1 アメリカの人気DJだった
(1)アメリカでビートルズを神格化させた
ビートルズの側に「マレー・ザ・K」という男がずっと一緒にいました。彼は、メンバーでもスタッフでもないのに、いつのまにかビートルズの懐に潜り込んでいたのです。今回はこの不思議な人物についてお話しします。
マレー・ザ・KはアメリカのDJでビートルズがアメリカに来た時、彼はすでに人気DJとなっていました。彼は、ビートルズがアメリカで成功する上において大きく貢献したのです。彼は、1964年にアメリカでビートルズを人々に浸透させ、コンサートで演奏することに重要な役割を果たしました。
(2)マレーはビートルズを熱烈に売り込んだ
1年前からDJとして働いていたマレーは、ニューヨークでトップクラスのDJとして人気の絶頂期にあり、主要なラジオ番組を持っていました。ビートルズの熱烈な支持者だったマレーは、彼らの曲を頻繁にかけ、自らを5人目のビートルと称しました。これは驚くべきマーケティング戦略でした。
そうすることで、マレーはDJの強烈な個性を活かし、マネージャーのブライアン・エプスタインとともにアメリカでブレイク寸前だったリヴァプールの若者たちに神秘的なイメージをもたらしたのです。アメリカの人気 DJが熱烈にビートルズを支持したことは、アメリカの若者たちにビートルズを神格化するのに十分な役割を果たしました。
2 ビートルズの輪の中に入った
(1)ロネッツを通じて知り合った
マレー・ザ・K は、ビートルズが仲間に迎え入れた最初のメディア関係者の一人でした。リヴァプール出身の若者たちは、自分たちが好きなロネッツなど当時有名だったグループのプロモーション活動を通じて彼のことを聞いていました。
ペパーミント・ラウンジのマイアミ支店で、ガールズグループのロネッツはマレーと出会いました。彼は、自身が主催しているブルックリン・フォックスのショーで彼女たちにダンスと歌を披露して欲しいと思っていました。彼女たちのショーを観た大勢の観客の中には、若き超一流プロデューサーのフィル・スペクターもいたのです。
ビートルズがアメリカでブレイクする前、ロネッツが「Be My Baby」をリリースしてヒットさせました。1964年1月にロネッツがイギリスをツアーした際、ビートルズやローリング・ストーンズなどのイギリスのバンドが彼女たちを歓迎しました。ブライアンは、ビートルズがアメリカに行った時、誰を頼ればいいかとロネッツに相談したところ、彼女たちは、マレーがアメリカの放送業界で一番力を持っているから彼を頼るべきだと紹介したのです。
(2)人種やジャンルにこだわらなかった
マレーは黒人やラテン系のアーティストの才能を信じ、白人歌手のカヴァー・ヴァージョンよりも彼らのレコードを好んでラジオで放送しました。放送で広いジャンルの音楽に対するリスナーの好意を築くことによって、マレーはあらゆる階層のファンをライヴショーに引きつけました。音楽に対する彼らの情熱のおかげで、人種間の緊張が生じる余地はほとんどありませんでした。
まだ人種差別がひどい時代だったにもかかわらず、マレーは、黒人やラテン系のアーティストの曲を好んで選曲したのです。人種やジャンルに全くこだわらなかったという点において、ビートルズと通じるものがあったのかもしれません。
3 ブライアンはマレーを頼った
(1)記者会見で目立った男
ビートルズがアメリカで人気を博し始めると、バンドのマネージャーであるブライアン・エプスタインは急いで渡米を手配しました。空港に着陸するとすぐに、ビートルズはアメリカでの最初の大きな記者会見に案内されました。そこで彼らは、「早口で、少し耳障りなアメリカ人DJ」と評するマレー・ザ・Kに気づきました。マレーはカラフルなスポーツジャケットにポークパイハットという派手な格好をしていました。
ジョージは、皮肉交じりに「君の帽子、素敵だね」と声をかけると、マレーはためらうことなく帽子を脱いでジョージに「じゃあ、あげるよ」と手渡しました。ジョージの皮肉に気がつかなかったのか、気付いていない振りをしたのかはわかりません。ビートルズもユーモアが大好きですし、アメリカ人のマレーも派手で目立つことが大好きでした。お互いに何か通じ合うものを感じたのかもしれません。真面目な日本人だったら絶対にやらなかったでしょうね。
しかし、マレーのこの突飛な行動は流石に他の記者たちの眉をひそめさせました。会話の最中、CBSの技術者が「マレー・ザ・Kにくだらないことをやめるように伝えろ」と叫びました。リンゴは、マレーの方に向かって「くだらないことをやめろ、と彼が言ってるよ」と叫びました。それでも彼は気にもかけませんでした。
(2)マレーはインタヴューを生放送した
記者会見場から、ビートルズはニューヨーク市警の車4台と白バイ警官2名に護衛されてプラザホテルに到着しました。ホテルの周囲はファンであふれ、ビートルズはホテルの部屋に缶詰め状態でした。彼らはアメリカのテレビを見たり、窓の外を眺めてファンをからかったり、DJとおしゃべりしたりして時間を過ごしました。
マレーは、すぐに自分のラジオ局であるWINSを説得して、彼らが滞在していたプラザホテルのビートルズのスイートルームから彼のプライムタイム番組を生放送させたのです。その後、マレーがアメリカツアーに同行するよう誘われたかどうかは不明ですが、なんとか仲間入りを果たしました。イギリスのメディア研究家であるステファニー・フレモーは「アメリカの DJマレー・ザ・K が初めて放送中に自分を『5人目のビートルズ』と名乗ったというのは伝説の一部だ」と指摘しています。
(3)ノーギャラで取材に応じた
「彼らは、プラザ交換台の当惑した交換手たちを早口でかわした何十人ものDJたちと、気さくに気楽に会話を交わした」と伝えられています。当時の電話はまだ自動で繋がらず電話交換手と呼ばれる人が繋いでいたのです。「その通話は録音されたり、全国の放送局で生中継されたりした。ビートルズは、何千ドルもの宣伝を無料で提供することを平気で無知にも行ってしまった。それを知ったブライアンは、彼らのスイートルームに押しかけ、電話を切るよう命じた」
ビートルズが滞在しているホテルに何十人ものDJが電話をかけ、ビートルズが彼らのインタヴューに一々答えていたのです。本来ならギャラが発生するはずなのに、無料で答えてそれが放送されてしまったんですね。それに気づいた ブライアンが慌ててやめさせました。
4 半公認?「5人目のビートル」
(1)ビートルズも半ば公認していた
ビートルズが本当にマレーを「5人目のビートル」として受け入れたかどうかはそれほど問題ではありません。それより重要なのは、マレーが彼らの音楽をアメリカで早くから宣伝するのに大いに貢献したことであり、ビートルズがマレーを快く受け入れたことは、センセーショナルな宣伝の一環ともいえたことです。
フレモーは、「1964年の彼らの最初のアメリカ訪問を大々的に宣伝し、ラジオで彼らの音楽を流していたので、おそらくそうしたのだろう」と付け加えました。つまり、ビートルズは、マレーが自らを5人目のビートルと名乗ることなどはどうでもよく、彼がアメリカで影響力を持ったDJでビートルズのことをまだ知らないアメリカ人に、どんどん彼らを売り込んでくれる広報担当者と認識していたのです。
(2)ツアーに同行した
ツアーを開始したビートルズは、ニューヨークからワシントンDC、そしてフロリダ州マイアミへ移動しました。マレーも同行し、同室だったジョージのスイートルームから番組を放送しました。ジョージはこのことについて、「マレーがどうやって部屋に押し入ってきて、旅行中ずっと一緒にいられるのか不思議に思っていたよ。本当に面白いね。どうしてそんなことをするのか、まったく理解できなかったよ」とコメントしています。
世の中にはこういうタイプの人っていますよね。初対面の人でもお構いなしに距離を詰めてきて、いつのまにかちゃっかり友達になっているみたいな。
5 純粋にビートルズを愛していた
(1)音楽が自ら語っていた
ビートルズの宣伝方法としては、この一見大胆でセンセーショナルなスタイルにも関わらず、マレーは音楽の芸術性を信じており、「レコードを大々的に宣伝する必要はもうない。音楽が自ら語っていた」と語っています。彼がこの発言をしたのは、後にWINSを離れ、初のFMロック局の番組ディレクターになったときで、そこで彼は自分の番組「FM Cuts」のDJを務めていました。
この番組では、シングル曲を流さずアルバムの長編セグメントを流すことで有名でした。この功績だけでも、マレーが音楽を愛し、音楽に生き、ビートルズを広報する中心人物として関わる際には善意を持っていたことは明らかでした。
(2)純粋にビートルズを愛していた
彼は1982年に亡くなるまで、さまざまな都市のさまざまな放送局を渡り歩きました。1997年に彼は、ラジオの殿堂入りを果たしました。今日でも、彼はロック初期の重要な人物として記憶されています。マレーは、ビートルズの音楽の質の高さに感銘し、自ら広報担当者を名乗り出て彼らのアメリカ制覇を支援してくれたのです。彼の功績は高く評価されるべきでしょう。
(参照文献)リッチワトソン・サブスタック、チートシート、マレーザKドットコム、ファーアウト
(続く)
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