★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズ、プロになる決意を固める(236)

1 ビートルズ、プロになる決意を固める

1960 was probably the most problematic year in The Beatles'⦠| Reliving_Beatlemania on Xanga

ドミノスのステージで、プロとして初めてのオーディションを受けられたシルヴァー・ビートルズでしたが、演奏自体は、プロのレヴェルには程遠いものでした。何よりドラマーを他のバンドから借りているようでは話になりません。

ただ、演奏はグダグダだったものの、プロとしてステージに立った経験は、彼らにとってかけがえのないものとなりました。何より彼らの心の中で、本格的にプロになろうというスイッチが入ったのです。

しかも、コンサートのプロモーターだったブライアン・ケリーは、シルヴァー・ビートルズがこの次はドラマーを連れてきて、まともな演奏をするだろうと期待して、1週間後に次の仕事を与えてくれたのです。

ケリーは、彼らのバンド名を「シルヴァー・ビーツ」と記憶し、地元紙の広告にもこの名前で掲載しました。ビートルズという名前があまりに奇妙だったので、覚えられなかったのかもしれません。彼らがプロとしてまともなバンドとなってからは、何の違和感もなくなったバンド名ですが、当時はよほど変テコな響きだったのでしょう(^_^;)

シルヴァー・ビーツがセンセーショナルに登場したなどと、ほとんどでっち上げに近い記事でしたが、ビートルズではなかったものの、彼らのバンド名が活字になったのはこれが初めてでした。ところが、彼らは、このステージをすっぽかし、はるか北のスコットランド巡業へ行っていたのです。

 

2 若きビートルたちの決断

(1)運命のスコットランド巡業

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ビートルズの巡業といえばハンブルクが有名ですが、その前にスコットランド巡業があったんです。ハンブルクの時はすでにプロになっていましたが、この時、彼らは「プロ・ミュージシャンになるかどうか」の決断を迫られたのです。ハンブルク時代のエピソードが満載なのに比べて、意外と見過ごされがちですがとても重要な時期でした。

ビートルズは、ビリー・フューリーのオーディションには落ちたものの、ラリー・パーンズの傘下にいたジョニー・ジェントルという新人歌手のバックバンドとして、2週間のスコットランド巡業に行くというオファーを受けました。

どんな世界でもそうですが、人との繋がりは大事にしないといけませんね。ウィリアムズがパーンズの仕事を引き受けた実績があったおかげで、新たな仕事のチャンスが増えたのです。売れっ子のバンドは既にスケジュールが詰まっていて、偶々、リヴァプールで暇を持て余していたビートルズにお鉢が回ってきたのです。

急なオファーでさすがのウィリアムズもどのバンドもブッキングすることができず、ビートルズに声をかけたのですが、彼らは、すでに決まっていたリヴァプールでの仕事を放り出してこの話に飛びつきました。多分、こちらの仕事の方が将来の仕事につながるかもしれないと考えたのでしょう。あるいは単純に期間が長かったので、それだけギャラも良かったからかもしれません。

ギャラは1人につき18ポンド(現在の貨幣価値にすると9万円程度)、それとガソリン代が支給されただけです。それでも、貧乏な彼らにとっては夢のような話でした。

(2)人生の岐路に立たされたビートルたち

しかし、ことはそう簡単ではなく、大きな壁が彼らの前に立ち塞がりました。リヴァプールなら彼らの地元ですし、1日で終わりますから何の問題もありませんでした。

しかし、まだ学生だった彼らが、遠いスコットランドで9日間も学業を休むということになると、そう簡単にはいきません。何より反対する家族を説得する必要がありました。ここが彼らの人生にとって、大きなターニング・ポイントとなったのです。

人生には、大きな決断をしなければならない、それも短時間でという時が訪れる時がありますが、彼らにとってはまさにこの時がそうでした。スコットランド巡業への参加を決断するのに要した2日間は、ジョン、ポール、ジョージ、スチュアートの4人のビートルたちにとって、大きな人生の岐路となりました。

学業を優先して音楽は趣味にとどめるか、それともそれを捨ててプロミュージシャンとしての道を歩むかです。9日間という短い期間ではあるものの、巡業に参加する以上は、学業よりプロとしての仕事を優先しなければならなかったからです。

3 腹をくくったビートルたち

この点、ジョンは、はっきりしていました。もちろんアートカレッジは欠席して、スコットランドへ行くことをすぐに決めました。もっとも、同居していた伯母のミミには、何も言いませんでした。言えば猛反対されることが分かっていたからです。

スチュは、正直に両親に打ち明けましたが、当然、こちらは猛反対されました。しかし、彼は、ロックンローラーとしての意地を貫き、学業よりもスコットランド行きを優先したのです。

ポールは、父親のジムに試験前の2週間は休暇がもらえるというウソをつきましたが、当然のことながら、そんなことで騙されるような父親ではありませんでした。しかし、青年に成長した彼を止める力はもうジムにはありませんでした。優等生だった彼が、父親に本格的に反抗したのは、これが初めてだったかもしれません。

下の写真は、同じ年の3月、つまり、スコットランド巡業に行く少し前の時期に、高校の同級生と撮影した写真です。

March 1960, 18 year old Paul McCartney with his Liverpool Institute classmates. Shortly after this photograph was taken, Paul McCartney left the Liverpool Institute to set off on a tour of the south of Scotland, Friday, 20th May, 1960, with The Silver Beetles who were backing Johnny Gentle

ジョージも電気工の見習いとして会社勤めをしていたので、スコットランドへ行くかどうかを決断しなければなりませんでした。兄には「兄ちゃんがオレだったらどうする?」と尋ねました。兄だけは、「面白いかもしれない。」と賛成してくれましたが、他は猛反対でした。

こんな風に彼も家族に猛反対されましたが、彼もスコットランド行きを頑として譲りませんでした。後に「クワイエット・ビートル(静かなビートル)」と呼ばれた位、目立たなかった彼ですが、実は子どもの頃から意志が強く、一度言い出したら聞かない性格だったのです。

一番問題だったのはドラマーのムーアでした。彼は定職についていて、それを9日間も休むなんてヘタをしたらクビになってしまいます。

ところが、意外にあっさりと承諾してくれました。彼は既に結婚していましたが、妻にはバカじゃないのと呆れられてしまいました。彼自身も会社の仕事はあまり面白くなく、スコットランド巡業の方に魅力を感じたのかもしれません。ほんの一瞬でしたが、彼は、正式なビートルズのメンバーとなったのです。

ややこしい話ですが、この瞬間はシルヴァーを取って、単にビートルズと名乗りました。あのビッグネームがここでついに登場したのです。ただし、この時のスペルは「Beetles」でした。

 

4 新人歌手のバックバンド

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ジェントルは、デッカ・レコードでデビューしたばかりの新人でしたから、地方巡業もこなさなければなりませんでしたし、腕の立つバックバンドを必ずあてがわれるとは限りませんでした。

ただ、彼は、ITVテレビの「"Oh Boy" and "Wham"」というポピュラー音楽番組にレギュラー出演していたので、それなりに知られてはいました。写真を見ればわかる通り、若い女性ファンが羨望のまなざしで見つめてましたね。

それにしても、急ごしらえのビートルズとかいう変てこな名前の、みすぼらしくて演奏もロクくにできない、プロとは名ばかりのバンドをあてがわれたのですから、彼は彼で可哀想だったですね(^_^;)下積みの苦労というのは、皆同じようなものです。

実際、スコットランドでプロモーターを務めていたマッキノンは、ロンドンに電話してもっとまともなバックバンドはいないのかと苦情を申し立てました。しかし、そもそもパーンズがツアーの始まる3日前まで、バックバンドを用意していなかったことに問題があったのです。

ビートルズは、リハーサルをほとんどすることもなく、しかも、ジェントルがどんな曲を歌うかすら知らなかったのです。ジェントルというのは優しいという意味ですが、その名前の通り、どちらかといえばバラードが得意な歌手でした。ですから、ビートルズが得意とするロックンロールとは合わなかったはずです。

下の写真は、ジェントルのバックでギターを弾くジョージですが、目が泳いでいていかにも不安そうな表情です。メジャーデビューして、ステージで堂々とリードギターを弾いていた彼からは想像もつきませんね(^_^;)そして、偶然ですが、シューズだけはジェントルに合わせたかのようにそっくりだったのです。

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しかし、ビートルズとしては、プロとしてギャラをもらって、お客の前で演奏するというこの上ない快感を味わった時でもありました。一度この快感を味わった彼らは、二度と元に戻ることはなかったのです。

もっとも、彼らにとっては過酷なツアーでした。食費は全て自分持ちで、宿泊するホテルも自分たちで探さなければなりませんでした。ホテルが取れなかったために、オースティンのキャンピングバンで寝泊まりしなければならなかった時もありました。

「プロは売れなきゃ食えない。」この当たり前の事実を彼らは、早くも思い知らされたのです。

 

5 ジェントルとの交流

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上の写真は、ツアーの初日である5月20日、アロアホールのコンサートの広告です。「Johnny Gentle and his Group」とあるだけで「Beatles」の名前はどこにも出ていませんでした。ジェントルは、新人歌手ではあったものの、デッカ・レコード期待の星とされていました。そして、彼は歌うだけでなく自分で作曲も出来たのです。

 

(参照文献)TUNE IN, scotbeat

(続く)

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