- 1 ジャズからも大きな影響を受けていた
- 2 幅広いジャンルの曲をレパートリーに加えた
- 3 影響を受けた証拠
- 4 ジャズはスキッフルとも関係があった
- 5 ラテン音楽からも影響
- 6 ロックンロールの影響も受けた
1 ジャズからも大きな影響を受けていた
(1)ロックンロールだけではなかった
「ビートルズは、ジャズから大きな影響を受けていた」というと意外に思われるかもしれません。フランスの一般的な教養書として知られる「Tu Sais...Jazz(あなたの知っている…ジャズ)」と題された出版物があります。そこには、ビートルズやローリング・ストーンズといったロックバンドに関する最終章があります。
そして、ビートルズもストーンズも古いジャズやブルースを知っていて、愛していた」と書かれています。ビートルズがカヴァーしたチャック・ベリーの「Rock and Roll Music」は、モダン・ジャズに対してちょっぴり皮肉を込めた歌詞ですが、チャックもビートルズもジャズは大好きでした。
(2)ポールもブライアン・ジョーンズも
ポールがジョージ・ガーシュウィンをはじめとするジャズの作曲家に長らく親しんでいたことや、ストーンズのブライアン・ジョーンズがトラッド・ジャズを愛していたため、ミック・ジャガーが彼を「古いトラッド」と表現したように、ジャズは、1960年代におけるイギリスのロックの大ブレイクにさまざまな形で不可欠な存在でした。ビートルズは、その最たる例でおそらく最もジャズに傾倒したバンドでもあります。
1968年、プレイボーイ誌は、ビートルズをジャズ・アーティストだと考えていたことを窺わせる記事を掲載しました。同誌が主催したジャズの殿堂は、読者が殿堂入りにふさわしいと思うアーティストに投票するものでしたが、この年、初めてビートルズがトップ25に入りました。ポールが20位、ジョンが25位です。つまり、ジャズ愛好家もジョンとポールを彼らのジャンルに入れたのです。
ちなみに1位は、レイ・チャールズでした。ポピュラー音楽の歴史がいつから始まったのかは分かりませんが、ジャズ、R&B、ロックンロールと流行が変わっても、その魂は世代を超えて受け継がれていったのです。
2 幅広いジャンルの曲をレパートリーに加えた
〈1)ハンブルク巡業の経験
ビートルズは、ハンブルクのバーで船員など年齢や好みがバラバラな客に演奏を披露し、喜ばせるプロ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせたのです。このように年齢層や嗜好の異なる客には、幅広いジャンルの音楽を提供することが求められます。古い音楽に多く触れて育ったビートルズは、この役割に長けていました。
その意味では、ハンブルクは、ビートルズにとって一つの実験場だったかもしれません。どんな曲をどんな風に演奏すれば客が喜ぶか、彼らは、客の反応を見ながら「客に受ける曲」の選択肢を広げていったのです。
(2)ラジオの音楽番組
ビートルズは、ロックンロールの影響を受けて作曲したと思っている人が多いかもしれません。確かにそれはそうなのですが、それだけではなく彼らが影響を受けたのは、様々な時代やスタイルの幅広い音楽でした。
50年代のイギリスでは、ラジオ番組のポピュラー音楽を提供していたのはBBCだけでした。BBCにはクラシックを放送する局とポピュラーを放送する局がありました。ストーンズのキース・リチャーズは、後者からどのように音楽を学んだかについて「プレイリストがヴァラエティーに富んでいた」と語っています。
チャック・ベリーの次はマントヴァーニ、その次はブルース、ペギー・リー......といった具合です。そのおかげで、ミック・ジャガーとともに「サティスファクション」を作曲した男は、他方で「ルビー・チューズデー」や「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」といった曲も書くことができたのです。
(3)ポールは父親の影響を受けた
また、ビートルズの故郷リヴァプールでは、世界中からやってきた船員たちが持ち込んだ最新のR&Bなどのレコードがビートルズに提供されました。しかし、ポールが本当に影響を受けたのは、彼の父親自身がバンドを率いていた1920年代の曲を教わったことに始まります。
ミュージシャンでもあった父親のジムは、いつも自宅のピアノでガーシュウィンの「I'll Build A Stairway To Paradise」を弾いていたとポールは回想しています。この曲は、ガーシュウインの初期のとてもフックのあるメロディで、ピアノ曲「The Gershwin Songbook」というメドレーの一部として発売されています。ピアニストで作曲家のウィリアム・ボルコムが1970年代にレコーディングした名盤があります。
3 影響を受けた証拠
ビートルズの音楽へのジャズそのもの、あるいはジャズが流行していた時代のヒット曲の影響を直接的に証明するものとしては、ビートルズが演奏したカヴァー曲から明らかです。例えば、80年代後半に行われた当時のソ連ツアーで、ポールは、デューク・エリントンの「I Don't Get Around Much Anymore」を演奏しました。このナンバーのヴォーカル・ヴァージョンは、1940年代の大ヒット曲です。
ジョンは、ジャズの愛好家でもあり、初期のレコーディングでは初期のジャズを好んで演奏しました。ハンブルクでの彼のお気に入りの演奏曲の一つで、1961年6月にビートルズがレコーディングしたのは、1920年代のジャズのヒット曲「Ain't She Sweet」でした。
4 ジャズはスキッフルとも関係があった
(1)クオリーメンで演奏した
この曲は、ジョンが作った最初のグループ、クオリーメンが演奏したスキッフルにも多少関係があります。スキッフルは、ギターとホウキベース、洗濯板などを使って演奏する音楽で、実際には20年代にアメリカ南部で流行したジャグ・バンドの別名です。
スキッフルは、1950年代にイギリスでバーバー・ジャズ・バンドなど、さまざまなトラッド・ジャズバンドによって復活させられました。ジョンがポールと初めて出会った1957年7月6日にクオリーメンが演奏した「Putting On The Style」という曲は、アメリカ人で元オペレッタ歌手の書いた20年代の曲で、バーバーと共演したギターリスト兼シンガー、ロニー・ドネガンが1950年代にヒットさせた曲です。1957年7月6日、クオリーメンがこの曲を演奏しました。そう、ジョンとポールが運命的に出会った日です。
(2)キャヴァーン・クラブでも演奏した
その後、1967年にバーバーと彼のバンドがレコーディングしたレノン=マッカートニーのジャズ風ナンバー「Cat Call」は、ビートルズがリヴァプールのキャヴァーン・クラブで演奏した際に使用されています。つまり、ビートルズがキャヴァーン時代の特定のジャズナンバーを実際に作曲して演奏していた証拠がここにあるのです。少なくともポールが書いた「When I'm Sixty Four」「I'll Follow The Sun」はある意味、すべてジャズやミュージック・ホール/ショー・ミュージックのエッセンスを含んでいました。
5 ラテン音楽からも影響
ラテン音楽は、常にジャズと強く結びついており、ビートルズの初期のライヴでも重要な役割を果たしました。その影響は、60年代後半のリハーサルのレコーディングに至るまで感じ取ることができ、1995年にアンソロジー・シリーズとしてリリースされました。
1962年、女性ジャズ・シンガーとして名高いペギー・リーは、「Till There Was You」の素晴らしいラテン・ヴァージョンを発表しました。彼女のレコーディング・スタイルは、そのままビートルズのレパートリーとなり、彼らのセカンドアルバムに収録されました。この曲は、彼女のアルバム「Latin Ala Lee!」に収録されています。
ビートルズのファースト・アルバム「Please Please Me」は、主にエヴァリー・ブラザーズのサウンドである「Cathy's Clown」やゴフィン・キングの「Brill Building(ブロードウェイにあるビルで音楽事務所やスタジオが入っていて名曲をがいくつか生まれた)
」の世界を取り入れており、ラテン、あるいはラテン風の2曲オリジナル曲「Ask Me Why」とカヴァー曲「A Taste Of Honey」が含まれていることでもそれが理解できます。
6 ロックンロールの影響も受けた
もちろん、ビートルズは、ロックンロールの影響も強く受けており、例えば「I Saw Her Standing There」のベースラインは、チャック・ベリーの「I'm Talking About You」を参考にしたことはポール自身が認めています。特にアルペジオ・パターンがよく似ていますね。
また、ビートルズは、R&Bの革新的なシンガーであるジェイムズ・レイのスタイルの影響も強く受けました。1962年、彼らは、ギグで「If You Gotta Make a Fool of Somebody」を演奏し始め、ジョンがリードヴォーカルを担当し、ハーモニカを演奏しました。ジョンは「Love Me Do」のレコーディングでマーティンの指示により急遽ハーモニカを演奏しましたが、すぐに対応できたのはすでにギグで取り入れていたからだと思われます。
(参照文献)オール・アバウト・ジャズ、ザ・ビートルズ・イン・プレイボーイマガジン1964~1972
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