
1 ジョージは自分のヴォーカルがあまり好きではなかった
(1)自己評価は低かった

ジョージ・ハリスンはビートルズ時代の自分のヴォーカルがあまり好きではなかったと語っていました。しかし、彼の最も有名なレコーディングのいくつかでは、素晴らしい歌声を披露しています。
彼は、ビートルズでの自分のヴォーカルを楽しんでいなかったと語りました。実際、ジョンとポールが彼にリードヴォーカルを担当させることが少なかったのです。しかし、ジョージのヴォーカルは彼が思っていたほど悪くはありませんでした。彼は、しばしば自分のヴォーカルを過度に批判していました。彼は何に付けても控えめでしたね。
(2)プロデビューした時はまだ17歳だった
ジョージが10代の頃、ジョンとポールは彼をザ・クオリーメン(後のビートルズ)へ加入させました。他のティーンエイジャーの少年たちと同じように、ジョージの声質は変化し、より低くなっていきました。ビートルズがドイツのハンブルクに在住してコンサートを開始したとき、ジョージはまだ17歳でした。まだ少年の域を脱していなかったのですから、声もまだ成熟していなかったのは仕方ありません。
2 デッカ・レコードのオーディション
(1)「シェイク・オヴ・アラビー」を歌った
1962年1月1日、ビートルズはデッカ・レコードのオーディションを受けました。ジョージは1922年のヴォードヴィル曲である「シェイク・オヴ・アラビー」を1曲歌う機会を得ました。ジョージがレコーディングでリードヴォーカルを担当したのはこれが初めてでしたが、見事に成功しました。
彼の歌声は古い曲に新しい息吹を吹き込みましたが、ジョージがこの曲を歌うのはこれが初めてではありませんでした。これは、ハンブルクやキャバーン・クラブのステージでは定番曲だったのです。
(2)フランク・シナトラのような歌い方
この曲のジョージの声には、何かとても洗練されたものがあります。「君が眠る夜/君のテントに忍び込むよ」という歌詞を強調していて、それがうまく機能しています。まるでフランク・シナトラや1950年代の他の歌手のように歌おうとしているかのようです。
EMIとのレコーディング契約を結んだ後も、ジョージがリードヴォーカルを担当する機会はあまり多くありませんでした。しかし、歌う時はいつも完璧な歌声を披露していました。
3 ビートルズ時代のヴォーカルは好きではなかった
(1)自信がなかった
1987年、ジョージはミュージシャン・マガジンのティモシー・ホワイトに対し、ビートルズ時代の自分のヴォーカルはそれほど上手くなかったと思うと語りました。
「ビートルズ時代、僕は自分のヴォーカルが好きじゃなかったんだ」とジョージは告白しました。「あまり上手くなかった。いつもすごく不安で、すごく緊張してた。それがヴォーカルを妨げていたんだ」これは意外ですね。彼がリードヴォーカルを担当した曲は、ビートルズ時代はそれほど多くありませんでしたが、それでも誰もが上手いと思っています。
(2)元々喉が弱かった
確かに、ジョージの声はパワフルなジョンやポールと比べて細めです。ビートルズ時代でも「Twist & Shout」や「Long Tall Sally」のように激しくシャウトする曲は歌っていません。ロックンロールでいえば「Roll Over Beethoven」でしょうか。どちらかといえば、バラード向きの声です。おそらく生まれつき喉がそれほど強くなかったのでしょう。
ジョージは、1963年の夏、イギリスのボーンマスにあるホテルで扁桃腺炎(または風邪)を患って療養中に、他にすることもなかったので、ビートルズで自身初めての公式な自作曲である「Don't Bother Me」を制作しました。この体験がなかったら、彼の作曲活動の開始はもう少し遅くなっていたかもしれません。ジョンも風邪をひいてレコーディングしたことはありましたが、ポールにはほとんどそんなエピソードはなかったので、二人に比べるとジョージの喉は元々あまり強くなかったのでしょう。
ジョージは、1964年、ビートルズが初めてのアメリカツアーでニューヨークに到着したときにも扁桃腺炎を発病しました。そのため、2月9日のリハーサルと朝のリハーサルには参加しませんでした。
(3)作曲するようになり自信をつけた
グループの活動が進むにつれジョージは自信を深め作曲活動も増やし、次第に独自の音楽的個性を主張するようになりました。「White Album」「Abbey Road」「Let It Be」の頃には、より高い音域で歌い、より特徴的なフレージングを見せるようになっていました。
これは「The Inner Light」などの楽曲をレコーディングする時にバンドメンバーから受けた励ましの影響も一部ありました。ジョンやポールに合わせようとするのではなく、独自の個性を前面に出すことで、「While My Guitar Gently Weeps」「Here Comes the Sun」「Something」といった楽曲で際立った存在感を示しました。自分で作曲するわけですから、自分が歌いやすいように作るのは当然ですよね。
4 喉を手術した
(1)扁桃腺とアデノイドを切除した
ジョージの声は、ビートルズの最後の数枚のアルバムで、身体的、心理的、そしてスタイル的な要因が重なり大きく変化しました。初期では、ジョージのヴォーカルはジョンやポールと密接に調和し、混ざり合う傾向がありました。これは、彼がより低いハーモニーパートを割り当てられていたこと、そして自身のヴォーカルのスキルに自信が持てなかったことも一因です。ハーモニーではかなり難しいパートを担当してたんですけどね。
1969年2月にジョージが扁桃腺とアデノイドを切除したことが、声の共鳴と音色に顕著な変化をもたらしました。この手術は、声帯を直接変えるのではなく、主に声の通り道の構造と共鳴の仕方を変化させることで声に影響を与えました。肥大したアデノイドと扁桃腺の除去は、気道と鼻腔のつまりを解消し、声の共鳴パターンが変化してより明瞭で鼻声の少ない声につながる可能性があるのです。
(2)手術するとどうなるのか?

手術前は、肥大した扁桃腺とアデノイドが口呼吸を強制し、気流の変化と発声に影響する首の筋肉の緊張により、こもったような音を引き起こすことがあります。しかし、手術後は、鼻呼吸の改善と物理的障害の減少により口腔や鼻腔の空気の流れが円滑になり共鳴が向上するため、声がより明瞭で閉じられた感じや鼻声感が減る傾向にあります。つまり鼻腔共鳴が使えて、より響く通る声になるということですね。
研究によれば、この手術は喉頭や声帯の振動数に直接影響を与えないものの、発声に対する抵抗を減らして容易にし、より明るく開放的な声質をもたらす可能性があります。また、障害物を取り除くことにより舌や口腔が自由に動き、正確な発音が可能になるため、明瞭度や発音の変化も伴います。声質や鼻声度などの音響パラメータに一時的な変化が生じる場合もありますが、キーの高さあるいは周波数は一般的には安定を保つとされています。手術後にトレーニングを受ければ、前より良い声になる可能性が高いのです。
(3)関係者の証言
手術の件に関して本人は何も語っていませんが、証言が残されています。
「1969年2月、彼がロンドン大学病院で扁桃腺摘出手術を受けた時、病院に行ったのを覚えている。これはリンゴが同じように扁桃腺を摘出した数年後のことだった。デレク・テイラー(ビートルズの広報担当者)から、ジョージが汚れた髪を不快に感じているので洗って切ってほしいと頼まれた。病院に着くと、報道陣がニュースを待っていた。私が中に入ると、彼らは近づいてきて、ジョージに会った後に彼が何と言ったか教えてほしいと尋ねた」
「私は彼の病室へ上がり、これほど多くの報道陣を見たことがないと言った。彼はこれが普通で、ただそれに従っているだけだと答えた。記者団が状況を説明してほしいと望んでいると伝えると、私は記者に話す立場ではないため、退出時に『ノーコメント』と返答した。ずっとそう言ってみたかったのだ。ジョージには特別な平穏な波が漂っており、彼と過ごす度にそれを感じた。彼の微笑みには何か特別なものがあった」*1
キャベンディッシュは、1967年から1975年までビートルズ専属の美容師を務めました。彼が当時は箝口令が敷かれていたためインタヴューを拒否したのですが、50年経ってもう公表してもいいだろうと考えて口を開いたのだと思います。ビートルズの側近の証言ですから間違いないでしょう。
5 手術以外にも様々な要因がある
ジョージの場合、1969年初頭に行われたこの手術が、後のアルバムにおける彼のより開放的で特徴的な声質に寄与した可能性が高いと思われます。これは彼が年齢を重ねるにつれて自然に声が成熟していったこと、自分で作曲することで歌唱スタイルに自信を持ったこと、スタジオ技術の進化によりヴォーカルを区別できるようになったことなどの要因と相まって、「White Album」以降に聴かれる彼の声の特異的な変化を生み出したといえます。全員が若い頃からヘビースモーカーで大酒も飲み、キャヴァーンやハンブルクの下積み時代から喉を酷使してきたにもかかわらず、よく誰も喉を潰さなかったなと感心します。
(参照文献)チートシート、ハリソンズ・ストーリーズ
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