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★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その113)ビートルズの才能に世界で初めて気づいたのは日本人だった?(その2)

「船村徹」の画像検索結果

前回に続いて、ビートルズ船村徹氏との出会いについてお話します。

 

1 EMIで出会ったのは間違いないのか? 

残念ながら、1962年6月6日にビートルズが初めてEMIのスタジオでセッションした際に、プロデューサーのジョージ・ マーティンがPR写真を撮影するために手配したはずのカメラマンが現れず、その時の写真が残されていないのです。写真が残されていれば、あるいは船村氏も撮影されたかもしれなかったのですが。

 

2 EMIのセッションは、レコーディングだった

「1962 beatles emi studio」の画像検索結果

この日のセッションは記録に乏しいため、オーディションだったのかレコーディングだったのか、スタジオで何が行われたのかなどがはっきりしておらず、長年に亘り論争が繰り広げられてきました。 

 

マーク・ルイソンは、2016年11月出版の日本語版「ザ・ビートルズ史」で、1962年6月6日にEMIで行われたセッションはもはやオーディションではなく、完全にビートルズのファースト・シングルを制作するためのものであったと断言しています。なぜなら、ビートルズとEMIは、既に契約を済ませていたからです。スタジオもそのためのセッティングがなされていました。

 

コントロールルームのエンジニアたちは、ビートルズの演奏を1/4インチのオープンリール・デッキ2台に送ろうとしていたのです。オーディションであるなら、こんなセッティングは不要だったはずです。  

 

セッションは、ジョージ・マーティンではなくロン・リチャーズにより開始され、マーティンは途中からコントロールルームに入りました。もし、これがオーディションであれば、そういったことは部下に任せるというのが当時のEMIの慣習でしたから、彼が同席することはあり得なかったのです。

 

彼があえて同席したのは、これがもはやオーディションではなく、本格的なレコーディングであったことを示しています。彼は、デモ・テープしか聴かずに契約したビートルズの演奏を自分の目と耳で確かめた上で、自らプロデュースしたいと考えたために途中から同席したのです。

1963: George Martin in a sound booth at Abbey Road studios with the Beatles in the background. 

ルイソンが主張するように、これがビートルズの公式のレコーディングであったとするならば、船村氏がオーディションの審査員として参加したという事実とは全く相反することになります。

 

残念なことに、マーティン、ノーマン・スミスなど、当時同席した関係者の多くはもう亡くなっています。ケン・タウンゼントはまだ存命ですかね?

3 EMIより前だったのではないのか?

さらに、もう一つ疑問があります。それは、船村氏がビートルズを含めて3、4組がオーディションを受けていた。ビートルズ以外はソロ歌手だった」と語っていることです。ロン・リチャーズとされる人物から「どのミュージシャンが良かったか?」と尋ねられたとのことですから、明らかにその場には複数のミュージシャンが存在したということになります。

しかし、ビートルズがEMIでレコーディングした当時に、他のミュージシャンも一緒にセッションしていたという事実は確認されていません。それに、オーディションならともかく、レコーディングに複数のミュージシャンが同じスタジオで同時にセッションすることなどあり得ません。

 

EMIには複数のスタジオがありましたから、そこでレコーディングしていたのであれば話は別ですが、それでは船村氏の記憶とは食い違います。

 

以上の事実を総合して考えると、はなはだ失礼ながら、船村氏がビートルズと出会ったというのは、ご本人の記憶違いではないかと思います。おそらくEMIに招待されたのは間違いないでしょうが、それは、彼らのセッションとは違うミュージシャンであり、長い年月を経て記憶が混同したのかもしれません。

 

そこで、私が推理したのが「船村氏は、EMIのレコーディングの前に受けた別のオーディションまたはコンテストに審査員として参加したのではないか?」ということです。その当時、ビートルズは、ジョニー&ザ・ムーンドッグズという名前で様々なオーディションやコンテストに参加していました。

 

リヴァプールに近いマンチェスターで、1959年にキャロル・リーヴァイスが主催した「サーチ・フォー・スター」というタレントの発掘を目的にしたオーディションがありました。これが当時のポスターです。

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ジョン、ポール、ジョージ、ピートは、それに参加するためにバンド名をそれまでの「クオリーメン」から「ジョニー・アンド・ザ・ムーンドッグズ」と改名したんです。誰でもこれに合格すればテレビに出演でき、スターになれる可能性があったのです。

 

また、彼らは、1960年にもラリー・バーンズが主催したオーディションを受けています。ただ、これらは、船村氏が渡欧する前ですから、時期的に早過ぎますね。

「beatles 1961」の画像検索結果

このようにビートルズは、そういった類のオーディションには参加していたので、船村氏が出会ったとすれば、そのいずれかの可能性が高いと思います。

 

船村氏が1961年3月から1962年3月までの間にビートルズと出会ったとすれば、彼らは、ブライアン・エプスタインとはまだ出会っておらず、もちろん、スーツではなく黒の革ジャンを着ていました。これなら確かに「汚い」と言われた可能性はあります。


4 船村氏は、単独でヨーロッパに滞在していた

船村氏の渡欧からビートルズのスーツ着用まで1年間という長い期間があったので、その間に同氏が、オーディションやコンテストでビートルズに出会った可能性は否定できません。

 

ただ、船村氏は、2年間、コペンハーゲンを拠点としてヨーロッパを自由に行き来していたのですが、単独行動で日本人は誰も同行していなかったと考えられますから、同氏の行動は全く把握できていません。そもそも船村氏が渡欧したキッカケも、様々なトラブルがあったため日本を離れたかったことのようですから、なおさら当時の事情を知る人を国内で探すのは困難そうですね。

 

5 他のバンドだった可能性はないのか?

船村氏がロンドンで出会ったのは、他のバンドだった可能性も否定できません。当時、イギリスには似たようなバンドが山程いて、オーディションやコンテストに参加していたからです。船村氏が観たバンドが偶然ビートルズと同じ4人で構成されていて、帰国した同氏が、ブレイクしたビートルズを観て取り違えたとも考えられます。

 

いずれにせよ、船村氏が亡くなられた今となっては、ご本人から直接取材することはできなくなってしまいました。

 

あるいは、ポールかピートが船村氏のことを記憶しているかもしれないとの淡い期待もあります。当時、イギリスでは日本人を見かけることはあまりなかったでしょうから、審査員の中にいればかなり目立ったのではないかと思います。薄い線ですが(^_^;)

 

実は、この件をマーク・ルイソンに2017年2月21日にメールしたところ、早速翌日に大変興味深い貴重な情報だと考える、追加の情報提供を求めるかもしれないとの趣旨の返信がありました。

 

彼の元には、毎日世界中から多数のメールが届いているはずです。にもかかわらず、私のメールにすぐ返信してくれたところを見ると、私の情報が信憑性があり、価値がありそうだと判断したのでしょう。

 

もっとも、船村氏がビートルズの才能に世界で初めて気づいたとしても、ちょっと気になった程度でそれほど重要な意義があったとはいえないでしょう。

 

ただ、大手のデッカ・レコードですら全く歯牙にもかけなかった彼らの才能に、船村氏が例えほんの少しでも気づいたとすれば、ポップス発展途上国だった日本もなかなかのものだったのではないかと思います。

 

6 他のアーティストも育てた

ちなみにビートルズと直接関係はありませんが、船村氏は、ヨーロッパに滞在中パリのパテ・マルコーニから招かれ、ギリシャ出身の新人歌手の教育を依頼されました。

 

船村氏は、その新人歌手を教育しましたが、彼は、同氏を「東洋の師匠」と呼び、敬愛しました。その時以来、彼は、反戦をテーマとした曲を作り始めたのです。やがて、彼は、1969年に「Le Métèque」(邦題:異国の人)を大ヒットさせました。

 

そうです、彼の名は、「ジョルジュ・ムスタキ」です。船村氏は、日本の歌手だけでなく、世界的なアーティストまで育てたのです。

「Georges Moustaki」の画像検索結果

(参照文献)ザ・ビートルズ

(続く)

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