
- 1 戦後リヴァプールの貧しい若者たちに楽器を提供した
- 2 儲けより若いミュージシャンを育てることが経営理念だった
- 3 ビートルズとの出会い
- 4 ローンの仕組みと経済的支援の詳細
- 5 ビートルズの音楽発展への具体的な貢献
1 戦後リヴァプールの貧しい若者たちに楽器を提供した

へシーズ楽器店(正式名称「Hessy's Music Centre」)は、リヴァプールの音楽史に欠かせない存在です。この店はビートルズのアマチュア時代に、彼らへ長期かつ低金利のローンで楽器を提供し、彼らの音楽的成長を大きく後押ししました。創業者フランク・へシーが率いたこの店は、1995年まで営業を続け、地元から生まれたマージービート・サウンドのゆりかごとなりました。
今回は、その歴史からビートルズとの関わり、ローンの仕組みまでを詳しく振り返ります。戦後イギリスの厳しい経済下で、一つの楽器店が採算を度外視して、若きミュージシャンたちの夢を支え続けた物語です。
2 儲けより若いミュージシャンを育てることが経営理念だった
(1)創業の背景
へシーズは、1930年代後半にフランク・へシーによってリヴァプールで創業されました。当初はレコード店としてスタートし、市内に複数店舗を展開しましたが、1950年代に入りスタンリー・ストリートをメイン店舗として以来、そこが音楽の聖地となりました。戦後のイギリスでは、物資不足と高インフレが続き、若者がギターやアンプを買うのは至難の業でした。
そんな中、へシーズは革新的な「ローン販売」を導入したのです。定職のないティーンエイジャーでも、わずかな頭金と長期の分割払いで楽器を手に入れられる仕組みを整えました。へシーズは商売人でありながら、音楽に情熱を抱いている貧しい若者たちを支援したのです。
(2)簡単にローンを組めた
このローンの特徴は、厳格すぎない審査にありました。店員のジム・グレティをはじめ、スタッフが顧客の「音楽への情熱」を重視したのです。客がギターを初めて購入すると店員が3コードの簡単なレッスンを無料で付け、初心者でもすぐに演奏ができるように導きました。結果、店は単なる販売店ではなく、ミュージシャンを育てる音楽教室のような存在になったのです。
リヴァプールで音楽を志す若いミュージシャンたちは、こぞってこの店に集合しました。後に「マージービート」と称されるようになった音楽シーンの黎明期を象徴する音楽の聖地として、地元紙でも「マージービートの誕生地」と称賛されました。こうした支援がなければ、リヴァプールのロックシーンは生まれなかったでしょう。
第二次世界大戦にイギリスは勝利したものの、ドイツの空襲でロンドンだけでなく主要都市は瓦礫の山になり、リヴァプールも例外ではありませんでした。ようやくそこから人々が復興への道を歩み始めたのが1950年頃ですから、庶民の生活水準はまだまだ低かったのです。そんな時に簡単なローン審査で楽器を売れてくれ、おまけに音楽の初心者向けに演奏の指導までしてくれたのですから、音楽を愛する若者が殺到したのも無理はありません。
3 ビートルズとの出会い
(1)ジョン・レノンから始まった縁
ビートルズのメンバー、特にジョン・レノンはへシーズの常連でした。最初のアコースティックギターであるギャロトーン・チャンピオンは通信販売で購入しましたが、最初のエレキギターであるクラブ40はへシーズで購入しました。
エレキギターはとても高価で、労働者階級出身のジョンにはとても買えませんでした。しかし、へシーズは、母親のジュリアの承諾を条件にローンを組ませてくれたのです。グレティは1957年にジョンに初めての本格的なギターを17ポンドで売った人物です。ジョンが無料レッスンを利用したかどうかはわかりません。
(2)ジョージもギターを購入

ジョージ・ハリスンも毎日のようにこの店を訪れ、ショーウィンドウ越しにエレキギターを羨望のまなざしでじっと見つめていました。1959年、16歳の電気技師見習いだった時に、フューチュラマ・エレキギター(別名グラツィオーソ・レゾネット、現在はリヴァプールのビートルズ・ストーリーに展示されている)を購入しました。このギターは、彼の母親がヘシーズで割賦販売契約に署名した後、44回の分割払いで購入されました。
ビートルズの元ベーシストだったスチュアート・サトクリフも、ジョンの勧誘でビートルズのメンバーに加わってベースを演奏することになり、初めてここでヘフナープレジデント500/5を購入しました。彼は、絵が売れたばかりでお金を持っていたので現金払いだったでしょう。ただ3人とは異なり、リンゴはあまりこの店は利用しなかったようです。
長期のローンで店側は貸金の回収を急がず、バンドのライヴ成功を待つ姿勢を取っていました。この信頼関係が、ビートルズのキャヴァーン・クラブデビューを加速させたのです。へシーズなしでは、ビートルズの成功はなかったかもしれません。
ビートルズのマネージャーに就任したブライアン・エプスタインの最初の任務の一つは、グループの楽器代としてヘシーズに未払いだった200ポンド(現在の価値で数千ポンドに相当)を清算することでした。今の日本の貨幣価値にすると約120万円にあたります。相当な金額ですが、よく辛抱強く待ってくれましたね。
4 ローンの仕組みと経済的支援の詳細
(1)先進的だったローンの仕組み

へシーズのローンは、当時のイギリスの小売業では先進的なものでした。典型的なプランは、ギター価格が30〜50ポンドであるのに対し、頭金5ポンド、残りを12〜24か月分割払いとするというものでした。正に「破格」であり、低所得でも楽器が喉から手が出るほど欲しかった若者たちには救世主のように見えたでしょう。
金利は低く抑えられ、もし支払いが遅れた時も「次のライヴで払ってくれればいい」と猶予を与えてくれたのです。成功したバンドからは後年一括返済を促すこともありました。ビートルズはブレイク後、借金を清算し、店に感謝状を送りました。辛抱強くミュージシャンの成功を待つというのは、のんびりしたこの時代だったからこそできたビジネスモデルだったのかもしれません。何でも効率が優先される現代だったら、赤字ですぐに潰れていたでしょう。
(2)ビートルズ以外も恩恵を受けた
この制度は、ビートルズ以外にも及びました。ロリー・ストーム&ハリケーンズやジェリー&ザ・ペースメーカーズなど、マージービートを代表するバンドの数十組が恩恵を受けました。店内には試奏スペースとレッスンコーナーがあり、そこで客同士の即興によるジャムセッションが行われることが日常茶飯事でした。こうした環境が、ビートルズのハーモニー感覚や即興性を養いました。
経済的に恵まれない労働者階級の若者にとって、へシーズは「夢への扉」そのものでした。試奏する若者同士がその場でサウンドを合わせてセッションしたのです。貧しい若者たちは、金がなくても低金利で長期ローンを組んで楽器を手に入れ、思う存分演奏できました。若者たちは単に楽器を買うだけでなく、他のミュージシャンたちとのセッションを通じて腕を磨くこともできたのです。
5 ビートルズの音楽発展への具体的な貢献
(1)60年代前半に全盛期を迎えた

さらに、店は情報交換の場でもありました。アメリカンロックの輸入盤や新品ギターの噂が飛び交い、ビートルズのレパートリーを豊かにすることになりました。彼らは、海外から輸入されるレコードや新しくリリースされたレコードの情報をキャッチしてそれを次々と取り込んでいったのです
1963〜64年のビートルマニア全盛期には、へシーズはさらに活気づきました。ビートルズの成功でローン需要が爆発し、店は全国のバンドの聖地になったのです。フランクは「うちのローンがマージービートを作った」と誇り、メディア取材が殺到しました。確かに、へシーズがマージービートの隆盛に大きく貢献したことは間違いありません。
しかし、ビートルズを始め多くのバンドは売れるとロンドンを活動の拠点に移し、リヴァプールからいなくなりました。それに伴って地元の客も減少していき、楽器の販売だけでは経営が苦しくなり、店は多角化経営を余儀なくされました。レコード販売と並行し、1960年代後半まで繁盛を続けました。
それでも、ビートルズのメンバーはこの店に対する感謝の気持ちを忘れず、プライヴェートで訪問したりしました。ジョージはソロ期にギターを寄贈し、それが店内のディスプレイに誇らしげに飾られていました。こうした絆が、へシーズを「伝説の店」に押し上げたのです。
(2)衰退と1995年の閉店

しかし、1970年代以降なるとチェーン店が台頭し、ロックシーンも変化していきました。最新の楽器を豊富にそろえた他の店で購入する客が増えたのです。1980年代にはヴィンテージ販売にシフトしましたが、それも行き詰まり1995年についに閉店しました。
創業者のフランク・へシーが亡くなった後、遺産は地元博物館へ寄贈されました。閉店時には、ビートルズファンによる店舗存続の署名運動も起きましたが、残念ながらへシーズは役割を終えて街のシンボルとなりました。今日、リヴァプールのビートルズ・ツアーでへシーズ跡地はファンの巡礼地となっています。記念プレートが飾られ、オールドファンは昔を懐かしみ、若手のミュージシャンは当時の賑わいを今に語り継いでいます。
(参照文献)ザ・フリーライブラリー
(続く)
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