1 The Fool on the Hill
(1)モデルはヨーギー
これはポールの作品です。タイトルを翻訳すると「丘の上の愚か者」という意味になります。ただし、そこでテーマとされているのは本当の愚か者ではなく、いわゆる「孤高の天才」と呼ばれるような人についてです。つまり、天才であるが故に、発想があまりにも一般人の常識を越えてしまっていて誰からも理解されず、相手にされない人物を描いた作品です。
この作品のモデルになったのは、ビートルズがインドを訪問した際に超越瞑想を彼らに伝授したマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーであるとポールは語っています。映画「マジカル・ミステリー・ツアー」の中にこの曲が登場し、ポールが丘の上に立っているシーンが登場するため、誤解されるかもしれません。
(2)ポールと重なってみえる
この作品を制作するにあたって、ポールの頭の中にあったイメージはあくまでヨーギーであり、ポール自身を歌ったものではないんです。彼がビートルズの中で孤立し始めたのは映画が大失敗してからであり、撮影中はまだそこまではいっていませんでしたから。それにいくら何でも自分を「天才」だとは歌わないでしょう。
とはいえ、私には、この曲の主人公と映画が公開されて以降のポールが重なってみえるのです。ビートルズを立て直そうと孤軍奮闘するポールと彼を冷ややかに見つめる他のメンバー。丘の上に一人でポツンと立っている彼の姿が、その後に彼が置かれた立場を象徴しているようにみえてなりません。
(3)良かれと思って取った行動が仇に
名マネージャーであったブライアン・エプスタインを失い、失意のどん底に叩き落とされたビートルズにあって、ポールが何とかビートルズを存続させようと懸命に奔走したのです。しかし、そんな彼の行動がかえってメンバー間の亀裂を深めることになってしまいました。他の3人の目には、ポールがでしゃばりすぎていると映ったのです。何とも皮肉な話ですね💦
ポールは、あくまでビートルズの解散を避けるために行動したのであり、ジョンに取って代わって自分がビートルズのリーダーになろうなどという野心はありませんでした。確かに、メジャーデビュー前は、ジョンとポールが互いに自分がリーダーだと争ったこともありました。しかし、ポールは、自分が先頭に立ってメンバーを引っ張っていくタイプではないと自覚し、ジョンの方がリーダーに相応しいと考え、彼をリーダーとして付いていったのです。
2 空気を読めない人
(1)あれもポールならこれもポール
リンゴが天然だというのはファンの間では有名な話ですが、ポールは「空気を読めない人」でした。彼自身に悪気は全くないのですが、能天気で人の神経を逆なでするようなことを平気でやっちゃうんですね(^_^;)
彼は、メンバーの中でも学生時代は成績優秀で、ビートルズを結成してからも、やんちゃな言動で何かとお騒がせなジョンとは対照的に、優等生的に振舞っていました。しかし、そんな「優等生のポール」と「空気を読めないポール」は、同一人物なんです。
(2)パーティの雰囲気をブチ壊した
1968年7月26日、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズのアシスタントであるトニー・サンチェスが経営するナイトクラブのオープニング・パーティでのできごとでした。ストーンズとミック・ジャガーがそのイヴェントを仕切っていて、ミックは、ニューシングルとしてリリースする予定の「Street Fighting Man」をみんなに聴かせていました。彼にしてみれば「どうだい、いい曲だろ?」といった気分だったでしょう。
そこに招待されたポールがこれまたニューシングルとしてリリースする予定の「Hey Jude」のアセテート盤を持ってきました。彼は、それをサンチェスに渡し、サンチェスは、会場でそれを流したのです。それがとんでもない名曲であることは、その場にいた全員が分かりました。それで、ミックの機嫌が一気に悪くなってしまったのです💦*1
ポールとともに招待されていたジョンも、ポールのこの行動には流石に顔をしかめたと伝えられています。彼にしてみれば「お前な、空気読めよ!」ってなところでしょうね(^_^;)
繰り返しますが、ポールに悪気はないんですよ。あったらとんでもない意地悪な人間ということになりますが、いい曲ができたから、みんなの前で披露しようと無邪気に考えただけです。
当時、ビートルズとストーンズは人気を二分して張り合っていました。バンド同士は仲が良かったんですが、ファン同士はバチバチでした。ですから、同じミュージシャン仲間とはいえライヴァル同士です。
そんな間柄なのに、いい曲ができたからって何もストーンズに招待されたパーティーで新曲を披露することはないじゃないですか。それもミックが新曲を披露した後なんて、当てつけもいいところで、彼のメンツは丸ツブれですよ。でも、ポールの態度は、「いい曲を披露して何が悪いの?」とあっけらかんとしたものでした。
3 心優しい人
そんなポールですが、元々この曲は、1968年6月に彼がジョンの息子のジュリアンのことを思って作った曲なんです。ジョンは、ヨーコと一緒に暮らし始め、シンシアとは離婚しようとしていました。ポールは、シンシアとジュリアンをとても不憫に思い、彼らの自宅を訪問して元気づけようとしたのです。
その時のことについて、彼は、こう語っています。「私は、友人の家族であるシンシアとジュリアンが暮らしていたウェイブリッジまで出かけた。彼らの様子が気になって会いに行こう、そして元気づけようと考えたんだ。車で1時間ほどの距離だった。車を運転する時はいつも、私は、曲が浮かんできたときに備えてラジオを消していた。」
「私は、『Hey Jules – don't make it bad, take a sad song, and make it better...』と歌い始めた。それは楽観的な内容の曲で、ジュリアンへの希望に満ちたメッセージだった。『君の両親は離婚した。君が幸せじゃないのは分っているけど、大丈夫だよ。』という感じでね。私は最終的に『Jules』を『Jude』に変えた。ミュージカル映画『オクラホマ!』にジャッドという人物が登場するんだけど、その名前が気に入ったんだ。」*2
このウェイブリッジへのドライブについて、ポールは、自著の中でもう少し詳しく説明しています。「私は、ケンウッドというジョンの家へ行く途中でよく曲を思いついたんだ。大人は、問題ないかもしれないけど、子どもは...彼らの小さな脳が混乱し、『僕が何か悪いことをしたの?』と不安に駆られる。罪悪感というのはとても恐ろしいもので、多くの人々に影響を与えている。」
「『Hey Jude』という曲のアイデアが浮かんできて少しずつ作り上げていき、現地に着くまでにはほぼアイデアがまとまっていた。」*3
名曲「Hey Jude」が誕生した瞬間でした。ポールは、父親を失ったジュリアンを何とか励まそうと、彼を思いながら歌を口ずさんだんですね。ポールにシンシアとジュリアンを思う優しい気持ちがなければ、あの名曲は誕生しなかったのです。
ポールは、シンシアに真っ赤なバラの花を1本差し出しながら「僕と結婚しないか?」とジョークを飛ばして、傷心していた彼女をユーモアで救ったのです。彼女は、大笑いしてポールの優しさに感激し、二度と忘れないと感謝したのです。この心優しいポールも空気を読めないポールも同一人物なんですよね。
4 ポールの行動は必要だった
(1)大人しくしているべきだったのか?
アルバム「Sgt. Pepper~」のリリース後、ビートルズの下積み時代からずっと彼らを支え続け、必死に売り込みをかけて彼らを大成功に導いてくれた、恩人とも家族ともいうべき存在の名マネージャー、ブライアン・エプスタインが突然亡くなりました。ビートルズのメンバーたちは、ショックで食事も喉を通らなかったはずです。
ところが、ポールは、まだ彼が亡くなって間もないというのに、もう新しいプロジェクトを始めようとしていました。この時の彼の行動については、ファンの中でも批判する人がいます。
(2)後期のビートルズは存在しなかった
確かに、私もしばらくはブライアンの死を悼んで、しばらく時間をおいてからバンドの活動を再開してもよかったのではないかとも思えます。天才である彼らのことですから、ブライアンの死を乗り越えて活動を続け、素晴らしい作品を作り出したことでしょう。しかし、それはあくまで結果論であり、その当時のポールの焦燥にかられた心境も理解できないわけではありません。
何より重要なのは、彼がこの時に奮い立って行動を起こさなかったら、本当にビートルズは、活動を休止するか、最悪の場合は解散してしまい、我々が今、目や耳にしている後期のビートルズの作品は存在しなかったかもしれないということです!そう考えると、あながちポールの行動を批判ばかりもできないのではないかという気がします。
ポールに尻を叩かれ、不承不承ながらも重い腰を上げたメンバーたちでしたが、いざ楽器を手にしてみると、次第にミュージシャンとしての本能が目覚め、創作意欲がふつふつと湧いてきて音楽活動を再開することになりました。スタジオに戻った彼らは、「やっぱり、オレたちは音楽をやるしかない。」そう感じたのです。
(参照文献)ビートルズ・ミュージック・ヒストリー
(続く)
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