚えている。私は、彼らがその当時に制作した作品を一つも思い出せない。」

ハーディーは、ジョンとポールが作詞作曲をしていたことを知っていて、彼らの作品も聴いていたようです。ただ、残念なことに、彼自身もどんな曲だったか覚えていないんですよね💦

ジョンとポールは、この頃すでに作詞作曲を始めていました。ただ、彼らが自分たちの才能に気づくのはもう少し後になってからです。彼らは譜面の読み書きができず、手軽に記録できるレコーダーもなかったために、せっかくいい曲を思いついても、それを記録しておくことができませんでした。

ポール自身がずっと後になって語ったところによれば、彼もジョンも相当な数の曲を記録できずに失ってしまったようです。ハーディーの回想もポールの話を裏付けていますね。シューベルトの未完成交響曲ではありませんが、何とももったいない話です。

(参照文献)The BEATLEG Project

(続く)

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