★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

とことんついてなかったビートルズ( ノД`)(245)

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1 リハーサルなしのぶっつけ本番

「1960 rock drum kit」の画像検索結果

シルヴァー・ビートルズのドラマーに、ほんの一瞬だけなったノーマン・チャップマンのお話の続きです。前回で終わるつもりでしたが、まだ書き足りないことがあったので、もう少しお話を続けます。

彼は、こう語っています。「ドラムキットは、20ポンドはしたと思う。私は、ドラムを叩くのが楽しくて夢中で練習していたが、バンドに加わるなんて考えたこともなかった。」

「店で仕事をしていたある日の午後、私の上司のブリューワーさんが、階段を降りた店の前で君に会いたがってる人がいると私に伝えてきた。誰だろうと思いながら階段を降りていくと、そこにはポール・マッカートニーがいて、私が練習しているのを聴いたんだが、今晩、ギグがあるので加わらないかと頼んできた。私は承諾した。」

アラン・ウィリアムズの話とちょっと違いますね(^_^;)彼の記憶では、夜にチャップマンが練習しているのを聴いて、練習している場所まで彼とメンバー全員で辿り着いたという話でした。

しかし、本人の話では、昼間に店で仕事をしている間に、ポールが一人で訪ねてきたということになっています。まあ、よくある話で、誰かがどこかで記憶違いをしているんでしょうね(笑)真実は一つしかありませんから。

ポールは、ワラにもすがる思いだったのですが、そんな素振りは見せず、ただ、急いでバンドに加わるようチャップマンに促しました。

彼は、こう語っています。「私は、いきなり座ってプレイを始めた。ともかく頼まれた仕事をこなしたんだ。リハーサルすらなかった。12小節のブルースとかいろんな種類の音楽を演奏した。」

彼の言葉通り、彼は、あくまでも趣味で一人でドラムをやっていただけで、バンドに加わったことすらなかったんです。それがいきなりプロのステージで、ぶっつけ本番で色んなジャンルの音楽のドラムを叩いたのですから大したもんです。おそらく本人は気づいていなかったでしょうが、その時点でもう相当の腕を持っていたのでしょう。

 

2 子どもの頃から素質があった

(1)子どもの頃に鼓笛隊に所属していた

Relatives of British soldiers who died in Cyprus between 1955 and 1959 are  being sought | Dorset Echo

チャップマンの実力を裏付ける話があります。彼の娘のアンネマリーは、彼の父親がどのようにしてドラマーになったかについて証言しています。

「父は、ボーイズ・ブリゲードでドラムを学んだ。」ボーイズ・ブリゲードとは、1883年にイギリスのグラスゴーで結成されたキリスト教を根本思想とする少年たちの集団のことです。ボーイスカウトをイメージすると分かりやすいですかね。おそらく、少年の鼓笛隊のような楽団で太鼓を叩いていたんでしょうね。

「レッド・カーターと呼ばれたドラムの教師から初めてのシンバルのキットを与えられた。それから、ヘッシー楽器店で、ローンで初めてのドラムキットを買った。」

彼は、すぐにシルヴァー・ビートルズに馴染みました。「父は、多くの時間をメンバーとの練習に割いた。そしてドラムの才能があることを示した。メンディプスのミミおばさんの家や他の場所で一緒に練習し、メンバーとすぐに親しくなった。」

(2)やっと見つけたドラマー

どうやら、チャップマンは、子どもの頃からドラマーとしての素質があったようですね。その点は、リンゴに似ています。そして、本当にぶっつけ本番だったのは最初の一回だけで、その後は、ちゃんと他のメンバーと一緒に練習したことも分かります。

メンバーやウィリアムズは、まさにお宝を見つけたような気持ちだったでしょう。こんな腕のいいドラマーが、本当に偶然に見つかったんですから。しかも、すぐにメンバーに馴染んでくれた。これでシルヴァー・ビートルズの将来は安泰だと誰しもが思ったはずです。

チャップマンは、次のように回想しています。「この頃、ジョンは、ビート詩人のロイストン・エリスと出会ったのだが、ひょっとしたら、ビートルズは解散していたかもしれない。ジョンとスチュの二人は詩にのめり込んでいた。彼らは、私にロンドンに行くように勧めた。そこで詩の朗読を聴きながら演奏するためだ。私は、すでに結婚していたから、彼らには同行しなかった。」

これも驚くべき話です。ジョンとスチュの2人がロイストン・エリスにのめり込んでしまい、そのせいでビートルズが解散したかもしれないなんて。彼は、多くのミュージシャンに影響を与えましたが、ジョンもその一人でした。

「ジョンが住んでいたガンビアテラスは、叫びたくなるような場所だった。汚くて乱雑だった。彼らは、暖炉の灰を掃除してゴミを外へ出そうとはしなかった。厄介だったのは、灰がフロアの中央にまで広がっていたことだ。」

 

3 チャップマンの回想

(1)ポールが主導的な役割を果たしていた?

Early Beatles

彼は、ずっと後の1974年にプロドラマーとしてスチュアート・セヴンというバンドがリリースしたEPのドラマーを務めました。本来は、ジャズドラマーでスウィングのお手本とも言える素晴らしいテクニックを持ち、ダイナミクスドラムやドラムロールでも抜群の冴えを見せていました。

大分経ってから、ウィリアムズは、チャップマンと再会しました。その時、彼は、ビートルズのことについてこう語りました。「彼らは、本当に演奏を楽しんでいた。あの当時ですら、彼らは、特別な才能を持っていたと言えるだろう。彼らが言うことややることの全てが、日に日に彼らの腕を上げて行ったんだ。私は、ポールがバンドの中で主導的な役割を果たしていたことを覚えている。多くの人は、リーダーはジョンだったといっているがね。」

これまた大変に意外な話です。メンバーはもちろん、周辺の人々もファンも「ビートルズのリーダーはジョン」という認識で一致しています。しかし、アーリー・ビートルズの時代に、ポールが主導的な役割を果たしていたとは初耳です。

おそらく、チャップマンが言いたかったのは、確かに、ビートルズのリーダーはジョンで間違いないのだが、音楽的なスキルを高めていったという点に関しては、ポールが主導的な役割を果たしていたということではないでしょうか?そういえば、出会った頃にジョンにコードを教えたのもポールでした。下積み時代のビートルズが、バンドとしてのサウンドの基礎を作っていく段階で大いに力を発揮したのかもしれませんね。

(2)喧嘩が始まっても演奏をやめなかった

「ある日の夜、我々がウォラシーのグロブナーボールルームで演奏していた時に、観客の間で喧嘩が始まった。その当時はライヴ中に観客同士で喧嘩が始まるなんて珍しいことじゃなかった。椅子が宙を飛び、ビンがビュンビュン飛び交い、体がありとあらゆる方向に投げ飛ばされていた。警官が突入し、喧嘩していた連中を必死でクラブの外の芝生へ連れ出した。とんでもない光景だった。」

「我々は、それでもずっと演奏を続けた。ジョンは、カーテンの後ろに隠れて大笑いし、ボールは、なぜだかピアノの下に潜り込んだ。それでも演奏は止めなかった。酷い夜だった。」

これだけ派手な喧嘩が始まったら演奏どころじゃないはずですが、そんなことはお構いなしに演奏を続けていた彼らもすごいですね(^_^;)この頃のバンドは、みんなこんな修羅場をくぐり抜けてきたんです。

 

4 ついてなかったビートルズ

(1)チャップマンが徴兵されてしまった!

しかし、チャップマンは、6月18日と25日、7月2日、グロブナーボールルームでの土曜日の夜の3回のギグで彼らと一緒に演奏しただけでした。その後、彼は、軍隊に徴兵され、ケニアクウェートで2年間兵役を務めることになりました。イギリスの徴兵制も、もう終わりかけの時期だったんですが、最悪のタイミングに当たってしまったのです。

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当時のイギリス兵

シルヴァー・ビートルズとウィリアムズは、やっとドラマーを確保できたと安堵し、ドイツのハンブルク巡業にも参加させる予定だったのですが、出発する約1~2週間前に徴兵され、参加できませんでした。

再び娘のアンネマリーの証言です。「父は、軍隊に招集され、「リヴァプールスコティッシュ・ ガーズ」という部隊に2年間在籍した。」運命は、チャップマンの人生を残酷にも変化させ、彼がビートルズに残るという選択肢を完全に奪ってしまったのです。

やっとの思いで見つけたドラマー、しかも、良い腕をしていたのに徴兵で取り上げられてしまうなんて、いやはや、とことんツイてませんね(^_^;)シルヴァー・ビートルズも「オレたちは、何てツイてないんだ( ノД`)」と嘆いたんです。

(2)チャップマンにはビートルズに復帰する気はなかった

兵役は2年間でしたが、帰国したのはいつだったか正確には分かりません。しかし、もし、それが1962年7月だったとしたら、ピート・ベストが解雇されたのが8月ですから、ギリギリで間に合ったことになります。その時に彼が急いでブライアン・エプスタインのオフィスを訪れていれば、彼がビートルズのドラマーとしてメジャーデビューしていたかもしれません。彼がそうしなかったのは、その気がなかったからです。

ムーアがビートルズを脱退したことを後悔したのに対し、チャップマンは、ビートルズになれなかったことに何の未練もありませんでした。不思議なもので才能に恵まれていても、本人にそれを生かそうという気がないってこともあるんですね。これも推測ですが、彼は、ジャズが専門でロックにはあまり興味がなかったからかもしれません。 

テクニックや人間関係という点で、4人目のビートルになれた可能性が一番高かったのはチャップマンですが、肝心の本人にその気がなかったのですから、結論として可能性は0だったということになります。もし、彼が在籍していたら、リンゴはメンバーになっていませんでした。つくづく運命とは不思議なものだと感じます。 

 

(参照文献)Finding The Fourth Beatle

(続く)

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