
1 ニューシングルが必要だった
1965年、ビートルズは「Help!」と「Yesterday(アメリカのみ)」をシングルとしてリリースしましたが、ジョンとポールはそろそろ次のシングルが必要だと感じ、レーベルからの強い要求もあって新曲の制作を始めることにしました。そこで誕生したのが「Day Tripper」であり、「We Can Work It Out」とのビートルズとしては初の両A面としてリリースされました。
当時はまだレコードはシングルが中心で、アルバムはそのボーナス版的な扱いだったのです。シングルでチャート1位を獲得することがプロミュージシャンの第一の目標でした。もっとも、ビートルズはすでに「Rubber Soul」でアルバムに独自の意味を持たせるようにシフトしていたのですが、そのスタイルが完成するのは「Sgt. Pepper」です。
この作品は、ジョンが最初のアイデアを思いつき、ポールと共同で完成させました。1965年10月、サリー州ウェイブリッジにあるジョンの自宅、ケンウッドで書かれたこの曲は、キーをEとした12小節のブルースをベースに、コーラス部分でF#に転調しています。
2 強いプレッシャーの中で制作した
(1)レーベルからの強い要求
ビートルズが1965年にリリースした「We Can Work It Out」と「Day Tripper」は、バンドの初期のロックンロールの記憶に残る作品であるかもしれませんが、それはまた、バンドがこれまでに書いた中で最もストレスの多い曲の一つを象徴するレコードでもありました。
「Day Tripper」は今や間違いなくファブ・フォーの最も象徴的で気分を高揚させる曲の一つですが、「Nowhere Man」「I’m Looking Through You」といった他の曲ほど容易に生まれたわけではありませんでした。ジョンが後に「アンソロジー」で語ったように、バンドはこの曲を「強いプレッシャーの中で」作曲しました。
(2)アーティストにかかるプレッシャー
1960年代半ば、ビートルズは結束力と芸術性を兼ね備えたバンドでした。しかし、彼らは同時に音楽ビジネスに携わっており、しかもそれは非常に収益性の高いビジネスでもありました。
そして、そのビジネスの経営陣は、アーティストたちに納期を守り、必要に応じて販売見積もりを提出することを期待していました。1965年のクリスマスシーズンを前にしたビートルズもまさにそうでした。クリスマス・シーズンはリスナーが自宅で余暇を過ごす期間が長く、それだけレコードの売り上げを伸ばす絶好の時期でした。ビートルズは、その時期までに新曲をリリースしろとレーベルからせかされていたのです。
3 契約上の義務だった
(1)レーベルとの契約
バンドが「We Can Work It Out」と「Day Tripper」を収録したスプリット・アルバムをリリースしてから1年後、ジョンとポールは「Day Tripper」が「無理やり」作曲させられたことを認めました。*1ジョンは、12月までにニューシングルをリリースするというバンドの契約上の義務を果たすため、ボビー・パーカーの「Watch Your Step」から借用した、あのブルース特有のフレーズを考案しました。
(2)下積み時代の経験を活かした
www.youtube.com彼らは、下積み時代に幅広く客に受け入れられるように、あらゆるジャンルの曲をレパートリーに取り入れていたおかげで、作曲する際にもそれらを参考にできました。「本当に大変だったよ」とジョンはアンソロジーで語っています。「そして、まさにそのように聴こえる。『Day Tripper』は、約1か月前に書いた古いフォークソングをベースに、かなりのプレッシャーの中で書いたんだ。シリアスなメッセージソングではなく、ドラッグソングだった。ある意味、デイ・トリッパーだったと言えるかもしれない。ただ、その言葉が好きだったんだ」ジョンほどの天才でも作曲でプレッシャーを感じていたんですね。
「あれは僕の曲だ。リックもギターのブレイクも全部含めてね。ただのロックンロールソングさ。デイ・トリッパーって日帰り旅行に行く人のことだろ? たいていはフェリーとかで行くけど。でも、これはちょっと…ほら、週末ヒッピーみたいな感じだった。わかるかな?」*2
4 「週末ヒッピー」を揶揄した
(1)ジョンがメインで作曲

「あれは共作だった。二人で一緒に作り上げた曲だけど、主な功績はジョンにあると思う。リードヴォーカルを担当したジョンからのアイデアだったのかもしれないけど、かなりギリギリだった。二人ともかなり力を入れた」*3
この曲は、1960年代半ばに勃興しつつあったドラッグを基盤としたカウンターカルチャーを意識して制作されました。「Day Tripper」とは、ヒッピーのライフスタイルを完全には受け入れられなかった人々を指す俗語でした。つまり、根っからのヒッピーにはなりきれなくて、一日だけなってみることを選んだ人という意味ですね。
(2)ヒッピーになり切れない人
www.youtube.com60年代、しがらみから解放されて自由に生きるヒッピーに多くの若者が憧れました。しかし、それは世間から「落伍者」というレッテルを貼られるリスクのある生き方でした。1969年に公開された映画「イージー・ライダー」は、バイクでアメリカを放浪する若者と彼らを拒否する大人たちの葛藤を描いた傑作です。ヒッピーが世間に受け入れられていなかったことがよくわかります。ですから、あこがれはあっても、そうなり切れなかった人がたくさんいたのです。
5 歌詞に込められた二重の意味
(1)ドラッグが裏のテーマ

ジョンとジョージは1965年初頭にLSDにすでに触れていましたが、その使用は1967年までピークを迎えませんでした。ポールは、後にこの曲がドラッグについての曲であることを認めましたが、当時のビートルズのクリーンなイメージのため、この曲がドラッグに言及したものであることを知っている人はあまりいませんでした。
「『Day Tripper』はトリップに関する曲だ。当時、LSDがシーンに登場し始めていて、僕らはよく「自分が特別な存在だと思っている女の子」についての曲をよく書いていた…でも、これはただ皮肉を込めた曲で、日帰り旅行をする人、日曜画家、日曜ドライバー、そういう考えに部分的にしか傾倒していない人について歌っていた。僕らは自分たちを一日中トリップする人、そして完全にハマっている人だと考えていたが、彼女はただの日帰り旅行をする人だったんだ」*4
ジョンもポールもこの曲はお高く留まっている気取った女性をちゃかした作品だとしています。しかし、実はこっそりドラッグについて触れていたんです。彼らは、こういうイタズラを好んでやっていました。
LSDは後にリンゴも体験しましたが、ポールは強力な作用のあるLSDに対する警戒心が強くなかなか摂取しようとしませんでした。彼は、1965年12月13日になってようやく摂取しましたが、それはバンド内ではなく他の人々の共同体験でした。当時のバンドはLSDを共有してこそ本当の仲間だという意識が強く、バンド内で摂取しなかったポールが孤立する一つの要因になりました。それで、この曲はジョンがLSDに消極的な態度のポールに対して皮肉を込めた曲だと解釈する人もいます。
(2)焦らす女
歌詞には他にも意味が込められるところでした。歌詞の中の「big」は元々は「prick」でしたが、彼らは真剣にその言葉を使おうとは考えてはいませんでした。これはスラングで男性器の意味を持ちます。となると「焦らす女」と組み合わせたらかなり卑猥な意味になってしまいますから、さすがに使うわけにはいかなかったでしょう。
「僕らが『あれを入れたら面白いだろうな』と思ったのを覚えているよ。コラボレーションのいいところは、ちょっとだけそっとしたり、ウィンクしたりできるところさ。でも、一人で座っていると、そういうのは入れないかもしれない。*5
もし、どちらかだけが一人で作曲していたらこうしていたかもしれません。しかし、共作のいいところはそういった行き過ぎをセーブできるところにもありました。
6 アイドルとしてのイメージを守った
招待されたパーティーを主催していた歯科医(後に「ドクター・ロバート」のインスピレーションの元となる人物)からLSDを知らぬ間に飲料に混ぜられ、ジョンとジョージは既に強烈なトリップを体験していました。
当時、カウンターカルチャー運動はまだ主流にはなっていませんでした。しかも、ビートルズは、スーツとマッシュルームカットでティーンエイジャー向けのラヴソングを歌っていた、あの清潔感のある初期の頃の影に隠れていました。そのため、バンドはドラッグ使用への言及を「週末ヒッピー」という俗語や、男性を焦らす女性を揶揄する言葉で控えめな表現にしたのです。彼らがアイドルの仮面を自ら脱ぎ捨てるのは1967年以降になります。
(参照文献)アメリカン・ソングライター、ビートルズ・バイブル
(続く)
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*1:ザ・コンプリート・ビートルズ・レコーディング・セッションズ」
*2:ジョン・レノン 1980年「All We Are Saying」デヴィッド・シェフ
*3:ポール・マッカートニー「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」バリー・マイルズ
*4:ポール・マッカートニー「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」バリー・マイルズ
*5:ポール・マッカートニー「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」バリー・マイルズ