1 モータウン・サウンドの影響
このブログでも度々触れて来ましたが、ビートルズがモータウン・サウンドから強く影響を受けていたことはよく知られています。改めてモータウンとは何かを考えてみたいと思います。
1964年2月にビートルズが初めてアメリカを制覇したとき、彼らは、アメリカの音楽を永久に変えました。英国のグループはかつてないほどチャートに影響を与え、ボブ・ディランなどのフォーク・アーティストはアコースティック・ギターをエレキギターに持ち替え、ビートルズのサイケデリックな傾向は、後にポピュラー音楽に浸透していきました。
レノン=マッカートニーの強力な作曲チームと、急速に成長したジョージ・ハリスンの作曲スキルは、ロックの新時代を象徴する自己完結型バンド、すなわち、自分で曲を作曲するアーティストの到来を告げるものでもありました。これは、ビートルズが登場するまでアメリカ市場を独占していたブリル・ビルディングの作家や他のプロの作曲家にとって脅威となりました。
2 新たなサウンドを生み出した
(1)ビートルズと対抗したレーベル
しかし、そんなビートルズ旋風が吹き荒れたアメリカで一つのレーベルが1960年代にビートルズと競争し、歴史上最も成功した独立系レコード会社になっただけでなく、アメリカで最も成功した黒人所有のビジネスにもなりました。作詞家で起業家のベリー・ゴーディによって設立されたモータウンは、シンフォニックな要素、ジャズ、ロック、サイケデリック、ファンク、ポップなど、さまざまな音楽ジャンルを融合し、普遍的な意味を持ち、巧妙に知的で記憶に残る歌詞を書き、パーカッションやベースを使って強いビートを強調しました。これらは、後のディスコやヒップホップの先駆けとなり、R&Bとポピュラー音楽の間の壁を打ち破りました。
(2)ビートルズと共生関係だった
ビートルズは、モータウンサウンドから学び、初期にはモータウンの曲をカヴァーし、スモーキー・ロビンソンの滑らかな歌唱スタイルと雄弁な作曲テクニックを取り入れました。それに対する感謝の気持ちを表して、モータウンのアーティストたちは、ビートルズの曲をカヴァーしました。人種差別に苦しんでいた彼らは、白人であるビートルズが彼らのスタイルを取り入れてくれたことを心から喜んだのです。このことによって1959年に設立されたモータウンとビートルズは、共生関係にあることが証明されました。
3 モータウンの誕生
(1)作曲活動を開始した
1957年の秋までに、ゴーディはボクサー、ジャズレコード店のオーナー、フォード自動車工場の従業員など、いくつかの職業に就いていました。妻と子供を養うために、彼は、すぐに儲かる職業に就く必要がありました。彼の真の情熱は音楽、特に作詞作曲をすることでした。幸運にも、彼は、1950年代に音楽のルネッサンスを経験していたデトロイトに住んでいました。高校の音楽プログラムは評判が高く、音楽クラブや劇場が数多くあったおかげで、街は才能と熱狂的な観客で溢れていました。
(2)ミュージシャンとの親交
ゴーディは、自分の曲をレコーディングしてくれるアーティストを探して、こうしたクラブに頻繁に通いました。そうしたクラブの一つであるフレイム・ショー・バーは、ゴーディにアーティストやそのマネージャーと交流するまたとない機会を提供しました。ゴーディの姉妹であるアンナとグウェンは、写真とタバコの売店を経営していました。ゴーディは、フレイムのハウスバンドのメンバーであるモーリス・キング、トーマス・ビーンズ・ボウルズ、アール・ヴァン・ダイク、ジェームス・ジェマーソンと親しくなりました。彼らは全員、後にモータウンのスタジオ・ミュージシャンやツアー・ミュージシャンになったのです。
4 名曲を作り出した
(1)作詞家とコンビを組んだ
ゴーディが音楽キャリアを始める上で鍵となるもう一つのつながりが、ジャッキー・ウィルソンのマネージャーであるアル・グリーンでした(アーティストのアル・グリーンとは別人)。フレイムでグリーンと話をしながら、ゴーディは自分の曲を売り込みました。マネージャーは、ゴーディに翌日オフィスに立ち寄るように言いました。その出会いにより、ゴーディは別の作詞家、ロケル・「ビリー」・デイビス(「タイロン・カルロ」というペンネームで作詞)と組むことになり、二人は、ウィルソンの名曲「Reet Petite」と「Lonely Teardrops」を書き上げることになります。
(2)独自の作曲方針を確立した
この時期にゴーディは、ジェラルド・アーリーの「One Nation Under a Groove: Motown and American Culture」に概説されているように、独自の作詞作曲方式を開発しました。
①常に現在形を使用する
②フックをやり過ぎない
③曲の中にハミングできるメロディー(すでによく知られているメロディーに少し似ているもの)があること
④曲のコンセプト、歌詞の言い回し、リズムにオリジナリティーを出す
⑤歌手は歌に仕えるべきであり、歌は歌手に仕えるべきではない
これらの方針は、現代の作曲方法にも通じるものがあるかもしれません。特に③は、曲の中にキャッチーなフレーズを作るということであり、ビートルズが得意としていたところですし、現代のポピュラー音楽でも重視されています。
(3)スモーキー・ロビンソンとの出会い
ウィルソンのために曲を書いている間、ゴーディは、グリーンのためにオーディションを受けたもう一人の意欲的な作詞家兼パフォーマーであるスモーキー・ロビンソンとも出会いました。そうです、ビートルズがカヴァーした「You’ve Really Got A Hold On Me」の作者であり、ビートルズのサウンドに大きな影響を与えたアーティストの一人です。
ロビンソンは、自身のグループ、ミラクルズを連れてきました。グリーンは、彼らのオーディションを断ったのですが、ゴーディは、彼らのサウンドに魅了され、ロビンソンには作詞家として大きな可能性があると感じました。二人は、生涯の友情を築き、ゴーディが作詞家からビジネスオーナーへと転身するにつれ、ビジネスパートナーとなりました。
5 タムラ・レーベルを設立
(1)分業体制を確立した
ゴーディは、こうした初期の成功を喜びましたが、やがて厳しい現実を知ることになりました。作詞家として稼げる金額は、メインの演奏者やプロデューサー、レーベルのオーナーのほんの一部に過ぎなかったのです。当初、ゴーディはプロデューサーとしての方がもっと儲かると考え、スタジオを借りてアーティストの楽曲をレコーディングし、レコードレーベルと流通の契約を仲介しました。
それでもあまり稼げないことが分かると、ゴーディは、ロビンソンの励ましもあって、自分の会社を設立することにしました。1959年、800ドルの融資を受けてフォード工場で働いた経験を基にタムラ・レーベルを設立しました。つまり、生産を効率的に組織化し、自動化して最高の品質を実現できるということです。全員がそれぞれの役割を持ち、例外はほとんどなく徹底して分業化しました。それまではミュージシャンが思い思いにやっていたことを分業化で効率的にできるようにしたのです。これは、ポピュラー音楽の一つのビジネスモデルとなりました。
たとえば、作曲家が曲を書き、プロデューサーがプロデュースし、アーティストがヴォーカルと楽器の演奏をレコーディングするという体制にしたのです。ゴーディはまた、曲の所有権を確保するために出版会社であるジョベテも設立しました。レーベルが成長するにつれ、モータウンという子会社レーベルを設立し、グループをそこに移し、ソロアーティストはタムラにとどめました。1960年までにゴーディは、会社をモータウン・レコード社としました。
(2)Money (That’s What I Want)が大ヒットした
モータウンの始まりとされたレコードは、マーヴ・ジョンソンの「Come to Me」で、1959年にタムラから初めてリリースされ、ベリーが作詞作曲家兼プロデューサーとしてデビューした曲です。この曲はトップ30に入るヒットとなり、R&Bチャートで最高6位を記録し、新興レーベルにとって非常に有望なスタートとなりました。しかし、この会社の次のシングルは、チャートにもっと大きな影響を与え、モータウンサウンドの方向性を決定づけるものとなりました。
それがバレット・ストロングの曲「Money (That’s What I Want)」で、ホットR&Bサイドチャートで最高2位、ホット100チャートで最高23位を記録しました。タムラは1960年にこのレコードを地元でリリースしましたが、「Money」はチェスレコードとの契約を通じて、妹のアンナ・ゴーディのレーベルであるアンナレコードを通じて全国的に流通しました。ゴーディとストロングは曲の大部分を書きましたが、ゴーディの1994年の自伝「To Be Loved」によると、当時秘書だったジャニー・ブラッドフォードが、愛があっても金なければ生活できないという歌詞の重要な部分を書いたとされています。
(参照文献)サムシング・ニュー
(続く)
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