- 1 レーベルはヒット曲を量産した
- 2 スタジオは手狭だった
- 3 レコーディング・テクノロジーの向上
- 4 トランジスタラジオとカーラジオの普及が音楽を変えた
- 5 ビートルズがモータウン・サウンドをイギリスに普及させた
1 レーベルはヒット曲を量産した
(1)次々とヒット曲を世に送り出した
この頃、「白人」と「黒人」の音楽の区別が曖昧になっていたとベリーは語っています。それまでR&Bは黒人が演奏し、ポップスは白人が演奏するというのがお決まりでした。しかし、ロックの爆発的ヒットとエルヴィス・プレスリーの人気が上がるにつれ、その違いはなくなり始めました。「Money」がヒットしたことはその変化を象徴しています。
タムラ/モータウンが成長するにつれ、所属するタレントも増えていきました。ファンク・ブラザーズという強力なハウス・バンドは、デトロイトのジャズ・クラブやブルース・クラブで活躍する地元のミュージシャンの才能を引き出していました。多くのミュージシャンたちがすべてのレコーディングに参加したのです。
彼らは、「スネークピット」と呼ばれるデトロイトにあるヒッツヴィルUSAの地下スタジオで演奏し、3時間のセッションで3曲から4曲を作り上げることとされていました。平均的な1日の仕事は、この3時間のセッションを2回、時には3〜4回行うことでした。彼らの豊富な専門知識により、曲のタイトルや演奏者について事前の知識がないことが多くても、このような速いスピードで持ち込まれる曲を処理することができたのです。
(2)初のミリオンセラーの誕生
1960年、ロビンソンとミラクルズによる「Shop Around」がレーベル初のミリオンセラーとなり、ポップ・チャートで2位を記録しました。ロビンソンとゴーディが共作したこの曲は、当初はストロングが歌う予定でしたが、ロビンソンは、絹のような声で巧みに制作された歌詞を歌いました。そしてファンク・ブラザーズのトレードマークであるサウンドを披露しました。その翌年にはマーヴェレッツの「Please Mr. Postman」がポップ・チャート1位を獲得しました。これは、ビートルズがカヴァーしたことでも有名です。
それ以降、このレーベルは羨ましいほど素晴らしいアーティストたちを世の中に送り始めたのです。メアリー・ウェルズ、シュープリームス、テンプテーションズ、フォー・トップス、マーヴィン・ゲイ、マーサ・リーヴス&ザ・ヴァンデラス、スティーヴィー・ワンダーらです。
2 スタジオは手狭だった
(1)数多い制約の中で制作された
「モータウン・サウンド」は彼らの成功の重要な要素となりましたが、その多くは予算が制約され、狭いスペースへの適応を強いられるという劣悪な環境から生まれたものでした。スタジオAのライヴルームはシンプルな長方形で、天井は平均より少し高い程度でした。スタインウェイのグランドピアノが空間を支配していたため、マイクや椅子、譜面台が設置されると比較的スペースが狭くなり、天井からぶら下がる多数のケーブルのせいで、この空間は「蛇の穴」と呼ばれるようになりました。レコーディングするのに快適な環境とはとても言えません。
(2)テクノロジーは最先端だった
しかし、このように質素な施設にもかかわらず、モータウンは、レコーディング・テクノロジーの最先端に追いつきました。原始的な2トラック・セットアップからスタートしたヒッツヴィルは、1961年に3トラック・フォーマットに移行し、60年代半ばには8ラック、10年代末には16トラックに移行しました。レコードが売れて予算に余裕ができたんでしょうね。それにレコーディング・テクノロジーが最も発達したアメリカにいたことも幸いしたのでしょう。
3 レコーディング・テクノロジーの向上
マーサ&ザ・ヴァンデラスの「Heat Wave」のような初期の曲と、テンプテーションズの「Cloud Nine」のような充実したサウンドを聴き比べれば、その違いがよくわかるでしょう。前者ではトラックの制限のため、タンバリン、スネア、ハイハットはすべて1本のマイクを共有する必要がありましたが、後者では補助パーカッション、複数のギター、バックアップ・ヴォーカル用に専用トラックが用意されています。
スペースの制限から、ヴォーカルブースを置くスペースがなかったので、コントロールルームからスタジオに入る階段に続く廊下を利用して作りました。窓がないので歌手の姿は見えず、マイクでコミュニケーションを取らなければなりませんでした。最初のエコーチェンバーは、1階のバスルームに置かなければならなかったので、ドアの外には警備員が配置され、レコーディング中に誰も水を流さないようにしました。その後、屋根裏部屋をエコーチェンバーに採用し、声の響きを太くし、レコーディングに大きな響きを与えました。
その後、EMTと呼ばれるドイツの電子エコーチェンバーが地下に設置されました。加えて、スタジオには大きなアンプを置くスペースがなかったため、ギターとベースはコンソールに接続され、部屋の1つのスピーカーから聴こえました。セッションの前には、ギタリストたちは決して超えてはならない音量に調整しました。こうした必要な適応が、モータウンのレコードの特徴であるジャマーソンのベースとリズミカルなギターの際立ったサウンドを生み出したのです。
4 トランジスタラジオとカーラジオの普及が音楽を変えた
(1)簡単に音楽が聴けるようになった
もう一つの要因は、リスナーが手軽に音楽を聴けるような商品が開発されたことです。1965年までに、年間1,200万台以上のトランジスタラジオが人々に購入されていました。また、1963年には約5,000万台のカーラジオが車のダッシュボードに取り付けられていました。ゴーディは、この動きに敏感に反応し、自分の音楽をこれらの新しいメディアに向いたものになるよう制作したのです。
この新製品の出現は、ポピュラー音楽界に劇的な変化をもたらしました。小型の携帯ラジオでも音楽が良く聴こえるようにするため、制作技術に変化が生じたのです。プロデューサーは、低品質のラジオスピーカーでも目立つようにクリアなヴォーカル、キャッチーなフック、強いビートを重視するようになりました。これは、そのままビートルズの楽曲制作にも影響を与えました。
(2)モータウン・サウンドの特徴
チーフ・エンジニアのマイク・マクレーンは、カーラジオの音に近づけるために、小型で小さな音のラジオを作りました。モータウンのレコーディングがハイエンドに偏っているのは、部分的にはこの技術に起因しており、レーベルの特徴的なサウンドに新たな側面を加えています。
全体として、モータウンの歴史の後半でファンク・ブラザーズに参加したギタリストのデニス・コフィーは、2004年の自伝「ギター、バー、そしてモータウンのスーパースターたち」の中で、インストゥルメンタル・サウンドの本質的な要素を次のようにまとめています。
①パーカッション
ゴスペル・タンバリンとボンゴを使い、2人のドラマーを起用することもあった
②ギターのバックビート
スネアドラムと一緒にネックの高い位置で演奏されるシャープなサウンドのギターパート(2拍目と4拍目)がある
④曲のスタイル
斬新なジャズ・スタイルのコード、メロディックなコード・チェンジがある
⑤ホーンとストリングスによる豪華なオーケストラ
(3)若きビートルたちも夢中で聴いていた
モータウンのレコードがイギリス国内で自社レーベルとして流通したのは1965年になってからですが、ゴーディは、デッカのロンドン・アメリカン・インプリントと契約を結び、1959年の「Come to Me 」からレコードをリリースしていました。そのおかげで若きビートルたちは、「Money」や「Shop Around」といった45曲を聴き、レコードを購入しましたが、これらのシングルは当初、イギリスのチャートにはほとんど影響を与えませんでした。
しかし、アメリカのレコードを海賊ラジオ局は無断でオンエアしていて、ビートルズやローリング・ストーンズのメンバーたちも熱心に耳をそばだてて聴いていたました。後に彼らの音楽は、冷戦時代の東欧諸国の若者たちが、必死で当局の監視の目をくぐり抜けて聴くことになりました。
5 ビートルズがモータウン・サウンドをイギリスに普及させた
ゴーディがより良い配給契約を結ぶ前に、ビートルズは、イギリスの大衆にモータウンを紹介しようとしていました。1962年3月7日、ビートルズは、マンチェスターのプレイハウス・シアターで「Teenager's Turn - Here We Go」と題されたBBCの番組でラジオ・デビューを果たしました。250人の聴衆を前に、バンドは「Dream Baby」「Memphis」「Please Mr. Postman」の3曲を披露しました
ビートルズが最後の曲を演奏した瞬間、この曲、そしてタムラ・モータウンの曲がBBCで初めて流れたことになりました。ビートルズは、当時気づいていなかったかもしれませんが、彼らは、間違いなくイギリスのリスナーにモータウン・サウンドを広めたのです。イギリスのティーンエージャーは、それまであまり耳にしたことのないサウンドに触れてさぞ興奮したことでしょう。
この話題、もう少し続けます。
(参照文献)サムシング・ニュー
(続く)
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