
1 ウッドストック・フェスティヴァルとは?
(1)伝説となった野外音楽フェスティヴァル
若い皆さんにウッドストック・フェスティヴァルと言ってもピンと来ないでしょう。これは、1969年8月15日から18日にかけて、アメリカのニューヨーク州ベセルで開催された大規模な野外音楽フェスティヴァルです。ロックを中心とした音楽イヴェントで、約40万人が参加しました。「愛と平和」をテーマに掲げ、当時の若者文化を象徴する出来事として知られており、伝説的な野外音楽フェスティヴァルとして現在も語り継がれています。
ただ、これは結果としてそうなったのであって、開催される前からわかっていたわけではありません。チケットを持たずに参加した若者が数多くいたため、これほどまでに参加者が膨れ上がるとは誰も予想していなかったのです。参加した人々は後々までそれがどれほど素晴らしいイヴェントであったかを熱く語りました。そのため、出演を見送ったアーティストも出演すればよかったと後悔する人が多かったのです。
(2) 出演したアーティストとしなかったアーティスト
出演者の中には、ジョーン・バエズ、サンタナ、ジャニス・ジョプリン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ザ・フー、ジョー・コッカー&グリース・バンド、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、ジミ・ヘンドリックスなどのビッグネームが名を連ねていました。その反面、ビートルズ、ジョニー・ミッチェル、エリック・クラプトン、サイモン&ガーファンクル、ドアーズ、レッド・ツェッペリン、ジェスロ・タル、バーズ、ボブ・ディラン、フリー、ジェフ・ベック等はそれぞれの事情があり出演しませんでした。
2 出演のオファーはあった
(1)主催者は招待状を送った
フェスティヴァルの主催者であるマイケル・ラング、アーティ・コーンフェルド、ジョエル・ローゼンマン、そしてジョン・P・ロバーツがウッドストックの企画を始めた時、彼らは、ビートルズを出演させることは不可能に近いとわかっていました。1966年以来彼らはコンサートをやっていませんし、もうこの頃には解散するのではないかという噂が立っていました。
そんな彼らを出演させることなどとてもできないと考えるのが普通でしょう。しかし、主催者は、ビートルズにフェスティヴァルへの出演依頼の招待状を送りました。彼らは、もしかしたら奇跡が起こるかもしれないと純粋に考えていたのです。
(2)ジョージはボブ・ディランの自宅を訪れていた

1月にビートルズは、原点に返るという意味の「Get Back」セッションを行っており「ルーフトップ・コンサート」もその時に行いました。このセッションで演奏された楽曲はよりシンプルに、ライヴでも演奏できるように意図的に構成されていました。つまり、ライヴに必要な新しい楽曲はあったのです。
ジョージは、ウッドストックで多くの時間を過ごしていました。彼は会場の近くにあるボブ・ディランの自宅に招かれ、彼とよく一緒に時間を過ごしていたのです。そのため、ジョージは、ニューヨーク州北部のシーンに大きな影響を受けていました。とはいえ、それでビートルズを出演させられると考えるのは楽観的に過ぎますが、主催者たちは、ステージに呼び込めるかもしれないと一縷の望みを抱いていました。
3 ビートルズは出演を断った
(1)プラスティック・オノ・バンドに出演をオファーした

プロモーターたちは賭けに出たものの、現実的にはうまくいかないことはわかっていました。当時、バンドはアビイ・ロードでの活動も忙しく、解散の危機が迫っていることは周知の事実でした。もはや彼らの関係は修復不可能な状況となっており、ビートルズにそれを脇に置いて数年ぶりの公の場でのライヴパフォーマンスに踏み出させるのはあり得ない話でした。
しかし、フェスティヴァルチームは、少なくとも一人のメンバーを確保したいという希望を抱き、方向転換してソロ活動を始めていたジョンにプラスティック・オノ・バンドを連れて出演しないかと打診しました。しかし、これもまた実現しませんでした。当初予定していたウォールキルでの開催が、町当局から開催の僅か1か月前に拒否を通告され、急遽ウッドストックでの開催に変更されたことで、会場までの動線が混乱に陥ったことが一因ではあります。
(2)政治的な要因
しかし、ジョンが出演ができなくなった主な要因は政治的な問題でした。ニクソン大統領とアメリカ政府は、ベトナム戦争に反対するジョンの政治姿勢、薬物使用問題、そして政治活動への関与を理由にジョンのアメリカ滞在を望まなかったのです。彼らにとって大した意味のなく、海のものとも山のものともわからないフェスティヴァルで世間を騒がせないようジョンは断念しました。
もっとも、彼は、僅か1か月後の9月13日にカナダ・トロントのバーシティ・スタジアムで開催されたトロント・ロックンロール・リヴァイヴァルには出演しました。ライヴをやりたいという思いはあったのです。彼は、このライヴが成功したことでビートルズを脱退することに自信を深めました。
4 出演しなかった理由
(1)解散の危機に瀕していた

1969年になるとビートルズの解散はより一層現実味を帯びていました。この頃は後に傑作と称されるアルバム「Abbey Road」がほぼ完成しかかっていた時期です。この時は珍しくメンバーが協力して一つのアルバムを完成させようとしていました。「Get Back/Let It Be」セッションが散々な結果に終わったことにメンバーが満足しておらず、このままでは終わりたくないということでお互いにエゴを抑えて協調したことが、成功の一つの要因だったと言えるでしょう。
ただ、それはいいアルバムを作りたいという彼らのアーティスト精神がそうさせたのであり、いわば仕事として協力したということであって、必ずしもメンバーの仲が改善したということではありません。ですから、とても海外の音楽フェスティヴァルに出演しようというモチベーションにはならなかったでしょう。
(2)「Abbey Road」をレコーディング中だった
「Abbey Road」のレコーディングは、1969年2月22日の「I Want You」からスタートし、8月25日に完了しました。ですから、ウッドストックの開催期間はこの時期と被っていました。ただ、アルバムの制作ももう仕上げの段階に達していて、ほぼアルバムは完成に近づいていました。実際、15日と18日にレコーディングが行われましたが、ウッドストックに出演するためにスケジュールを数日後にずらすことも可能ではあったわけです。
とはいえ、彼らは、おそらくこのアルバムが相当完成度の高いものになると確信を抱いていたと思われます。せっかくいい作品が出来上がりそうなのに、それを中断してまで海外の音楽フェスティヴァルに出演するということにはならなかったでしょう。
(3)長い間コンサートをやっていなかった
ビートルズは、1966年のキャンドルスティックパークを最後にコンサートを止めていました。レコーディングなら失敗しても何度でもやり直しが効きます。しかし、コンサートでは失敗できません。 いかにビートルズとはいえ、3年のブランクは大きかったでしょう。
それにもし彼らが出演するとなれば、群衆が押し寄せてパニックになる危険がありました。当時の貧弱な警備体制では、不測の事態が起こることも十分あり得ました。 この後のことですが、1969年12月6日にローリング・ストーンズが開催したオルタモント・フリーコンサートでは、 コンサートの最中に観客が喧嘩を始めて死者が出るという事件が起こったのです。
確かに、ビートルズは、1969年1月にルーフトップ・コンサートを行っています。しかし、これは事前に何の通告もないゲリラコンサートであり、ビルの屋上だったので彼らからは観客の姿は見えなかったのです。つまり、無観客に近い状態でのコンサートでしたから、彼らのプレッシャーはかなり少なかったでしょう。しかし、何万人もの観客がいるとなると状況は全く異なります。とてもコンサートをやれる自信はなかったでしょう。
5 リンゴの回想
カナダのテレビ番組である「エンターテイメント・トゥナイト」に出演したリンゴは、ビートルズがウッドストックで演奏しなかったことを後悔していると明かしました。「あの場にいた人なら、きっと思い出があるはずだ」と、彼は1969年に40万人もの若者を集めて行われた、今では象徴的なイヴェントについて語りました。「僕らはそこにいなかったけど、ジミ・ヘンドリックスは最高だった!魔法のような音楽の瞬間がたくさんあった。そして、それらは今も僕らの心に残っているんだ」「後になって後悔したと思うよ」と彼は続けました。「いつものことだけどね」
「計画はあったんだ」とリンゴは打ち明けました。「ヘリコプターで飛んでそのまま着陸するつもりだったんだけど、結局実現しなかった」ビートルズがヘリコプターで会場に乗り込むという計画は本当にあったんですね。 もし実現していたとしたら、大変な騒ぎになっていたでしょうし、フェスティヴァルの意義もかなり変わっていたでしょう。ビートルズが出演しなかったことは、ある意味で60年代の若者文化がもう終わろうとしていたことを象徴していたのかもしれません。
(参照文献)ファー・アウト、コスミック・マガジン
(続く)
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