- 1 肝心のビートルズが登場しない?
- 2 ホッグはありとあらゆる角度から撮影した
- 3 婦人用のコートを着用した
- 4 マイクは女性のパンストに包まれていた
- 5 ジョージのギターはカスタマイズされていた
- 6 「魔法の中の魔法の一日」
1 肝心のビートルズが登場しない?
(1)スタッフはスタンバイしていたが
屋上でコンサートをすることが決まり、機材の重量を支えるため、スタッフは、足場に板を敷いて準備しました。コンサートが始まる予定の数分前に、ビートルズは、階段の上の小さなフロアに集合しました。彼らの足は寒さで冷え切っていました。そりゃ、真冬のロンドンでしかもビルの屋上ですからね(^_^;)
ところが、スタッフがとっくにスタンバイしているのに、肝心のビートルズがなかなか屋上に出てこなかったんです。ゲリラ・ライヴで観客がおらず、しかも屋上ですから、仮に観客が集まったとしても彼らには見えません。ですから、彼らが緊張する理由はそれほどなかったのです
しかし、そうはいっても、アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコのキャンドルスティックパークで、ビートルズの公式なラスト・コンサートが行われたのは1966年8月29日で、それ以来2年半ぶりのコンサートです。「All You Need Is Love」の演奏は大勢の人前でやりましたが、あれもスタジオでのレコーディングでコンサートではありませんでしたから。
(2)ジョンの一声で決行!
「ポールはやりたがっていたが、ジョージはやりたがらなかった。リンゴは、最初はどちらでもいいという感じだったが、そのうち(屋上でやる)意味が分からないと言い始めた。」とホッグは語っています。寒風吹きすさぶビルの屋上で、コンサートのコンディションとしては最悪ですから、やる気にならないのも当然ですよね。
そこでしばらく4人ともじっとしていましたが、ジョンがたまりかねて口を開きました。「ええい、クソッ、もうやっちまおうぜ!」
ジョンのこの一言で、4人は堰(せき)を切ったようにビルの屋上へ飛び出していきました。今となっては、ジョンの決断に拍手を送りたいですね(パチパチパチ)。彼のこの一言がなければ、あの歴史的なコンサートはなかったかもしれません、いや、なかったでしょう。
2 ホッグはありとあらゆる角度から撮影した
(1)全方位にカメラを配置した
ホッグは、ビルの屋上に設置した5台のカメラだけでなく、ありとあらゆる角度から決定的瞬間を捉えるため、カメラクルーを配置し、隣接する建物とアップル社のレセプションエリアに送り込みました。つまり、およそ配置できる全方位にカメラを配置したのです。その結果、歴史上最も象徴的なコンサートの映像が数多く撮影されました。
もちろん、ビートルズは既にスーパースターでしたが、それでもこのシーンがまさか50年にも亘り語り継がれることになるなどとは、ホッグ自身、予想だにしていませんでした。結果的にそのほとんどは未公開映像となったわけですが、貴重な記録を残したという意味でも、またリメイクするための素材を残したという意味でも、大手柄といって良いでしょう。
(2)ホッグは、オーソン・ウェルズの隠し子?
話が脱線しますが、「ホッグは、オーソン・ウェルズの隠し子ではないか?」という噂は、いつの頃からかずっと流れていました。オーソン・ウェルズといっても、若い方には分からないと思いますが、「第三の男」という名画に主演し、その後、監督として活躍しました。
映画の才能は、彼のDNAの中にあったのかもしれません。というのも、2011年の自伝の中で、ホッグは、自分がオーソン・ウェルズの唯一の息子であると信じていることを明らかにしたからです。そういえばどことなく風貌も似ています。
彼の母親である女優のジェラルディン・フィッツジェラルドは、半ば公然とささやかれていた噂を否定しました。しかし、伝えられるところでは、彼女は、家族の友人グロリア・ヴァンダービルトには、それが真実であることを打ち明けたそうです。
やがて、ウェルズの長女がホッグの主張を支持すると表明しました。おそらく、母親から聞かされていたのでしょう。ホッグは、真実を明らかにしようとDNAテストを受けましたが、結果は決定的なものではありませんでした。
3 婦人用のコートを着用した
1月の午後、ロンドンの気温は7度でした。ウェストエンドの建物を覆っていたのは、冷たい風というよりもロンドン名物の霧で、ヘリコプターからのショットは断念せざるを得ず、天気予報では雨が降る可能性が非常に高かったのです。当然のことながら、これらはライヴにとっては最悪の条件でした。
ジョンは「寒くて手がかじかんでコードが弾けないよ。」と演奏の間にぼやきました。ジョージは、このプロジェクトの総責任者で、アップル社のアメリカ現地担当者であるケン・マンスフィールドが定期的に火をつけたタバコを握らせてくれたおかげで、指先を温めることができました。
寒さを凌ぐため、ジョンは、ヨーコの毛皮のコートを借りました。実は、普段でもそんなことがあったようです。
ここのシーンやショットだけを見た人は、男性が婦人用のコートを着ているので、違和感を覚えるかもしれません。確かに、ロックバンドとしてはちょっとシュールな光景でしたが、逆にそこが面白いところでもあります。
リンゴも妻モーリーンの赤いレインコートを着用しましたが、これはそんなに違和感はありません。ジョージもコートを着用しました。ポールだけですね、コートを着てなかったのは。しかし、あの寒さでコートを着なかったなんて鉄人ですね。
4 マイクは女性のパンストに包まれていた
冷たい強風はまた、ドラムとギターアンプのサウンドをレコーディングする繊細なスタジオマイクにとって、厄介な問題であることも分かりました。そもそもスタジオに風なんか吹いてませんから、マイクもそんな設計にはなっていません。
風の騒音を最小限に抑えるために大急ぎでシールドが必要になったので、テープエンジニアだったアラン・パーソンズが、その日の朝、女性のパンストを買ってこいと命じられました。彼は、後にピンク・フロイドの担当になりました。
パーソンズは、後に雑誌「Guitar Player」のインタヴューにこう応えています。「私は、近くのデパートに走って行き、「3組のパンストが必要なんです。どんなサイズでも構いませんから。」」と注文した。
「店員は、私が銀行強盗をやろうとしているか、女装する趣味の男性だと思ったようだ。」そりゃ、男が慌てて店に駆け込んで来て、「どんなサイズでも良いから3組のパンストをくれ」って言ったら、そう思うのもムリないですよ(笑)
5 ジョージのギターはカスタマイズされていた
ジョージがルーフトップ・コンサートで使用したテレキャスターは、フェンダー社からプレゼントされたものでした。それをギター職人のロジャー・ロスマイスルとフィリップ・クビッキの2人がカスタマイズしました。
その当時、同社は、オールローズウッドギターの新シリーズを発売しており、そのモデルのプロトタイプをビートルズが使用してくれるのは絶好のPRのチャンスとなり、大喜びしました。
ドイツ人のロスマイスルは、リッケンバッカー社に勤務している間に有名な300シリーズを開発しました。リッケンバッカー325は、ジョンが愛用したことで一躍有名になりました。また、彼は、ベースの4000シリーズも開発し、4001はポールが愛用しました。
その後、彼は、ギブソンに移籍し、その後にクビッキが入社し、彼の部下になって手ほどきを受けました。やがて彼は独立して、ファクターベースと呼ばれる大ヒットモデルを開発しました。
ギターは、カスタマイズに何時間もかけ、航空機の専用座席でイギリスまで大切に運ばれ、アップル本社に手渡されました。彼らが映画「Let It Be」のチケットを買い、大画面で彼らの手仕事によりカスタマイズされたギターを見るまで、1年以上もの長い間、ギターがちゃんとジョージの手元に届いたのか、カスタマイズは彼の気に入ったのか、実際に使用してくれるのか確信がありませんでした。
映画の大画面で自分たちがカスタマイズしたギターを目にした瞬間「私は、とても興奮して、思わず自分の席から飛び上がった。」とクビッキは回想しています。
「職人冥利に尽きる」というところでしょうか。
6 「魔法の中の魔法の一日」
(1)ビートルズ主導のライヴ
パーソンズは、1月30日のルーフトップ・コンサートを解散寸前のビートルズが起こした「魔法の中の魔法の一日」だったと回想しています。彼がそう感じたのも当然でしょう。あれほど険悪な関係だった彼らが、最悪のコンディションにもかかわらず、あれよあれよという間に、あの素晴らしいパフォーマンスを彼の目の前で繰り広げたんですから。
ビートルズは、屋上に上がってギアを入れましたが、ホッグのアイデアは採用しないと決断しました。ホッグは、こう回想しています。「我々は、12時30分のランチタイムに外出する人々をターゲットにしようと計画した。私は、1時までに20曲を演奏するよう彼らに提案したが断られた。」
ん?20曲?それらは、セットリストに入っていたのでしょうか?ホッグもビートルズが用意していない曲までやれとは言わなかったはずですから。彼らがツアーをやっていた頃もそんなに多くの曲はやりませんでした。セットリストは絶対にあったはずですが、未だに発見されていません。
(2)結果は大成功!
ビートルズのファイナル・コンサートは、自分たちの目には見えない観客に対して行われた、打ち合わせも十分しないままの荒っぽい演奏ではありましたが、そのラフさがかえってパワーを感じさせました。ほとばしる情熱と喜びの瞬間が一気に燃え上がったのです。
その直後に、彼らがレコーディングしたサウンドを再生して聴いてみると、生き生きとしてエネルギーに満ち溢れていました。マーティンは、「うまくいけば、この成功は、次の作品を制作するための試運転になるかもしれない。」と示唆しました。流石はマーティンですね。彼が予想したとおり、ビートルズは、この後、彼らにとって最高傑作と呼ばれるアルバム「アビイ・ロード」を完成させたのです。
しかしながら、この素晴らしいルーフトップ・コンサートをやり遂げても、彼らの解散を食い止めることはできませんでした。コンサートは、ビートルズが混乱のさ中にあっても、秩序を取り戻せることを証明しましたが、結局、それは新たな始まりを示すものではなかったのです。
(参照文献)Rollingstone
( 続く)