1 グタグタだったオーディション
(1)ドラマーが遅刻した
信じられないことに、ドラマーとして参加するはずのトミー・ムーアは、オーディション当日に初めてビートルズとセッションすることになったのです。どのバンドもオーディションに備えて一生懸命練習していたにもかかわらず、ビートルズだけは、何の練習もしていなかったのです。
よくそんな状態でオーディションに参加しようなどと考えたものですが、ビートルズ、特にジョンは、いてもたってもいられなかったのでしょう。しかし、それは、あまりに無謀なチャレンジというものでした。
しかも、なお悪いことにビートルズの出番の時間になっても、ムーアは、本業が忙しく遅刻したのです。ビートルズは、出番を後に回してもらったのですが、それでも間に合わず、止むを得ずキャス &カサノヴァズのドラマーであったジョニー・ハッチンソンに頼んでドラムを叩いてもらうことになりました。
ハッチンソンは、「何でオレがこんなガキどものドラムをやらなきゃいけないんだ?」とブンむくれでしたが、何とか引き受けくれました。上の写真が当時のものですが、明らかにふてくされてますね(^_^;)そこへムーアが仕事を終えて、やっと途中から合流しました。
1曲目はジョン、2曲目はポールがリードヴォーカルを取りました。最初の写真は、その時に撮影されたものです。3曲目はインストゥルメンタルでしたが、曲名は記録に残されていません。この間、スチュは、写真を見ても分かるとおり、ずっと審査員に背を向けてベースを弾いていました。そうしたのは、ベースがヘタなのが審査員にバレないようポールから指示されていたからです。
で、肝心の演奏はどうだったかというと、当然のことながらグダグダでした💦ジョージもこの時のことを振り返って「最悪だった」と語っています。オーディションに参加した他のバンドのメンバーも、彼らの演奏はド素人だったと証言しています。唯一の救いは、ジョンのパワフルなヴォーカルとポールのハイトーンヴォイスが素晴らしかったことです。これは、他のバンドのメンバーが証言しています。
(2)ウィリアムズの記憶違い?
ここからが問題なのですが、ウィリアムズの記憶では、パーンズの助言もあってフューリーは、ビートルズをバックバンドに選んでくれました。ただし、スチュをベースから外すことが条件として付け加えられたのです。ジョンは、悩んだ末に彼との友情を重視し、契約を辞退したというものです。
ただし、これは、あくまでウィリアムズだけの証言であって、他のメンバーの誰一人として同じことを証言してはいません。客観的に分析してみると、ウィリアムズの記憶違いであった可能性が高いと考えられます。
なぜなら、フューリーは、あくまでバックバンドが必要だったので、ヴォーカリストは必要なかったからです。バックバンドのギターやベース、ドラムの演奏がヘタではどうしようもありません。ジョージ自身の証言のとおり、演奏はプロのレヴェルには程遠かったのですから、ビートルズがフューリーのバックバンドとして選ばれた可能性は、ほとんどゼロに等しかったでしょう。
往々にして人間の記憶は、時の流れとともに美化されてしまうことがありますが、これもその一つではないかと思います。
2 ウィリアムズの貢献ぶり
(1)メンバーの名前を覚えられなかった
結局、パーンズのオーディションに合格してダフィ・パワーとジョニー・ジェントルのバックバンドとしてスコットランドの仕事を獲得したのは、キャス&カサノヴァズでした。そういった客観的な事実から考えても、この時のビートルズの演奏が、とてもプロのレヴェルではなかったことは容易に想像できます。
しかし、このオーディションに参加したことによってビートルズとウィリアムズとの関係が生まれ、やがて彼がマネジメントを引き受けることになります。
ジョンは、キャスから勝手に付けられたバンド名からロングを外して、ほんの数日間だけシルヴァー・ビートルズと名乗りました。ウィリアムズは、もちろん、新しいバンド名を記憶したのですが、どうも彼は、人の名前を覚えるのが苦手なようで、バンド名のスペルを「Silver Beetles」と間違えて記憶してしまいました。
その上、信じられないことですが、彼は、たった4人しかいないメンバーの名前を覚えられなかったのです。しょっちゅう呼び間違えるので、ジョンが彼をからかって「オレはポールだ。」などと冗談を言ったりしたものですから、彼は、ますます混乱してしまいました。四ツ子でも兄弟でもないのにねえ〜(^_^;)
(2)好きなだけ練習させてくれた
ところが、ウィリアムズは、なぜかスチュのことだけはちゃんと記憶していて、彼にだけは特別に気を許していました。ビートルズが彼の経営するジャカランダクラブに自由に出入りできるようになったのも、ウィリアムズが彼を気に入っていたからです。
彼らは、そこで自由に演奏して腕を磨くことができました。他の3人が一向に言うことを聞かない悪ガキどもばっかりだったので、スチュの真面目な性格を気に入ったのかもしれません(笑)
こういう事実を見ても、ウィリアムズが、いかにアマチュアからプロになろうとしていた頃のビートルズを支援していたかがよくわかります。普通なら練習のためのスタジオを借りるだけでお金が必要でしたが、彼らは、そんなことを一切気にせず、好きなだけ練習できたのですから。
もっとも、演奏ができたと言ってもステージはなく、単にコンクリートのフロアがあっただけでした。おまけにマイクスタンドすらなかったので、ジョンの恋人のシンシアが、ホウキの柄にマイクをつけてマイクスタンドの代わりに支えていたんです。
この頃は、リードヴォーカルがマイクを持って歌うというのが一般的だったとはいえ、マイクスタンドすらないとはねえ〜。それにしても、シンシアも健気(けなげ)でしたね。
(3)リンゴとの出会い
リンゴが、初めてビートルズと出会ったのもジャカランダでした。この頃のハリケーンズとビートルズの間には圧倒的な格差があり、リンゴは、ビートルズの存在には気づいたものの、全く興味を示しませんでした。
この頃すでに彼は、プロドラマーとして十分な実力を備えていたのです。まだまだアマチュアバンドの域を出ていないビートルズに関心を抱かなかったのも当然でしょう。
では、彼の音楽生活が順風満帆だったかというと、決してそうではありませんでした。彼もまた本業を抱えていて、その合間に演奏していたのです。仕事を辞めてプロになるか、あくまでも趣味としてドラマーを続けるのか悩み続けていました。
3 プロとしての初仕事
1960年5月14日、シルヴァー・ビートルズと改名した彼らは、プロミュージシャンとして演奏する機会に恵まれました。リヴァプールのレイソム・ホールでパーティーが開催されていたのですが、出演を予定していたバンドが遅刻したため、オーディションがてらにシルヴァー・ビートルズに演奏する時間が与えられたのです。
この時もドラマーがいなかったので、彼らは、そのステージの主役だったキングサイズ・テイラー&ドミノスのドラマーのデイヴ・ラヴレディを貸してもらうように頼んだのです。
ドミノスの演奏が始まると、彼らは最前列に一列になって座り、それぞれがコピーする箇所を分担して歌詞を一言一句漏らさずメモしました。「ディジー・ミス・リジー」「スロー・ダウン」「マネー」など彼らが演奏したすべての曲です。
ビートルズは、ちゃっかりドミノスの演奏を拝借して、自分たちのレパートリーに加えたのです。皆さんがお気づきの通り、これらの曲は、やがて彼らのデビュー後にレコードに収録されることとなりました。
「ディジー・ミス・リジー」のオリジナルはラリー・ウィリアムズですが、ビートルズのカヴァーは、ウィリアムズのブルージーさとドミノスのポップなフィーリングと上手く融合させてますね。(その144)でも触れましたが、ビートルズは、かなりドミノスのアレンジを参考にしていました。「芸を盗む」というやつですね。
並みのミュージシャンなら聴き流してしまうサウンドも、一つも漏らさず吸収して自分のものにしてしまう。こういう貪欲さが、一流のアーティストの違うところなんでしょう。
4 ウィリアムズ、東奔西走する
パーンズのオーディションに合格できなかったシルヴァー・ビートルズでしたが、幸運なことにまたチャンスが巡ってきました。パーンズがプロモートしているジョニー・ジェントルが、5月20日から9日間の予定でスコットランドの各地でステージを回ることになっていたのですが、バックバンドがいなかったのです。
彼は、切羽詰まって、かってリヴァプールでプロモーターをやってくれたウィリアムズにバックバンドを探してくれと、何と公演3日前の5月17日に電話で依頼してきたのです。いくらジェントルを新人として売り込みたかったとはいえ、バックバンドの用意もないままに出演契約してしまったパーンズの仕事ぶりもどうかと思いますが。
ウィリアムズは、大急ぎで地元のバンドをしらみつぶしにあたりましたが、あまりにも急すぎてどのバンドもすでに出演予定が入っており、ブッキングできませんでした。前日の18日になって彼はスチュに電話して、スコットランドのステージに立てるかどうか尋ねてきました。その一方でドラマーが絶対に必要だったので、またまたムーアを大至急狩り出さなければなりませんでした。
(参照文献)TUNE IN
(続く)
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