★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ジョン・レノンをコンサートに担ぎ出せ!(256)

「1969 toronto festival john lennon」の画像検索結果

1 前回のクイズの正解

(1)警備に当たったOPP

「canada ontario police 1966 beatles」の画像検索結果

さて、今回は、まず前回のクイズの正解を発表します。え?クイズって何だったって?

トロントビートルズの警護を担当したのはオンタリオ州警察(OPP)でしたが、彼らは、単にビートルズを警護したというだけではなく、ビートルズに対してある重要なヒントを与えたのですが、それは一体何だったでしょう?」というクイズです。

トロントにおけるビートルズのセキュリティを実際に指揮したのは、OPPの警察官でした。彼は、ロックンロールファンではなく、個人的にはビートルズは嫌いでした(^_^;)それでも、彼にはビートルズの警護を務めるという重要な任務がありました。

彼とその部下は、ビートルズを空港からキングエドワード・ホテルとメープルリーフ・ガーデンまでシャトルで移動する際の警護の任務に当たりしました。ペパーらは、元々ビートルズが嫌いだったにもかかわらず、彼らが8月18日にトロントを去る頃には、その魅力、ユーモア、そして礼儀正しさに魅了されていたのです。また、ビートルズもペパーらの丁寧な対応にとても感動しました。

現場の指揮官の名は、「ランドール・ペパー警部」でした。英語では「Sgt. Randall Pepper」、正に「サージェント・ペパー」です。なお、Sgt.には「軍曹」の他に「警部」という意味もあります。

 

(2)ペパー警部かコショウか?

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ポールは、ペパー警部が所属するオンタリオ州警察に敬意を表し、アルバム「サージェント・ペパー~」のカヴァー写真に掲載された彼のコスチュームの左腕にOPPワッペンを飾りました。彼だけがこのワッペンをコスチュームの左腕に飾っています。

音楽ジャーナリストのアラン・クロスがCTVに語ったところによると、トロントでのコンサートの後、飛行機に乗る前に別の警察官からプレゼントされたとのことです。この事実からも彼らの間に信頼関係が構築されていたことは間違いないでしょう。

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「1967年1月17日にポールは自動車事故で死亡し、その後のポールは替え玉だった。」といういわゆる「ポール・マッカートニー死亡説」が人々の間でささやかれていた1969年当時、このワッペンにOPD(Officially Pronounced Dead)と表示されている、つまり「ポールの死亡は公式なものである」と関係者が認めている証拠の一つに挙げられました。

いや、これOPDじゃなくてOPPだし(^_^;)確かに、ジャケット写真だと最後のPの字が左半分しか見えなくて、Dにも見えますけど完全に実在したOPPのワッペンです。

こんな経緯があるため、ペパーは、ポールが彼にちなんでアルバムのタイトルとなるキャラクターの名前に選んだ可能性があります。ただし、彼の肖像写真がアルバムに使われたわけではありません。ペパー軍曹は、第二次ボーア戦争中、イギリスの第一騎兵旅団を指揮したジェームス・メルヴィン・バービントン中将をモチーフにしたものです。

sgt。 コショウバビントン

一方で、2008年3月6日にポールは「アフリカから帰国する際に、機内食と一緒に出された塩とコショウが入った容器を見て、「salt」と「pepper」を組み合わせて「Sgt. Pepper.」という名前を思いついた。ビートルズのローディーでポールに随行したマル・エヴァンスもそれを証言している。」と回想しています。

はてさて、ポールが「サージェント・ペパー」を思いついたのは、ペパー警部からか、コショウからか?これは、以前からファンの間で議論されてきました。後者の可能性が高いのですが、彼が左腕にOPPのワッペンを着けていたのも事実なので、これも否定し切れません。

謎なのは、彼だけがこのワッペンを付けていたことです。コンセプトアルバムということで、全員が色違いのお揃いの衣装を身につけていたのですから、彼だけがワッペンを付けるのは、本来ならアルバムの趣旨に反することになります

「ペパー警部に敬意を表するとともに、彼からヒントをもらったことを示唆している。」のか、それとも「このアルバムは、自分が主導して制作したということを密かにアピールしたかった。」のか?彼の真意は測りかねるので、直接本人に聞いてください(笑)

ところで、ペパー警部と聞いてピンクレディーの「ペッパー警部」を思い浮かべた方はそこそこの年齢ですね(^_^;)実際、作詞家の阿久悠自身もこのアルバムからもインスパイアされたことを認めています。

 

2 ジョン・レノンを担ぎ出せ!

(1)フェスが中止の危機に

フェスティヴァルのチケットが売れず、プロモーターのジョニー・ブラウアは、開催を中止しようと考えていました。もし、中止していたらジョンの出演もなかったことになります。彼は、できるだけ早く家に帰れば、少なくともいくつかのホテルの費用を節約できると考え、MCのファウリーとラジオDJのビンゲンハイマーにフェスティヴァルを中止すると申し出ました。

それに対して、ファウリーは反対しました。「いや、中止なんかしちゃダメだ。これは素晴らしいショーだよ。ドジャース・スタジアム(ロサンゼルスにあるメジャーリーグドジャースのホーム球場)だったら売り切れてるさ。この街の何が問題なんだ?君に出資してくれている人に何か問題でもあるのか?」

(2)ファウリーの提案

ブラウアはただ、「出資者は資金を持っているが、もう出資してくれないんだ。」とだけ言いました。すると、ファウリーはこう応えました。「明日、アップルにいるジョン・レノンに電話してみたらどうだ?ビートルズは、リトル・リチャードやチャック・ベリーの曲をレコードでカヴァーしていたじゃないか。」

「それに、ショーにはジーン・ヴィンセントも出演する。当時、彼は、ビートルズオープニングアクトを務めていたドイツのハンブルグにあるスタークラブのヘッドライナーだった。彼らは、かつてヴィンセントを崇拝していた。彼らは、彼みたいになりたくて黒いジャケットを着ていたんだ。」

ファウリーは、絶望してフェスティヴァルを中止しようと考えていたブラウアを必死に説得し、ジョンが大好きなアーティストたちが出演するからと彼を誘い出して、ショーのPRに使ったらどうだと提案しました。今思えばメチャクチャな提案ですが、これがまた成功したのですから、世の中やってみないと分かりません。

 

3 ジョンは本当に来てくれるのか?

「john lennon yoko 1969」の画像検索結果

ブラウアたちは、全員、ファウリーの歴史の講義をただ聞き入っていただけでしたが、「アップル・レコードに電話なんてできるんですか?」と尋ねました。そりゃ、彼には何のコネもないですからね。

すると、ファウリーは、真剣に「ああ、早朝に電話をかけて、すばらしい曲目に関する情報を教えるのさ。受付の社員にレジェンドたちの名前を伝えるんだ。ドアーズとかシカゴのことは話さないで、ジョンに司会者になってもらうように頼め。彼に15組もバンドが出演するなんて言ったらパニックになってしまうかもしれない。レジェンドの話題だけを出して、彼とヨーコを司会者に招待したいと頼むんだよ。」

要するに、ジョンが敬愛しているチャック・ベリーらのロックンロールのレジェンドが出演すると聞けば、彼も興味をそそられるに違いない。流石に3年もステージに立っていない彼にいきなり演奏させるのはムリだが、司会者をやってくれと頼めば、喜んで引き受けてくれるに違いない。

そして、ジョン・レノンが演奏はしないまでも、ステージに上がって司会をすると聞いただけで、多くの観客が押し寄せるだろう。何しろ、人々は、彼の生の姿を3年も見ていないのだから。

なるほど、良いアイデアです。ロックファンたちは、コンサートを一切止めてしまったビートルズの姿に飢えていましたから。ただ、問題は、そう簡単に彼を担ぎ出せるかどうかです。しかも、残された時間は僅かしかありません💦

 

4 ジョンは出演を快諾してくれた!

「john lennon 1969」の画像検索結果

とにもかくにも、ブラウアは、ダメ元で電話してみることにしました。翌朝6時30分に彼は、アップルの受付に電話をかけ、「カナダのトロント出身のジョン・ブラウアです。非常に重要なことなので、私がこれから言う名前を書き留めて下さい。」

電話を受けた受付係が、アーティストの名前を書き留めたのを確認して、彼はこう言いました。「ジョン・レノンさんに伝えて欲しいんです。彼らが演奏するステージで司会をお願いしたいって。」

この時のことについて、ブラウアはこう語っています。「ジョン・レノンが受付に代わって電話に出た。彼は『じゃあ、そのバンドはみんな演奏するのかい?』と言い、私は『はい、今週の土曜日に大学で。」と答えた。彼は『我々がプレーできないんだったら、行きたくないな。』と言った。私は『ビートルズのことですか?』と問い返すと、彼は、「いや、僕とヨーコだけだ。我々は、一緒に小さなバンドを作るよ。』そんなことを言われたもんだから、私は、『もちろん、何とか演奏してもらえるようプログラムを調整しますよ。』と答えた。』」

何とブラウアは、ジョンと直接電話で交渉できただけでなく、彼は、意外なほどアッサリと演奏してくれることまで自ら提案してくれたです。「渡りに船」とは正にこのことでしょう。 

(参照文献)VICE, CultureSonar

(続く)

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