1 ポールが臨時のドラマーに
(1)ムーアの腕は確かだった
シルヴァー・ビートルズのドラマーだったトミー・ムーアがバンドを辞めたお話は前回しました。彼は、すでにバンドを脱退したものの、1960年6月13日、ジャガランダコーヒークラブで行われたショーに最後の一回だけ出演しました。
ムーアのビートルズでの経歴はパッとしたものではなく、その後も平凡な生活を送ることになったのですが、実は、ジョージが後に「我々が出会った中で最高のドラマーだった。」と述懐したのです。それを聞いてリンゴがとても嫉妬しました。
惜しいですね、それほどの腕があったのに。もっとも、彼がレギュラーになっていたら、リンゴの出る幕はなくなってしまったのが、運命の面白いところです。彼は、1971年にBBC放送のインタヴューを受け、ビートルズを脱退したことを後悔していると告白しました。運命とは本当に分からないものです。
(2)ポールが臨時のドラマーに
マネージャーのアラン・ウィリアムズは、仕事を見つけてくるのが上手く、ビートルズにどんどん仕事を与えてくれたのは良かったのですが、肝心のドラマーがいないため、彼らは、その穴を埋めるのに四苦八苦しました。
今でもビートルズを演奏するバンドが、ステージの途中で曲によって担当する楽器を入れ替えたりすることがよくありますが、それと同じように彼らも全員、一時的にドラムを叩いたことがあったようです。
ドラマーが脱退してしまったとはいえ、すでにウィリアムズがアッパーパーラメント・ストリートにあるニューキャバレー・アーティスツ・クラブでのステージをブッキングしていたため、仕方なく臨時にポールがドラムをやることになりました。
ポールは、こう語っています。「ジョンとジョージと僕の3人が核となるメンバーだった。でも、同時にそれは全員ギタリストでドラマーがいないということを意味した。」
(3)ストリップ劇場でのバックバンド
リヴァプール8という名のストリップ劇場で、ジャニスという踊り子が客にストリップを披露していましたが、ウィリアムズが見つけてきた仕事は、彼女がショーをやっている間にそのバックバンドをやるというものでした。
さすがに彼らもこれは嫌がりましたが、金のために渋々ながら引き受けました。それで、薄暗くて湿っぽい小さなストリップ劇場で、エキゾチックなダンサーのジャニスが踊りながら衣装を脱いでいる間、バックバンドを務めたのです。
ポールは、ドラムキットに座りましたが、ドラム専用のマイクがありませんでした。彼は、こう語っています。「当時はいいマイク設備がなかったから、僕は、箒の端にマイクを括り付けて脚の間に挟んだんだ。それでドラムを演奏するのはとても難しかったけど、何とかやり抜いたよ。それに、ジャニスにたっぷり目の保養をさせてもらったしね。」
ドラマーがマイクを括り付けた箒を脚に括り付けてドラムを演奏するなんて、今じゃ考えられませんね💦彼らも最初はストリッパーのバックバンドなんか嫌だと渋っていたものの、踊り子を後ろから見てニヤニヤしながら演奏してたんじゃないですか?(笑)
ポールは、本当に器用な人で、いつのまに習得したのか、バンドが使用する楽器はおよそどれでも演奏できました。足に箒を括り付けて演奏するなんて、彼にしかできなかったでしょう。おそらく、この頃でもドラマーとしての技量は十分あったと思いますが、さすがに正規のドラマーになるのは彼も拒否したでしょうね。
それは良いとして、演奏に必要なドラムキットはどうしたのでしょう?それがうまい具合にドラマーが次から次へと入れ替わったおかげで、彼らがキットを少しずつ残していったんです。それらを寄せ集めて、一揃いのキットをどうにかこうにか用意することができました。
彼女は「これが私の踊る曲だから演奏して。」と言って、彼らに譜面を渡しました。しかし、彼らは、譜面が読めないので「ジプシー・ファイヤー・ダンス」という曲名を彼女から聞きました。彼らのレパートリーにはない曲だったので、その代わりにそれに似たようなアップテンポな曲で、自分たちが知っている「ラムロッド」というロカビリーを演奏し、その後で「ムーングロウ」という曲も演奏しました。彼らが演奏した「ラムロッド」は、おそらくこの曲だと思います。
辛い仕事ではありましたが、その反面、収穫もありました。リヴァプール8で暇を持て余していた時に、ジョンとポールは、チャック・ベリーの曲を演奏し、地元の黒人ミュージシャンであったヴィニー・イスマエル、オディ・テイラー、ザンクス・ロジたちからギターの指導を受け、ギターの腕に磨きをかけることができたのです。おそらく、彼らからブルージーなサウンドを出すテクニックを教わったのでしょう。
2 ノーマン・チャップマンとの出会い
(1)出会いは全く偶然だった
とある夜、ビートルズとウィリアムズは、ジャカランダクラブでドラマーの穴をどうやって埋めるか話し合っていました。するとウィリアムズは、誰かがどこかでドラムを叩いているのが聞こえたため、表の通りに出ていきました。彼は、ビートルズを外に呼び出し、ドラムの音を辿ったのですが、どこで演奏しているのか分かりませんでした。
翌日の夜、彼らは、再びドラムの音を聞き、何とかそのサウンドを辿って演奏していたドラマーを見つけることができたのです。スレーターストリートにあるジャカランダのほぼ真向かいに、アート工房がありました。
ノーマン・チャップマンは、そこで昼は絵画の額縁を製作したり、修繕したりする仕事をし、夜は、会社のオフィスでレンタルキットを使って、ドラムを趣味として演奏していました。つまり、全くのアマチュアだったんです。
ウィリアムズがレジ会社のドアをノックすると、チャップマンが建物の2階の窓から顔をヒョイと覗かせました。 そこで、ウィリアムズは、バンドのドラマーにならないかとオファーしたのです。信じられないような偶然ですが、これで何とかドラマーを確保することができたのです。
(2)殆ど知られていない
チャップマンは、ビートルズの歴史の中でもほとんど触れられていませんから、彼の名前を知っていたら、相当ビートルズの歴史に詳しい人といえるでしょう。
脱退したムーアもあまり知られていないと思いますが、チャップマンに至っては、ほんの3週間ほど在籍していただけですから。でも、正式なメンバーであったことには違いありません。
彼自身は、ビートルズのメンバーであったことについてほとんど語りませんでしたが、後に1980年のBBCのラジオ番組「マージーサイズ・スペンサー・リー」に出演してインタヴューに応えました。
彼は、シルヴァー・ビートルズに加わった時の事を思い出しながらこう語りました。「私は、スレイター・ストリートにあった「ジャクソンズ・アート・ショップ」という会社に勤めていた。そこにドラムキットをセットして練習していたんだ。」 これは彼が実際に使用していたドラムキットの貴重な写真です。
おそらく、あまり目立ちたがらない性格だったのでしょうね。野心のある人だったらたとえ短期間とはいえ、正式なビートルズのメンバーになっていたのですから、多くを語っていたでしょうけど。
(3)良いドラマーだった
チャップマンが参加したのは短期間でしたが、すぐメンバーに馴染んだようです。そのことは、ジョージの次の言葉が示しています。「大男だったよ。あんまり話したことがなかったから、彼が何を話したかはほとんど覚えていないけど、良いドラマーだったのは間違いない。」
ウィリアムズもこう語っています。「あいつは大男で、身長は190cm近かったよ。とても物静かで優しい声をしていた。あいつにとってドラムは趣味で、以前にバンドに加わったことはなかったんだ。私は、あいつにドラマーを探しているバンドがマージーサイドにいる。ギャラは一晩で10ポンドだが、興味があるなら一緒にやらないかと声をかけた。」
「そしたらあいつは「もちろん、やりますよ。金になることなら何だってやります。ドラムキットはとても高いですからね。キット代金の足しになりますよ。」と言ったんだ。他のメンバーもあいつのことを気に入っていたよ。」
ビートルズは、下積み時代からミュージシャンとしての高いスキルを重視していたバンドだったので、スキルがバンドとして求められるクオリティーに達していないと、他のメンバーからいじめられてしまう傾向にありました。
中でもおとなしい性格のスチュやピートは、いじめのターゲットにされていましたが、チャップマンはそんなことはなかったようです。おそらく、ドラマーとしてのスキルが認められていたのでしょう。何よりジョージが良いドラマーだったと証言していたくらいですから。
でも、彼は、全くのアマチュアで、しかもバンドの経験すらなかったのです。よほど生まれ持った才能があったのでしょう。
(参照文献)seattlepi, The Fab one hundred and Four, Anthology, FANDOM, MENTAL FLOSS, Finding The Fourth Beatle, Long and Winding Roads: The Evolving Artistry of the Beatles
(続く)
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