★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ロンドンのロックバンドがハンブルクへ遠征した(248)

「beatles hamburg 1961」の画像検索結果

1 歴代のドラマーたち(追補)

(1)23人のドラマーたち

前にもビートルズの歴代のドラマ-をご紹介しましたが、リストに挙がっていない人がいたので補充しておきます。臨時のドラマーまで加えると、何とアマチュア時代も含めて23人になりました!

これだけドラマーが入れ替わったバンドもそうそういないと思います(笑)並べた順番は、初めて参加した日を基準にしています。

 

(2)クオリーメン

①コリン・ハントン 1956年~1958年
②ピート・ショットン 1957年8月24日
③マイク・マッカートニー 1958年11月

(3)ビートルズ

④トミー・ムーア 1960年5月10日~6月13日
⑤ジョニー・ハッチンソン  1960年5月10日、1962年8月16日
⑥クリフ・ロバーツ 1960年5月14日
ポール・マッカートニー 1960年6月16日~20日、1968年8月22日、23日
⑧ロニー・ザ・「テッド」 1960年6月11日
⑨ジャッキー・ロマックス 1960年6月11日、18日
⑩ノーマン・チャップマン 1960年6月~8月
⑪ピート・ベスト 1960年8月15日~1962年8月15日
リンゴ・スター 1960年8月15日、1961年12月27日、1962年2月5日、1962年5月26日、1962年8月18日~1970年
⑬アラン・レイランド 1961年4月
⑭テリー・マッカーン 1961年12月9日
⑮アンディ・ホワイト 1962年9月11日
⑯ボビー・グラハム 1963年3月24日
⑰ノーマン・スミス 1964年4月16日
⑱ジミー・ニコル  1964年6月4日~15日
⑲アニル・バグワット 1966年4月11日
⑳マル・エヴァンス 1966年6月1日
㉑ナトワール・ソニ 1967年3月15日
キース・ムーン 1967年6月25日
㉓マハプルシュ・ミスラ 1968年1月13日

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ブライアン・エプスタイン、キース・ムーン

キース・ムーンまで加えるのはちょっとどうかとは思いますが、それはともかく、これらを全部知ってたら相当なビートルマニアですね。まだ触れていないドラマーについても、おいおい書くことにします。

(4)メンバーの何人かとプレイしたドラマー

ビートルズのメンバーとしてではなく、一緒にセッションしたか、メンバーの一部と一緒にプレーしたことのあるドラマーです。
①アノイリン・トーマス(ザ・ヴァイキングス・ウィズ・ポール・アンド・ジョージ) 1958年7月
②レイ・スキナー (ジョージ・ウィズ・ザ・レス・スチュワート・カルテット) 1959年2月
③ジェフ・ウェリントン(デリー・&・ザ・シニアーズ・アンド・ザ・ビートルズ・ジャム)1960年10月4日
④フレデリー・マースデン(ザ・ビートメイカーズ‐ジェリー・アンド・ザ・ペースメーカーズ・アンド・ザ・ビートルズ・トゥゲザー)1961年10月19日
⑤リュディガー・ネーバー(ザ・バッツ・ウィズ・スチュアート・サトクリフ)1962年2月
⑥デイヴ・ラヴレディ(ザ・フォージェイズ・アンド・ザ・ビートルズ) 1962年4月5日

ここまでくるともうマニアックの極みですね💦これら一つ一つを解説するだけでも紙幅を取るので、それはまたの機会にします。

 

2 不幸に立て続けに見舞われた

(1)地元の不良に襲撃された

Mods vs Rockers fight Brighton Beach, England, 1964

ビートルズは、下積み時代にも何度か危機を迎えていますが、バンドとして迎えた最大の危機は、やはりドラマーのノーマン・チャップマンが徴兵されて脱退した「ハンブルク危機」と呼ばれるものです。

やっとの思いで見つけたドラマーのノーマン・チャップマンを徴兵で失ってしまったシルヴァー・ビートルズでしたが、彼らの不幸は、これだけに留まりませんでした。

彼らがリヴァプール北部のリザーランド・タウンホールでコンサートを開いた時でした。地元の不良グループが、コンサートの帰りに彼らが機材をバンに積んでいるところを待ち伏せしていたのです。その連中は、スチュを襲撃し、頭を激しく蹴りました。ジョンは、暴漢からスチュを守ろうとして手首を捻挫しました。

スチュの母親のミリーが、その時のことを振り返ってこう語っています。「その辺り一帯が血まみれになっていたわ。私は、息子を医者のところへ連れて行こうとしたけど、あの子は、それを許さなかったの。恐ろしいほど頑なだった。「母さん、医者に電話なんかしたら、オレは、この家を出て行って二度と母さんとは会わないぞ」って。」

この当時は、街のあちこちで若者同士の喧嘩が絶えませんでした。ビートルズは、女の子たちに人気がありましたから、地元の不良グループにとっては面白くなかったのでしょう。

その連中は、「あいつら、ちょっと痛めつけてやれ。」と機会を窺っていたようです。攻撃がスチュに集中したのは、おそらく彼がハンサムで女の子たちに人気があったのと、一番小柄で弱そうに見えたからでしょう。

この時おそらく、彼は、頭部に頭蓋骨を骨折するほどの重傷を負ったと思われますが、男の意地を見せて医者の診察を受けることを拒否したのです。

後に彼は、脳出血で21歳の若さでこの世を去ることになりますが、その原因は究明されていないものの、おそらくこの時に受けた頭部の外傷であると推察されます。この時に適切な治療さえ受けていれば、早逝することもなかったのではないかと思うと本当に残念です( ノД`)

 

(2)実は幸運でもあった

「recruit 1960 england soldiers」の画像検索結果"

ビートルズは、不幸に見舞われたと書きましたが、逆の意味ではとても幸運だったとも言えます。なぜなら、ジョン、ポール、ジョージ、スチュの4人は、ギリギリで徴兵を免れたからです。チャップマンは、彼らより歳上だったので徴兵されてしまいました。

第二次世界大戦後、兵器開発が飛躍的に進んだおかげで、軍隊が兵士の数をそれほど必要としなくなったのです。イギリスは、1959年の総選挙で保守党が圧勝し、1939年10月1日以降に生まれた男子は、徴兵されないことになりました。ジョンは、1940年生まれでしたから、ギリギリセーフだったわけです。もし、彼が徴兵されていたら、ビートルズは存在しなかったかもしれません。

シルヴァー・ビートルズは、スコットランドツアーから帰ってきた1960年6月から7月まで、土曜日の夜にはウォラシーのグロブナーボール・ルームで、木曜日はネストン協会で定期的に演奏する契約をしていました。マネジメントはウィリアムズが行い、レス・ドッドが運営するパラマウントエンタープライズがプロモートしました。地元のプロモーターであったドッドも、アーリー・ビートルズに貢献した一人です。

この頃の彼らのギャラは、1回の出演で10ポンド、そこからウィリアムズは1ポンドの手数料を受け取っていました。  

3 コシュミダー、ロンドンにやってくる

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50年代を代表するアメリカのポピュラー・ミュージシャンたち

1960年5月末かあるいは6月初め頃、今度はハンブルクのカイザーケラークラブのオーナー、ブルーノ・コシュミダーがイギリスのロンドンを訪れました。彼は、その動機について語っていないので、本当のところは分かりません。ただ、ウィリアムズの話がきっかけで、自分の目と耳でそのロックバンドとやらを確かめてみたいと思ったというのがおそらく真相でしょう。

しかし、彼が行った先は、リヴァプールではなくロンドンでした。彼が勘違いしたのか、ウィリアムズがちゃんと場所を教えていなかったのかは分かりません。

当時、イギリスでは、プレスリーなどのアメリカのポピュラー音楽が大流行していました。若者の関心は、ジャズからロックンロールに移っていたのです。やはり、英語という共通の言語があるのは強みですよね。歌詞の意味が深いところまで分かるし、バンドもすぐにコピーできます。

そういえば、ビートルズがドイツのレーベルから「She Loves You」「I Want To Hold Your Hand」をリリースした時、「ドイツでは、ドイツ語でないと売れないから」と会社から言われて、嫌々ながらドイツ語ヴァージョンをレコーディングしました。そんな必要はサラサラなかったんですが(^_^;)

当時、世界のエンターテインメント業界は、アメリカが支配していました。イギリスはいち早くアメリカ音楽を取り入れ、マージーサイドでは雨後の筍のように数百組のバンドがひしめき合っていたんです。ただ、なぜ、マージーサイドという一地方にバンドがひしめき合ったのかは、まだ研究の余地があります。

それを思うと、ハンブルクは、ロックンロールに関しては、随分流行に遅れていたようですね。やはり、言語の違いというハンデは大きかったのでしょう。

(参照文献)TUNE IN, The Beatleg Project, The Beatles Story, Long and Winding Roads: The Evolving Artistry of the Beatles, Finding The Fourth Beatle: The 23 drummers who put the beat behind the Fab Three

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