1 メンバー唯一の実の姉妹
(1)生まれたてのジョージを抱いた
ルイーズ・ハリスン・コールドウェルは、ビートルズのメンバーの家族の中では唯一の実の姉妹(ジョンには異母姉妹のジュリア、ジャクリーンの二人がいました)でしたが、ジョージとビートルズにとってアメリカへの扉を早くから開いた存在であり、ビートルマニア時代には彼らを育む存在でした。
12歳年上のルイーズは、1943年2月25日に初めて赤ちゃんのジョージを腕に抱き、後にその体験を語りました。「私は5分ほど彼を抱っこした。たいていの新生児はしわしわの古い(サッカー)ボールのように見えるけど、彼は予定日を過ぎていたため、まつ毛が生えそろい、髪は長く、爪は完全に生えそろった状態で生まれた。彼は茶色の大きな目をした美しい子で体重は10.5ポンド(約4.8㎏)ですでに生後3か月の赤ちゃんの多くと同じような様子だった」
(2)ジョージにアメリカのレコードを送ってくれた
彼女はリヴァプールの実家を離れ、ニューカッスル・アポン・タインで児童心理学を学び教員資格を取得しました。その後すぐに、スコットランドの鉱山工学の重役であるゴードン・コールドウェルと出会い結婚し、1956年にオンタリオに移住しました。二人の子供を含む彼らの家族は、夫の海外転勤でアメリカのミズーリ州ペルーに移住し、1963年にイリノイ州ベントンに転居しました。
ジョージがまだ12歳の時、ルイーズはイギリスを離れて北米に移住しましたが、リヴァプールの家族と連絡を取り続け、特にジョージのバンドの動向に熱心に耳を傾けていました。彼女は、ジョージが渇望していた入手困難なアメリカのレコードを紹介してくれる最良の仲介者でした。
姉は、すぐに弟が故郷でヒットチャートのトップに立つ記録をいくつも達成したことを知りました。彼女は、長距離電話でビートルズが王室からの依頼で演奏し、女王に会ったことをジョージから聞きました。
2 ジョージはアメリカに憧れていた
(1)アメリカのレコードを聴いていた
ジョージは、ビートルズとイギリスで成功への道を歩み始めた頃、リヴァプール出身のマリー・ギロンという女性と付き合っていました。マリーは、ジョージがいつもアメリカのことを考えていたと語っています。「ジョージはよく『機会があれば、アメリカの姉とその子供に絶対会いに行くよ』と言っていた」とマリーは続けました。「彼はアメリカの話をしながら、チェット・エイキンスのレコードをかけてくれたの」
「She Loves You」がイギリスのヒットチャートを駆け上がり、ビートルマニア現象が起き始めた頃、ジョージは、1963年9月に飛行機に飛び乗ってアメリカを訪れました。ルイーズと家族と一緒にベントンに滞在していたジョージでしたが、それは、彼がエド・サリヴァン・ショーを通じてアメリカ全土に永遠にその名を轟かせるわずか5か月前のことでした。
(2)アメリカを初めて体験したジョージ
ルイーズは12歳の弟を残してイギリスを去りましたが、今や彼は20歳になり、背も高く髪も豊かになっていました。彼女は喜んで失われた8年間という時間を取り戻し、その一方で、ジョージはできる限りアメリカの音楽と文化を吸収しました。「経験豊かなビートルズだった私は、ニューヨーク、そしてセントルイスに行って周囲を見回した」とジョージは後に回想しています。
「当時、姉が住んでいたイリノイ州の田舎へ行ったんだ。レコード店へ行った。ブッカー・T・アンド・ザ・MGのファーストアルバム『Green Onions』を買ったし、ボビー・ブランドも買ったし、色々とね」。ジョージがジェイムス・レイのレコード「I Got My Mind Set On You」を購入したのもこの頃でした。ジョージがこの曲で最後のナンバーワンヒットをレコーディングしたのは、それから24年後のことでした。
(3)ビートルズはアメリカでは無名だという現実
ジョージはイギリスに戻り、アメリカで見聞きしたことをビートルズの他のメンバーとマネージャーのブライアン・エプスタインに報告しました。あまり良い知らせではありませんでした。
彼は「あちらには何でもあるのに、僕らのことは知らない」と断言しました。彼の報告は正しかったのです。確かに、ビートルズはイギリスでビートルマニア現象を引き起こしていましたが、大西洋を越えてアメリカまで届いていませんでした。
しかし、ベントンを出発する時点でジョージは、ルイーズにアメリカ市場に参入するのは困難な戦いになるだろうとすでに告げていました。この頃のポピュラー音楽界はアメリカの一人勝ち状態で、他の国が参入する余地はありませんでした。
この言葉にルイーズはやる気を奮い立たせ、その後数か月間、できる限り弟を助けることに全力を尽くしました。実際、ブライアンが音楽エンターテイメント史上最大の宣伝戦略を展開したとき、彼女はベントンにいてバンドを助けるために最善を尽くしていました。
3 一人でビートルズのため宣伝活動を行った
(1)アメリカでビートルズを売り込んだ
ブライアンからほとんど指示を受けずに、ルイーズは、地域でつながりのあるあらゆるメディアにビートルズを宣伝することを自ら引き受けました。彼女はラジオ局やテレビ局に嘆願書を送り、プロモーターに手紙を書き、ビートルズに代わって電話をかけました。また、ブライアンに、アメリカの音楽市場でビートルズを紹介するために何をすべきかについて詳細な手紙を送りました。
しかし、ブライアンは、ルイーズの行動を快く思っていませんでした。素人が余計なことをすると、却ってビートルズのアメリカ進出の妨げになってしまうのではないかと恐れたのでしょう。ただ、そんな彼もジョージの両親がビートルズの家族の中でファンクラブの支援に最も熱心だったため、ハリソン一家に対しては丁重な姿勢でした。これは、ジョージが伝統的な両親のいる家庭で育った唯一のビートルだったためでもあります。温かい家庭で育ったという来歴は好感度に繋がります。
ただ、ブライアンの懸念にもかかわらずルイーズの努力は実を結び、最終的に「From Me To You」がイリノイ州の地元ラジオ局で放送されることになりました。これは、この時期にバンドが中西部の放送局で放送された最初の例です。
(2)アメリカに上陸
結局、ブライアンのグループは、ビートルマニアの見出しを掲げて1964年2月の最初の数週間にビートルズをアメリカに連れて乗り込んできました。2月9日のエド・サリヴァン・ショーでのパフォーマンスの数日前、ジョージは連鎖球菌性咽頭炎にかかり、ニューヨーク・プラザホテルの部屋に閉じこもっていました。そのため、ビートルズが3人のメンバーとセントラルパークでポーズを取っている報道写真が見られるのです。
ルイーズとブライアンの関係は相変わらず冷たいままでしたが、彼も少し歩み寄り、彼女が病床にいるギタリストの弟を見舞うためにニューヨークに行けるよう手配しました。彼は、これが絶好のビートルズをPRするストーリーになると考えたのです。
アメリカに住んでいる姉が、イギリスの故郷から遠く離れた病気の弟のそばに見舞いに来るのです。ルイーズは、もちろん一刻も早く駆けつけたかったでしょう。しかし、これだけ彼女がビートルズのPRに貢献しても、ブライアンは、その後、彼女を彼のNEMSマネジメント組織の公式代表者にはしませんでした。
4 アメリカのメディアの人物になった
(1)地方のラジオ局のパーソナリティに就任した
皮肉なことに10年後には、セントルイス地域のラジオ局KMOKに「ルイーズ・コールドウェル」という人物がコピーライターとして、また時にはオンエアパーソナリティとして加わりました。その数年前、KMOKはジョンのキリスト発言を理由にビートルズのレコードの禁止を奨励するラジオ局の一つでした。
ルイーズが故意にジョージとの血縁関係を隠していたかどうかはわかりませんが、同僚が彼女とビートルズとの関係を知るまでには何年もかかりました。その頃、ラジオ局は方針を変更し、ビートルズのレコードを流していなかったのです。
(2)終生に亘り仲が良かった
ビートルマニアが沈静化しバンドが解散しても、ルイーズはジョージと何マイルも離れていても親しくしていました。彼女は離婚し、カリフォルニアに移り、いくつかの仕事を掛け持ちしました。ジョージは、すでに二人の兄弟を雇っていたため、彼は、遠く離れた場所からルイーズの面倒を見ることにしました。
ジョージは、1980年からルイーズのために月2,000ドルの支援計画を立て、2001年に彼が亡くなるまでそれを続けたと伝えられています。ルイーズは、2014年に自伝「My Kid Bother's Band aka The Beatles」を出版し、物語はリヴァプールからアメリカへ、そして二度の離婚を経て子供を育てた彼女の私生活へと遡りました。
2001年にジョージが亡くなった後、ルイーズが音楽に携わった最後のプロジェクトは、ビートルズのトリビュートバンドであるリヴァプール・レジェンドのマネジメントでした。彼女は、最終的に舞台で兄弟の役を演じたマーティ・スコットと15年以上の関係を始めました。
彼女は、「彼は、ジョージが私の人生に残した空間を、さまざまな方法で埋めてくれた」と語りました。ジョージが亡くなってからも、ルイーズは弟のサポートを続けていたのです。
(参照文献)カルチャー・ソナー
(続く)
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