1 ヴォックス・コンチネンタル・ポータブル・オルガン
ジョンのオルガン演奏といえば、真っ先に1965年8月15日の歴史的なシェイ・スタジアム・コンサートでの「I'm Down」が思い浮かびます。あの時の「エルボー・グリッサンド(肘を使ったグリッサンド)」はとても印象的です。また、ビートルズが1965年8月13日にエド・サリヴァン・ショーに出演した時も同じ曲を演奏しました。
これらのコンサートでジョンは、「ヴォックス・コンチネンタル・ポータブル・オルガン」を使用したのですが、長くは使われませんでした。シェイ・スタジアムの55,600人の観衆を前にジョンは「I'm Down」を熱狂的に演奏し、歴史上最も有名なコンサートを締めくくりました。その際、彼がキーボードを乱暴に叩いたため、次の8月17日のトロント公演ではオルガンが正常に作動しなかったのです。
ジョンがやったエルボー・グリッサンドは見た目はカッコいいのですが、キーボードを故障させるリスクがあります。翌日のアトランタ公演では、オルガンは、アメリカの電子キーボード製造メーカーであるトーマス・オルガン社の「ヴォックス・コンチネンタル・オルガン」に地元アトランタの警察官によって交換されました。
2 モニター・スピーカーをステージに設置した
(1)当時としては画期的だった
アトランタでのコンサートでは、当時のポピュラー音楽のステージでは珍しいモニター・スピーカーが設置されていたため、彼らは、コンサートで自分たちのオルガンを聴く貴重な機会を得ました。これも特筆すべき話ですが、ビートルズは、コンサートの絶叫の中で自分たちのステージ上の演奏をようやく聴けたのです。
これは、ビートルズのために特別に用意されたものです。アトランタのハイファイ・ショップ、ベイカー・オーディオの店長であるフランシス・ブルース・「デューク」・ミューボーン二世は、それまで誰もやったことのないこと、つまり、ステージにモニター・スピーカーを設置し、それをグループの方へ向けて彼らのヴォーカルと楽器のサウンドを聴かせることにしました。「十分だった。私たちはそれを乗り越えた。叫び声の中、彼らの声を聴くことができた」とミューボーンはコメントしました。これは、当時としては画期的なことでした。
(2)観客にも大音量を届けた
サウンドが違っていたのは、ステージ上だけではありませんでした。フィールドの最新セットアップには、1台175ワットのアルテック1570アンプが4台あり、アルテックA7スピーカー2台を駆動していました。今では当たり前になっていますが、1965年当時のポップ・コンサートとしてこれは前代未聞のパワーでした。
ポールは、「She's A Woman」を演奏し終わった後に観客に向かってこう叫びました。「大音量だろ?最高だ!」自分たちのサウンドが聴こえることで、ビートルズは、いつもより引き締まった演奏ができ、その結果に彼らは大喜びでした。それまでは、観客の絶叫で自分たちがどんなサウンドを出しているかわからないまま演奏していましたから。
その後、マネージャーのブライアン・エプスタインは、ミューボーンに彼らの他のライヴの音響を担当するよう提案しましたが、ミユーボーンは、その申し出を断りました。彼には本業がありましたし、家族のこともあってツアーに同行できなかったのです。もし、彼がビートルズのPA担当として就任していたら、ビートルズは、もう少しコンサートを続けていたかもしれません。
3 オークションにかけられた
このオルガンは、アトランタのヴォックス・ショップのオーナーが40年近く所有していました。ケースの前面に貼られたオリジナルではないヴォックス・コンチネンタルのロゴが特徴的で、イベントやその2日前の「エド・サリヴァン・ショー」のセットの写真やフィルムにはっきりと写っています。
2008年、ニューヨークのロックフェラー・プラザで開催されたクリスティーズのパンク/ロック・オークションに出品され、182,500ドルで落札されました。その前にオリジナルのオルガンは修理され、手付かずの状態だったオリジナルの部品はすべて残され、オークションの時点では完全に機能していました。
このオルガンは、4オクターブの鍵盤、木製の重りが付けられた黒鍵と白鍵は、一般のピアノとは逆になっていました。取り外し可能なZ型クロームフレーム・スタンド、オレンジ色の天板、付属のケースを備えています。オークションに先立ち、このオルガンは、オハイオ州クリーブランドのロックの殿堂博物館、リヴァプールのビートルズ・ストーリー、パリのシテ・ドゥ・ラ・ミュジークでの「ジョン・レノン未完の音楽」などで展示されました。
4 「I'm Down」について
(1)コンサートのエンディング曲として作曲した
ジョンがオルガンを使用した「I'm Down」は、ショーのエンディング曲としてポールが作曲したもので、スタジオ・ヴァージョンは「Yesterday」と同じ日にレコーディングされ、シングル「Help!」のB面曲としてリリースされました。ビートルズは、それまでリトル・リチャードの「Long Tall Sally」でショーを締めくくっていましたが、自分たちの曲をエンディングに使いたいと思っていました。
前々からそのような曲を書こうとしていたポールは、ついに「I'm Down」を思いつきました。1980年、ジョンは、「あれはポール(の曲)だ...僕も少し手伝ったと思う」と回想しました。ポールは、「ジョンがこの曲について何か意見を出したかどうかはわからない。でも、お世辞を言うつもりはないんだけど、彼が言葉を直したり、提案したりした場合に備えて、ほとんどの作品ではいつも10パーセントは彼の功績を認めているんだ。しかし、少なくとも90パーセントは私のものだ」二人の記憶がほぼ一致しているので、これは間違いないでしょう。
(2)コンサートのエンディング曲になった
「Long Tall Sally」は、6月から7月にかけてのヨーロッパ・ツアーではまだ演奏されていましたが、8月1日のブラックプールでのファンクラブ・コンサートから、イギリスでシングル「Help!」のB面としてリリースされてからわずか9日後に「I'm Down」に置き換えられました。ご存知のように、この曲は8月のアメリカ・ツアーの締めの曲でした。これは12月のイギリス・ツアーでも続けられ、1965年には全部で34のコンサートで「I'm Down」が演奏されました。
この曲は、1966年もセットリストのエンディング曲として演奏され続け、その年の最初のコンサートは1966年5月1日にイギリス、ロンドンのウェンブリー・エンパイア・プールで行われたNMEポール・ウィナーズ・コンサートでした。「I'm Down」は、ドイツ、マニラと東京のツアーでも演奏されました。
(3)「Long Tall Sally」と交互に演奏した
そして最後のツアー、1966年のアメリカ・ツアーが始まりました。この時、ビートルズは、「I'm Down」と「Long Tall Sally」を交互に演奏するようになりました。1966年8月12日、イリノイ州シカゴのインターナショナル・アンフィシアターでツアーが始まった時、午後3時からのコンサートでは「I'm Down」が演奏されましたが、午後7時半からの夜のコンサートでは「Long Tall Sally」に置き換えられました。
この習慣はその後も続き、どこかで2回続けてコンサートをするときは、いつも片方の公演で「I'm Down」を演奏し、もう片方の公演で「Long Tall Sally」を演奏していました。このルールは、8月19日にテネシー州メンフィスのミッドサウス・コロシアムで行われた両公演で、「Long Tall Sally」がエンディング曲として演奏されたという例外からも確認できます。
コンサートが1回しか行われなかった都市では、「Long Tall Sally」が好まれ、8月29日にカリフォルニア州サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行われた彼らの最後のコンサートのエンディング曲となりました。「I'm Down」の最後の演奏は、1966年8月25日、ワシントン州シアトルのシアトル・センター・コロシアムでのコンサートでした。
5 解散後も演奏した
1972年のウイングス・ツアーでポールがコンサートのエンディング曲に選んだのは「Long Tall Sally」でした。実際、2001年10月20日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催された「Concert For New York City」のオープニングを飾るまで、彼が「I'm Down」を歌うことはありませんでした。それからさらに8年が経ち、2009年のアメリカ・ツアーでこの曲を定期的に演奏するようになりました。そのツアー中、彼はこの曲をセットリストの中盤で9回演奏しましたが、その後再び演奏しなくなりました。
ニューヨークのシティ・フィールドでの演奏は、同ツアーのライブCD&DVDアルバム「Good Evening New York City」でリリースされました。コンサート映像の中で「I'm Down」は、ポールの2009年のパフォーマンスとビートルズの1965年のシアスタジアムでのパフォーマンスの間を行き来します。ボーナスDVDでは、彼のパフォーマンスを完全収録しています。
(参照文献)ザ・デイリー・ビートル
(続く)
この記事を気に入っていただけたら、下のボタンのクリックをお願いします。
下の「読者になる」ボタンをクリックしていただくと、新着記事をお届けできます。