1 創刊に至ったいきさつ
(1)当初はジャズ専門紙を目指していた
ビル・ハリーは、マージー・ビートの創刊に至ったいきさつについてこう語っています。
「当初、私は、ジャズ専門誌を創刊しようと考えていたのだが、ビートルズと関わったことをきっかけに、ロックンロールを扱うことにした。私は、創刊の資金として50ポンドを借り、新聞の名前を『Mersey Beat』とすることにした。」
「その頃、ちょうどマージーでのビート・シーンが流行を迎えていた時だった。そのサウンドにはまだ名前がなかった。私がマージー・ビートを創刊したとき、ボブ・ウーラー(キャヴァーンクラブのDJ)と共同で、リヴァプールからサウスポート界隈において活動していた400以上のバンドのリストを作った。」
「私は、世界でもまだこのような音楽シーンは全くなく、おそらく全世界でもないだろうと分かっていた。それはちょうど、ジャズが始まった時代の転換点、ニューオーリンズに非常に似ていたのだ。」
(2)「マージー・ビート」の聖地となったリヴァプール
何とリヴァプールからサウスポート界隈だけで400ものバンドが存在したというのですから驚きです。街がロックンロール一色に染まっていた雰囲気が感じ取れますね。それにしても、それだけの数のバンドのリストを根気強く作り続けた、ハリーとウーラーの地道な努力も大したものです。
アメリカのニューオーリンズといえばジャズ発祥の地として知られています。それと同じように、後に「マージー・ビート」と呼ばれる新しいサウンドが、正にジャズにおけるニューオーリンズと同じようにリヴァプールで誕生したのです。
2 苦労の末の創刊
「我々は、ヴァージニアを唯一の常勤スタッフとしてマージー・ビートを立ち上げた。私は、学生として奨学金をもらっていたが、その金とすべての時間を新聞につぎ込んで、記事を書き、ページをデザインし、写真を整理し、広告を募集し、新聞を配達した。」
ハリーは、地元の音楽ジャーナリストとしての道を歩み始めました。もっともまだ学生でしたから、資金もありません。なけなしの奨学金をつぎ込んで、新聞を発行していました。この涙ぐましい努力が、初期のビートルズをサポートすることにつながったのです。
「ビートルズは、頻繁にオフィスに立ち寄って電話に応対し、他の定期的に立ち寄る連中としゃべっていた。当時のメンバーは、オフィスに立ち寄った時のビートルズの様子をよく思い出す。特に、ジョンがカウンターに飛び乗って、机から空中に紙を放り投げていたなんてことはみんなが良く覚えていた。」
ビートルズ、特にジョンが好き放題にやっていたことがよく分かりますね(^_^;) スタッフじゃないんだから、彼らが電話に出たって話が通じなかったでしょうに。まあ、しかし、それでも他にスタッフのいない小さなオフィスでは、電話番くらいの役には立ったのかもしれませんが(笑)
3 ジョンが執筆した伝記のオリジナルは失われた
前回の記事で、ジョンの執筆した伝記がコラムとして掲載されたことをご紹介しました。
「私は、『Beatcomber』と題し、レギュラー・コラムとしてジョンが執筆した作品を使用することにした。デイリー・エクスプレス紙のユーモアに溢れたBeachcomberというコラムに似ていると感じたからだ。」
「残念なことに、私は、事務所を移転した時にこの作品のオリジナルを紛失してしまったんだ。その後、ブルー・エンジェル・クラブでジョンと酒を飲んでいる時にこの話をしたら、彼は、ヴァージニアの肩に頭を乗せて泣いていたよ。」
ハリーも罪悪感を感じたでしょうね。ジョンが学生時代に精魂込めて執筆した貴重な作品を紛失したんですから。それにしてもまさか、あのジョンが人目をはばからずに泣いたとは。よほど思い入れがあったんでしょう。
「ビートルズの失われた記録」は数多くありますが、これもその一つですね。
4 ブライアンがビートルズを知るきっかけとなった
(1)マージー・ビート紙の功績
「私が自分の手で配布した新聞の一部は、市内中心部にあったすべての楽器店やレコード店に置かれた。私は、NEMSレコード店の経営者だったブライアン・エプスタインという名の若い男が、彼のオフィスから階段を下りてきたところに出くわした。」
「私が彼に新聞を示して内容を説明すると、彼は12部購入した。その後、彼は、私に電話してきて、もっと新聞を売ってくれと注文してきた。彼は、第2号で12ダースを注文した。これは、1店舗からの注文にしては膨大な数だった。」
12ダースといえば144部(!)です。確かに、一つの店舗にこれだけの部数の新聞は多すぎるだろうと思いますが、ブライアンは、新聞の記事を読んでここで扱っている音楽は売れるとピンと来たのでしょう。彼は、既にこの頃から、若者の間で何が流行しそうかかぎ分ける能力を身に付けていたんですね。
この証言で、マージー・ビートが果たした重要な功績が浮かび上がってきます。一つ目は、ビートルズの存在を広く世間に知らしめる広報紙となったこと。二つ目は、彼らと敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタインを結びつけるきっかけとなったこと。これらは、いずれもビートルズが偉大なアーティストになるために必要な要素でした。
(2)貴重な資料
「ハンブルクでのビートルズのレコーディングを特集した記事を一面にした。アストリッド・キルヒャーが撮影した写真を初めて使用したのだが、それは、ポールがハンブルクから持って帰って私に提供してくれたものだ。」
「そうそう、ジョンの作品とは別にポールの作品もいくつか記事にした。彼は、自分の作品について書いた手紙をよく私に贈ってくれたよ。ビートルズがストリッパーのバックで演奏した時代、彼がハンブルクに抱いた印象、ジョンとのパリ旅行の詳細などだね。」
これも、今となっては本当に貴重な資料です。まだリヴァプールのローカルバンドの一つに過ぎなかったビートルズの詳細についての記録ですから。ハリーがこれを記事にしていなければ、この頃のビートルズにまつわる情報は、メンバーや関係者の記憶に頼るしかなかったでしょう。
このようにマージー・ビートの功績の三つ目は、下積み時代からのビートルズにまつわる情報を記録した貴重な資料となったことです。
(3)ブライアン、マージー・ビート紙に大きな関心を寄せる
「ブライアンは、新聞の記事について議論するため、よく私を事務所に呼び出した。彼は、自分の周囲で盛んな音楽シーンが存在することに驚いた。彼は、私の記事のレヴュワーになりたいと申し出てきた。彼のレヴューは8月3日の第3号から掲載され始めた。」
これも貴重な証言です。ブライアンがビートルズを知るきっかけになったのはマージー・ビートの記事だったのです。つまり、ビートルズがハンブルクから帰国し、リヴァプールで音楽活動を再開した頃から、彼は、ビートルズの存在を知っていたということになります。
そうすると、「ブライアンは、リヴァプールの青年、レイモンド・ジョーンズがNEMSレコード店にビートルズのレコードを買いに来たことをきっかけとして、ビートルズの存在を知った」という話は真実ではないということになります。
もっとも、レイモンド・ジョーンズという青年が実在し、彼がビートルズのレコードを買いにブライアンの店に行ったこと自体は事実です。このことについては、このブログの(その31)で触れています。ただ、それをブライアンがビートルズを知るきっかけとするのは「やらせ」の匂いがしますね(^_^;)
(4)もう一人の広報マン、ボブ・ウーラー
ブライアンは、早くからビートルズに着目し、自分の店の広告を彼らの記事と同じページに掲載しました。店を宣伝することももちろんですが、逆に店とタイアップさせることでビートルズをPRしようと考えたのでしょう。
「ブライアンは、私が掲載したビートルズに関する記事と同じページに広告を掲載した。特に、キャヴァーン・クラブのDJだったボブ・ウーラーは、ビートルズについて最も予言的であり伝説となったコラムの最後にこう書いた『これはファンタスティックなビートルズだ。私は、彼らのような素晴らしいバンドが再び現れるとは思わない。』この素晴らしい予言は、1961年8月31日に公開された。」
この予言は、やがて的中しました。
ウーラーも「アーリー・ビートルズ」に貢献した人物の一人で、いずれ詳しくご紹介する時が来ると思います。
彼は、実に巧みな話術でビートルズを宣伝し、ファンを拡大していったのです。アーティストが成功するためには、こういった有能なサポーターに恵まれることも重要なのだとつくづく思います。
(参照文献)The Internet Beatles Album
(続く)
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