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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その112)ビートルズの才能に世界で初めて気づいたのは日本人だった?(その1)

日本が誇る偉大な作曲家、船村徹が2017年2月16日に亡くなられました。今回は、同氏がビートルズの才能に世界で初めて気づいたのではないかというお話です。

「船村徹」の画像検索結果

 

1 船村徹氏とは

船村徹氏は、1932年6月12日、栃木県に生まれました。大学在学中に作曲活動を始め、1953年に作曲家としてデビューしました。

 

そして、キングレコード在籍中の1955年には春日八郎の「別れの一本杉」が大ヒットし、コロムビアレコードに移籍した後、村田英雄の「王将」がミリオンセラーとなりました。その後も島倉千代子の「東京だよおっ母さん」、北島三郎の「風雪ながれ旅」、鳥羽一郎の「兄弟船」、細川たかしの「矢切の渡し」など数多くの名曲を生み出しました。生涯で作曲した数は4,500曲に昇ります。正に昭和を代表する大作曲家です。

 

2 国際的に認められた実力 

船村氏は、1959年、東映のアニメ映画「少年猿飛佐助」の音楽を制作しました。この映画は、アメリカのMGMから「Magic Boy」として配布され、1960年、第21回ベニス(ヴェネツィア)国際映画祭児童映画部門でグランプリ(サンマルコ獅子賞)を受賞しました。これはその映画の予告編です。

www.youtube.com

そして、これが受賞したことを示すHPです。

ASAC Dati: Ricerca avanzata film

 船村氏がビートルズの実力に初めて気づいた

この受賞をきっかけとして、船村氏は、ヨーロッパを訪問しました。船村氏がビートルズと出会ったのはこの時です。船村氏は、大瀧詠一氏との対談でその時の様子を語っています。その対談は、このHPに掲載されています。

 

「作家で聴く音楽」第十七回 特別企画 大瀧詠一vs船村徹

船村氏は、この対談でグランプリを獲った際に行ったロンドンで、偶然ビートルズのオーディションの審査員となり、3~4組のミュージシャンを審査し、彼らのうちどれが良かったかと聞かれ、あの汚い4人組が一番面白いのでは」と答えたと語っています。大瀧氏もそれ以上突っ込んでインタヴューしていないので、詳細は分かりません。

また、船村氏は、2002年5月22日付けの日本経済新聞の「私の履歴書」という欄で、1961年3月から2年もの長きに亘りヨーロッパへ渡航コペンハーゲンに居住してヨーロッパ各地を訪問したと語っています。船村氏は、このヨーロッパ滞在中にイギリスのEMI、フランスのパテマルコーニから招待を受けました。

 

それが、ちょうどビートルズのデビュー時期と重なるんですね。そして、後に彼らがブレイクした時に船村氏は、あの時観た4人だとすぐに分かったということですから、同氏がビートルズと出会ったことは確実であり、その時の言動から彼らの実力に気づいたのも間違いないでしょう。

 

そこで問題となるのが、船村氏がビートルズと出会ったのは、具体的にいつどこでだったのか?」ということです。

4 いつどこで出会ったのか?

船村氏は、ロンドンのEMI本社に招待され、同社でオーディションの審査をしたと語っています。もし、同氏の記憶が正しいとすれば、1962年6月6日、正にビートルズが初めてEMIでセッションした日ということになります。

 

それまでは、ビートルズと同社との間に何の接点もありませんでしたから。これがEMI本社ビルです。あのプリーズ・プリーズ・ミーのジャケット写真はここで撮影されました。

「emi records building 1962」の画像検索結果「please please me」の画像検索結果

ところが、そういう事実を示したEMI側の資料が今まで発見されていませんし、証言した関係者もいないんです。ビートルズ研究の第一人者であるマーク・ルイソンが2016年11月に出版した「ザ・ビートルズ史」という大著には、この頃の彼らについてこれ以上ないという程詳しく記載されているのですが、船村氏については全く触れられていません。

 

EMIは、国際映画祭でグランプリを受賞したVIPをわざわざ招待した位ですから、かなりの好待遇をしたはずです。とすれば何らかの記録に残っているか、関係者の記憶に残っているのが自然ですよね。記念撮影位は、したのではないかと思われます。

 

それに、日本人がEMIのセッションに同席すること自体も初めてだったでしょうから。むしろ、まったく無名の地方から来た青年たちよりも遥かに関心は高かったはずです。

5 「あの汚い4人組」とは何を意味したのか?

ここで気になるのが、船村氏が「あの汚い4人組」と発言したことです。というのも、ビートルズがEMIでオーディションを受けた時には、既にスタイリッシュなベノドーンスーツを着ていました。したがって、彼らは、少なくとも外見上は、汚くはなかったのではないかと思われます。 

 

しかし、私が所属するFacebookビートルズファンのグループでこの議論をした時に、「『汚い』というのは必ずしも衣装のことではなく、ヘアスタイルのことを指したのではないか」との指摘がありました。確かに、ビートルズは、既にモップトップと呼ばれる当時としては珍しいヘアスタイルをしていましたが、多くの大人は拒絶反応を示しました。船村氏は、それを指して「汚い」と表現したとも考えられます。 

The Beatles at work, EMI studios, Abbey Road, London, England, Tuesday, 4 September 1962. From left: Ringo, George, John and Paul.  Photo: Dezo Hoffmann.

また、ルイソンの著書である「ビートルズ・レコーディング・セッションズ」によれば、警備員のジョン・スキナーは、EMIに現れたビートルズの印象について「痩せっぽちでヒョロヒョロしていて、栄養失調のように見えました」と語っています。

 

伸び放題でちゃんと整髪もしていない頭髪(と大人からは見えた)、そしてヒョロヒョロの外見、これらからすると、いくらスタイリッシュなスーツを着ていても、船村氏の目には「汚い」と映ったのかもしれません。

 

上の画像は、同年9月4日のものですが、確かにジョージは、この時点でも病み上がりかと思わせるような風貌ですね(^_^;)6月6日は、これよりもっと貧相な外見だったのかもしれません。

 

関連画像 

さらに、上記の「ザ・ビートルズ史」下巻のp469には、「レコーディング・エンジニアを担当したノーマン・スミスは、コントロールルームのガラス窓から階下の様子を凝視して、おいおい、何だこいつらは、とつぶやいた。「それは…」と彼は振り返る。「最初は見過ごしていたが、「えっ?」と驚いてもう一度見直す感覚だった」」と記載されています。

 

テクニカル・エンジニアのケン・タウンゼントも彼らの長髪とリヴァプール訛り丸出しの話し方に違和感を覚えたとあります。

 

スミスが思わずビートルズを二度見したという話は、ちょっと笑えますね(^-^)どうやら、「リヴァプールという地方からロンドンという大都会へやってきたみすぼらしい身なりをした青年たち」というのが、EMIのスタッフがビートルズに対して受けた第一印象のようです。とすれば、船村氏が「あの汚い」と表現したのも無理はないかもしれません。

 

当時のスタッフの記憶を辿ると、ビートルズがスーツを着ていてもみすぼらしく見え、船村氏の「あの汚い」発言に繋がったともとれます。

 

疑問はますます深まるばかりです。次回でもう少し追及してみたいと思います。

 

 (参照文献)ASACdati、ザ・ビートルズ レコーディング・セッションズ完全版、ザ・ビートルズ

(続く)

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