1 アーリエスト・ビートルズ❓
前回のブログで、ビートルズ史上最古といわれる動画をご紹介しました。実は、それよりもっと前にビートルズが写っている動画があります。その一部を静止画にしたのがこれです。
1958年にリヴァプール警察のデモンストレーションを撮影した動画です。騎馬警官が乗馬で障害物をジャンプしているところですが、実は、背後の大勢の観衆の中にジョン、ポール、ジョージ、そしてポールの弟のマイクがいます。
さて、どこにいるでしょうか?正解は次回で披露しますが、まあ、超能力者でもない限り、絶対分からないでしょうね(笑)元の動画の34分辺りでこの場面が登場します。
2 ビート・セッション
手前にあるチケットは、バーケンヘッドのトランメアのノースロードにあった、セントポール長老教会のホールで開催されたユースクラブのための「ビート・セッション」と銘打ったライヴで、ビートルズは、初めてこのセッションに出演しました。バーケンヘッドは、イングランドのマージーサイドにある街です。このライヴハウスは前回もご紹介しましたね。
1962年2月10日、ビートルズは、The Zeroesというバンドのサポートを受けライヴを行いました。入場料は4シリングで、午後7時30分~11時まで行われました。
解説によるとブライアン・エプスタインがビートルズのマネージャーとして初めて取ってきた仕事だとあります。本当にそうなんでしょうか?その辺りは、もう少し詳しく調べてみないと分かりません。
シリングというのは、1971年2月12日までイギリスの通貨単位として使われていました。当時は「1ポンド=20シリング=240ペンス」でした。ややこしいですね(^_^;)当時の1ポンドが現在の5,000円程度だとすると1,000円位?ですかね。
ビートルズは、ちょうど1か月後の3月10日にこの会場で再び出演しました。教会堂はその後敷地内に建て替えられ、解体されました。
3 タワー・ボールルーム
(1)タワー・ボールルームとは?
後ろの赤い文字のチケットは、ウォラシーのニュー・ブライトンにあったタワー・ボールルームで、1961年12月15日、午後7時半から午前1時まで行われたライヴのものです。当時は、最初から午前をまたぐスケジュールでライヴをやっていたんですね(^_^;)
リンゴがビートルズに加入する前に所属していたロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズも出演していました。地元でトップクラスの人気バンドが様々なパフォーマンスを披露しました。
ジョージの手前の人物がロリー・ストームです。リンゴもチラッと見えますね。沢山の女性ファンに囲まれてます。さぞモテたんでしょうねえ~。
サム・リーチがプロモートしたのですが、彼は、1960年代初めにビートルズの数多くのイヴェントをプロモートしました。彼も「アーリー・ビートルズ」に貢献した一人といえるでしょう。上の写真の一番手前に写っている人物です。
(2)ニューブライトン・タワー
このライヴハウスがあったニューブライトン・タワーは、1900年にオープンし、567フィート(173 m)あり、ウィラル半島を見下ろす1000トンの格子で覆われた鋼鉄製の観測塔で、完成した時点ではイギリスで最も高い建物でした。何となく大阪にあった初代の通天閣に似てますね(^_^;)
こちらが初代の通天閣です。ね、そっくりでしょ❓1912年に完成したので、ニューブライトン・タワーより後ですね。
しかし、それも束の間、第一次世界大戦中に閉鎖された後崩壊し始めたため、1919年から1921年の間に塔が解体されてしまいました。
しかし、幸運なことにその下にあったボールルームはなんとか生き延び、およそ50年間使用されました。5,000人を収容できたといいますから、当時としてはかなり大きなホールですね。しかし、1969年に火災で焼失し、その跡地は後にRiver View Parkとして再開発されました。
(3)ビートルズは27回演奏した
ビートルズは、ここで何と27回も演奏しました。キャヴァーンクラブ以外で演奏したホールとしては一番多いかもしれませんが、これも詳しく調べてみないと分かりません。
彼らがこのホールで初めて演奏したのは、この時より1か月ほど前の1961年11月10日でした。その時のチケットは5シリングで、午後7時半から午前1時まで続きました。
ビートルズは、ここで午後8時に1回目の演奏を行い、その後、すぐにナッティ・アッシュ・ヴィレッジ・ホールへと向かい、2回目の演奏を行いました。彼らは、午後11時30分に再び出演するため、タワー・ボールルームに急いで戻りました。
バンドが複数のライヴハウスを掛け持ちで演奏するというのは今でもありますが、同じライヴハウスに再び舞い戻るなんて無茶なスケジュールは流石に組まないでしょう(^_^;)でも、この当時は、そんなことは当たり前でした。
ビートルズとハリケーンズは、ライヴが終わるとマージートンネルを通って、車で先を争うかのようにリヴァプール市内の中心部へ走りました。こんなところでも張り合ってたんですね(笑)
4 地元の芸能新聞マージー・ビート
(1)ビートルズのメジャーデビューを紹介
この日の新聞では、ビートルズがリヴァプールからロンドンに移動し、パーロフォン・レコードからデビュー作の「Love Me Do」をレコーディングしたことが特集記事として掲載されています。リヴァプール出身のビル・ハリーが創刊しました。
この新聞は、ビートルズの成功に重要な役割を果たしました。メディア戦略がエンターテイメントの世界で重要であるということは現代でも変わりません。もちろん、ビートルズだけを取り上げていたわけではありませんが、彼らが記事になること自体が大きなPRとなりました。
(2)ディセンターズ(反逆者たち)が立ち上がったパブ
1958年、ジョンは、リヴァプール・カレッジ・オブ・アート、つまり芸術大学に通っていました。そして、ライス・ストリートの「Ye Cracke(イー・クラック)」というパブに足しげく通い、ビールを飲んでいました。このパブは現在でも経営しています。
左が1960年頃、右が2016年ですが、外観が驚くほど変わっていません。
この名前は古い英語から来ていますが、現代語に置き換えると「The Crack」となるので、そう発音するとこの店のHPには説明してあります。しかし、このスペルからそう発音できるのは地元の人か、よほどこの店に詳しい人だと思います(^_^;)
ハリーは、こう語っています。
「私は、類まれな才能に恵まれた学生、スチュアート・サトクリフ、ロッド・マレーと知り合った。その後、入学してきたジョン・レノンと知り合い、パブでスチュとロッドに彼を紹介した。」
「1960年代初頭、同じパブで、我々は、自分たちをThe Dissenters(ザ・ディセンターズ、反逆者たち)と呼ぶことにし、ジョンは音楽、スチュアートとロッドは絵画、私は文筆でリヴァプールを世に知らしめようと誓いを立てた。」
これは、ジョンを記念して2003年に製作された銘板で、リヴァプールを世界中に知らしめた4人の英雄たちを紹介しています。彼らは、ディセンターズを「演奏しない他のバンド」とも呼んでいたんですね。現在でもイー・クラックの壁に掛けてあります。
「スチュとロッドは、パーシーストリートの住宅に住んでいたが、後にガンビアテラスに引っ越し、ジョンと共同生活していた。イー・クラックでの飲み会の後、ジョンがシンシア・パウエルを連れて来たが、二人の関係は秘密にしていた。」
もうこの頃、ジョンとシンシアは交際を始めていましたが、なぜそれを秘密にしてたのかは分かりません。
(参照文献)ECHO, THE BEATLES BIBLE, The Internet Beatles Album
(続く)
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