★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

プロとして初めてサインしたビートルズ(238)

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1 プロとして初めてのサイン

(1)交通事故を起こした!

ジョニー・ジェントルとビートルズの一行は、1960年5月23日、スコットランドアバディーンシャア州のフレイザーバラでの公演を行いました。

コンサートの会場はダルリンプル・ホールでしたが、そこへ行く途中で、運転手のジェリー・スコットは、疲れたのでジェントルに運転を交代してくれるように頼みました。しかし、いくら駆け出しの新人とはいえ、ツアーの車をミュージシャン本人に運転させますかね?

スコットは、疲れていただけではなく、どうやら酒も少し飲んでいたようです。この時代は、飲酒運転なんてザラでしたからね。

ところが、こともあろうにジェントルが、一行を乗せた小さなヴァンをバンフ郊外の交差点で、フォードの後部に衝突させてしまったのです!あるいは、ジェントルの運転がヘタだったのかもしれませんが。

メンバーのほとんどは無事でしたが、最悪だったのはドラマーのトミー・ムーアで、飛んできたギターにモロに顔をぶつけて脳しんとうを起こした上、前歯が何本か折れてしまいました。いやはや、とんだ災難でしたね(^_^;)

  

(2)救急車を待っている間にサイン

車が衝突した音を聞いて、慌てて付近の住民が家から飛び出してきました。ヴァンの外装にはいかにも芸能人が乗っているというデザインが施されていたので、車の中に誰か芸能人がいるということがすぐに分かりました。

それで、2人の女の子が慌てて家にサイン帳を取りに帰ったのです。まあ、気持ちは分からなくもないですが、普通、こういう時はまず救急車を呼ぶでしょう(笑)

救急車を待っている間、ビートルズは、記念すべきプロとして初めてのサインをしたのです。それは、ビートルズとして初めてのサインでもあり、また芸名を使ったという意味でも珍しい貴重なサインです。2人の女の子がそれぞれにサイン帳を持ってきたので、サインは2種類あります。

ビートルズを含めジェントルもサインしましたが、驚くべきことに大怪我をしたムーアまでが、律儀にもちゃんとサインしていたのです(^_^;)それどころじゃなかったでしょうに。

私は、サインとかそういったものの値打ちはあまりよくわからないのですが、数あるビートルズのサインの中でもトップクラスのものでしょう。今は、誰が所有しているんでしょうね。

ポールは、生まれて初めてプロミュージシャンとしてサインしたことがよほど嬉しかったらしく、家にファンからサインしてくれと頼まれたとハガキを書き送りました。「オレはプロになったんだ。」という実感が湧いたんでしょうね。

ムーアは、救急車で病院に搬送され、他のメンバーはただ見送るだけでした。しかし、内心は相当焦っていたでしょうね。ドラマーがいなくなっちゃったんですから。

2 ジョンはなぜ厳しい態度を取ったのか?

この事故は、ジェントルの過失により起きたものですから、ビートルズは、当然彼に損害賠償を求めることもできました。しかし、リーダーのジョンは、冷静に考えてそれはしない方がいいだろうと判断しました。

これから自分たちがこの業界で成功しようと考えれば、この件は、プロモーターに対する「貸し」になりますからね。こういう冷静な判断ができたことは、やはり、彼がリーダーとしてふさわしかったということでしょう。

ただ、彼がいつも冷静だったかというとそうではなく、状況によっては激しい反応を示したこともありました。例えば、親友のスチュであっても、彼が演奏で失敗すると激怒しました。親友であることと、ミュージシャンとして演奏するということは別だというわけです。

後にビートルズのメンバー全員が、スチュに対して示した態度について語っています。「オレたちと一緒に座るな。食事もするな。あっちへ行けって。そして、あいつはそうした。それで、どうやったらオレたちと一緒にいられるかを学んだんだ。」

冷酷非情と言えばそうかもしれません。しかし、ジョンは、スチュが親友であるからこそ、あえて辛く当たったとも考えられます。そうすることで、他のメンバーたちにプロの厳しさを自覚させようとしたのかもしれません。

実際、この頃のビートルズは、ジョンの厳しい態度がなかったら、バンドとしてまとまらなかった可能性が高かったのです。ジョンが、樽のタガのようにみんなをしっかりとまとめていたんです。

彼が、メンバーに鉄の掟を守らせることによって、ビートルズは生き残り、進化していく方法を学んだのです。ムーアが後に語ったところによると、ジョンは、他のメンバーがホテルの床やヴァンで寝泊りしているにも関わらず、自分だけは、シングルベッドに忍び込んで眠っていました。もっとも、これは、単に彼が自己中だっただけかもしれませんが(笑)

   

3 Now give me money!

彼らは、フレイザーバラのステーションホテルで2泊するためにチェックインしました。彼らが夜にショーを開くことになっていたホールは道を挟んだ反対側にありました。しかし、その時点で、彼らは、所持金をほとんど使い果たしていたのです。

その日は月曜日でしたが、ツアーが急に決まったため、ギャラは週末に支払われることになっていました。ですから、ホテルの宿泊代は最初から払えなかったのです。

ジョニー・レノン(ジョン)は、プロモーターのラリー・パーンズにコレクトコールで電話して、ギャラがいつ支払われるのかを尋ねました。週末に支払われると聞いて「え?マジか?」と愕然としたでしょうね(笑)

27日、ビートルズは、リーガルボールルーム、ナイアンでコンサートを行いました。

ジェントルがロンドンのパーンズに電話をかけた時、怒ったジョンが受話器をジェントルから引ったくってまくし立てました。

ジェントルは、こう語っています。「彼の我慢も限界だった。「オレたちは、もうメチャクチャだ」みたいな感じでまくし立てた。「金がないんだ、金が必要だ、ラリー!」ってね。とにかく、アラン・ウィリアムズが彼らに追加で数ポンドを送ったので、それで何とかしのげたようだ。」

「Now give me money」なんて、「Money」の歌詞そのものじゃないですか!ジョンがこのリードヴォーカルをやった時は、あるいは、この時のことを思い出しながら歌っていたのかもしれません。いかに彼らが金に困っていたかがうかがいしれます。

遠回りして、やっとウィリアムズの話に戻って来ました(^_^;)彼は、ここでもビートルズの救世主となって、彼らに金を送ってくれたんです。ギャラを使い果たしたビートルズに、儲かりもしないのに黙って送金してくれたんですから、彼の貢献振りは大したもんです。

ポールは、後にこう語っています。「そのツアーは、スコットランド中の教会やフレイザーバラのようなホールでとても楽しく演奏した。自分たちは、プロになったんだと感じることができたんだ。素晴らしい想い出だった。しかし、我々は、パーンズのオフィスに電話で延々とギャラが届かないと不満を漏らした。」

「数年後、私は、ラジオ番組でこのことを話した。すると、ラリーは、私を訴えると脅してきた。なぜなら、そのことで彼の叔母たちから強く叱責されたからだ。「ラリー、あなたは、素敵なビートルたちにギャラを払わなかった。」これは彼の恥だよ。」

どうやら、週末に支払われるはずだったギャラも、ポールに言わせると実際には支払われなかったみたいですね。今となっては、どちらの主張が正しかったのか、確かめようもありませんが。

 

4 ムーアが見せたプロ根性

ムーアは、チャーマーズ病院で治療を受けましたが、間もなくジョンとダルリンプル・ホールのプロモーターがやって来て、病院から彼を連れ出し、コンサート会場まで連れて行ってドラムキットに座らせたのです!

重症というほどのことではなかったものの、脳しんとうを起こして前歯を折った人間を、有無を言わさずステージに引っ張り出したんですから、情け容赦ありませんね(^_^;)救急車で病院に搬送された時は、誰も付き添わなかったのに。

鎮静剤を注射されたムーアは、自分がどこにいるのかすらほとんどわからなかったほど意識がもうろうとしていたにもかかわらず、コンサートではちゃんと演奏したんです。これも驚きですね。この頃のミュージシャンって、本当に筋金が入ってましたね。

彼は、打撲のために顔面が赤く腫れ上がり、切った唇が痛々しく縫われていました。しかし、ジョンは、普通は彼の後ろで観客にはムーアが見えないはずなのに、わざと彼の顔が見えるように自分の立ち位置をずらして面白がっていました。ジョンのサド振りも相変わらずですね。

 

5 惨めだった演奏

5月24日は休みだったので、ドラマーのムーアは、前日の交通事故で受けた傷を癒す猶予を与えられたものの、彼らは、その後も公演を続け、翌日にはバンフシャーのキースのセントトーマスホールでコンサートを行いました。

ジョージは、こう語っています。「スコットランドツアーは、我々の最初のプロとしてのギグだった。何マイルも離れたスコットランド北部のインヴァネスの辺りで、ダンスホールを回った。「やった。ギグができるぞ!」」

「だけど、いざ、ダンスホールへ行ってみると、小さなホールで観客が誰もいないことに気づいた。パブを掃除しに5人ほどのスコットランドのテディーボーイ(不良少年)たちが入ってきて、チラッと我々を見ただけだった。我々は、本当に何も知らなかった。孤児みたいで悲しかったよ。靴は穴だらけ、ズボンはシワくちゃだった。ジェントルは豪華なスーツを着てたのにね。」

「彼がエルヴィスの「テディ・ベア」を歌ったんだけど、「Won’t you wear my ring around your neck」ってところがうまく弾けなかったことを覚えてるよ。演奏の出来が悪くて恥ずかしかった。アンプも何も持っていなかったしね。」

でも、本当の歌詞は、「Put a chain around my neck」なので、ジョージの記憶とは違うんですけどね(^_^;)」

youtu.be

「我々が貰ったほんの少しのギャラは、ホテル代で消えてしまった。それで、みんなでヴァンで眠った。誰がどこに座るかでいつももめてた。ヴァンには十分な座席がなかったので、誰かが後輪の泥よけの内側に座らなきゃならなかった。大抵、それはスチュだったね。」

「後輪の泥よけの内側」って、要するに車の外でしよ?だったら、野宿じゃないですか。スチュもこんな酷い扱いを受けたのに、ビートルズを辞めなかったんですね。よく辛抱したと思います。

一行は、26日にコンサートを行い、次の日、ビートルズは、宿泊代を支払わないまま、ホテルを後にしました。パーンズに何度電話しても、送金してくれそうもなかったので、バックれたんですね(^_^;)その後、宿泊代の請求がどうなったのかは分かりません。  

(参照文献)TUNE IN, THE BEATLES BIBLE, scottbeat

(続く)

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