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★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その53)ビートルズを育てた名プロデューサー、ジョージ・マーティンの偉大な功績について(まとめ)

ビートルズ ポップス 洋楽

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ここで、再度ビートルズとマーティンの出会いから解散に至るまでを振り返り、マーティンの偉大な功績を総括します。

 

1 ビートルズとの出会い

マーティンもテープを聴いた時には全く興味を抱かなかったと語っています。雑音が酷いし、サウンドのバランスは悪いし、曲もそれ程良く無く、未熟なグループだと感じたのです。マーティンですらそう感じたのですから、他の関係者が興味を示さなかったのはむしろ当然だったといえます。

 
 
ただ、当時彼は、何か新しいものを求めていて、彼らがその何かを持っていると感じたのです。それでともかく自分の耳で直接聴いてみようと判断しました。ブライアンは、またデッカみたいに落とされるんじゃないかと内心穏やかでは無かったようです。しかし、彼の不安は杞憂でした。マーティンは、ビートルズが他のグループとは違う特別な存在だということに気付いてくれたのです。ただ、流石の彼もこの若者達をどうプロデュースしたらいいものか、この時点では白紙の状態でした。
 
 
この頃、マーティンは、コメディーものをプロデュースしており、ポピュラーは担当していませんでした。マーティンは、ヒットを続けていましたが、やはり、ポピュラーの世界で活躍したかったんですね。そこへ4人の若者達が現れ、彼のアンテナに引っかかりました。
 
 
歴史に「IF」はありませんが、もし、マーティンがポピュラーの世界で成功していたら、テープを聴いても何の印象も受けず、門前払いしたのではないでしょうか?「自分のやりたいことは他にあるはずだ。」と悶々とした日々に彼らが飛び込んで来たのです。マーティンは、どこへ行くかは分からないものの、ビートルズが今まで誰も聴いたことのないサウンドを出すだろうという可能性を見出したのです。
 
 
ビートルズは、一緒にヴォーカルをすることが多かったのですが、交互に入れ替わっていました。最初のセッションで、マーティンは、ジョン、ポール、ジョージそれぞれのヴォーカルに注目し、それに魅力を感じていました。しかし、そのうち誰にリードヴォーカルをさせるべきか迷いました。そして、午後の時間を全部使って彼らの声を聴き比べました。まずジョージを外しました。残るのはジョンかポールです。
 
 
ビートルズは、ロックのスタンダードな曲を演奏していました。ところが、ソロになると途端にヴォーカルが不安定になってしまうのです。マーティンは、そこでハタと気が付きました。我々が求めているのはソロではない、グループなのだと。そこで、マーティンは、まずピート・ベストを外しました。そして、ブライアンがリンゴ・スターを連れてきたのです。しかし、この時点では、マーティンは、まだリンゴを信用していませんでした。この時が初対面ですし、もう既にセッション・ドラマーのアンディ・ホワイトを呼んでいましたから。
 
 
マーティンがピートを外したのは、彼がグループに溶け込んでいないと感じたからです。彼は、イケメンでしたが、はにかみ屋でちょっとぶっきらぼうでした。しかし、何よりマーティンが気に入らなかったのは、彼のドラミングが硬く、グループをまとめきれていなかったところです。
 
 
Love Me Do」では、リンゴ、ピート、アンディーの3人がドラムを演奏しました。マーティンは、この3人を聴き比べて、リンゴのドラミングがピートよりずっと優れていることに気付きました。彼は、より連帯感があり、アンディのドラミングよりうるさかったのですが、よりグループにピッタリとハマっていることがわかりました。この頃のリンゴのドラミングは、少しばかりラフでしたが、それでも良かったのです。
 
 
ただ、マーティンは、この時点ではまだビートルズのコンポーザーとしての能力は認めていませんでした。彼らが制作したのは「Love Me Do」1曲だけでしたし、彼はそれほど良い曲だとは思っていませんでしたから。しかし、彼らのギターの実力は、彼も高く評価していました。何より彼らがそれまでに無いサウンドを出していたことを気に入ったのです。
 
 
そこで、マーティンは、「Love Me Do」の次の曲を彼らに与え、ブレイクさせてやろうとコンポーザーを探し回りました。しかし、EMIは、そんな彼を冷ややかな目で見ていました。何より「The Beatles」なんて名前がへんてこでしたし、大した連中じゃないと考えていたのです。マーティンも「コメディーをやってるヤツがポップスに首を突っ込んでる」と陰口を叩かれていました。でも、「Love Me Do」がチャート17位を獲得すると、EMIは目を見開きました。
 
 
2 ファーストシングル「Please Please Me」の成功、そしてアイドルへ

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しかし、まだ成功したとはいえません。それでマーティンは、ミッチ・マレーの作った曲をビートルズに演奏させようとしました。でも、彼らはそれを拒否し、「Please Please Me」を出してきたのです。流石にマーティンもこの曲が素晴らしいと気付きました。特に、ハーモニーが素晴らしかったのです。
 
 
ブライアンは、ビートルズにどんどん新曲を作れと発破をかけていました。そして、彼らは、このつむじ風のように巻き起こった成功を掴み、新曲を書き続けたいと思いました。そしてできあがったのが「From Me To You」です。「Please Please Me」を制作すると、マーティンは、彼らがデビューして間も無いにもかかわらず、大急ぎでファースト・アルバムを制作しようと決めました。それもたった1日で。午前10時からレコーディングを開始して、終わったのは午後11時でした。
 
 
ブライアンは、ビートルズが成功を掴むとマーティンに対し、もっとスタッフを揃えるよう要求し、彼らが材料をどんどん提供する代わりに、それをマーティンがレコードにしてどんどん売りましょうと提案しました。マーティンは、それ以来とても忙しくなり、1日中スタジオにいることが増えましたが、幸せな日々を過ごしました。
 
 
ビートルズは、自分で曲を作りましたが、レコードにするというよりは、コーラスやミドルエイト(Bメロ)、エンディングを中心に考えていました。マーティンは、曲の出だしとエンディングとソロを構成しました。最初にビートルズが歌った時のコーラスの時間を測ると1分20秒しかなかったのです。それで、マーティンは、これじゃ長さが足りない。ミドルエイトに戻るか、ギターかピアノのソロを入れなきゃだめだと指示しました。とても単純なことでしたが、こうやって次第に彼らの間で協調性が培われていったのです。
 
 
「Yesterday」までは、一切外部のミュージシャンをレコーディングに参加させませんでした。「Yesterday」を制作した時は、マーティンは、1日中掛かってポールと打ち合わせながら、どんな弦楽器の演奏ならピッタリ当てはまるか、譜面を書いたのです。
 
 
ブライアンは、音楽には一切タッチしませんでした。彼は、辣腕マネージャーとして全てのスケジュールを組み、ビートルズがいかに大物であるかを巧みにアピールして大成功を収めたのです。ただ、そんな彼が一度だけレコーディングの時に口を挟んだことがありました。マーティンがスタジオでビートルズと打ち合わせしている時に、ブライアンが「そこはこんな風にやってみたらどうだい?」とマイクで言ったんです。すると、ジョンが「ブライアン、あんたは金のことだけ考えていればいい。音楽のことはオレ達に任せておけよ。」この一言で彼は、かなりヘコんだのです。
 
 
「Rubber Soul」は、最後のライヴ・アルバムでした。次の「Revolver」からビートルズは、スタジオで故意にサウンドを歪めるなどの編集をやり始めたのです。彼らは、常に何かを探し求めていました。そして、マーティンは、それが何であるか考えられるものを全て提案したのです。
 
 
3 アイドルからアーティストへの変貌

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この頃、ジョンは、ラヴェルの「ボレロ」のようなクラシックをヒントに作曲しようとしていましたが、上手くいきませんでした。そこで、ドイツの電子音楽の作曲家シュトックハウゼンを参考にしてみたら、「Tomorrow Never Knows」という傑作が生まれたのです。しかし、マーティンは、もう既に電子音楽によるレコードを手掛けていました。
 
 
もっとも、シュトックハウゼンを発見したのはビートルズ自身です。そして、テープ・ループというテープを繰り返し再生してそれをオーヴァーダビングするというアイデアは、ポールの発想です。全員で作業して8本のトラックができあがり、それをジョンのヴォーカルとドラム、ベースに載せました。
 
 
そして「Sgt Pepper」の登場です。マーティンによると、このアルバムは、彼らの手を離れて自分自身で成長したようなところがあるとのことです。そして、ビートルズがドラッグの影響を受けていたことは否定していません。しかし、マーティン自身は、ドラッグをやりませんでした。もし、彼までがやっていたら、恐らくこのアルバムはああいう仕上がりにはならなかったでしょう。
 
 
マーティンは、「Strawberry Fields」と「Penny Lane」がジョンとポールの一つの分岐点だったと考えています。確かに、2人の特徴が良く現れた曲ですね。ジョンはメッセージ性の強い曲を、これに対し、ポールは誰もが親しめるポップな曲を指向する傾向が次第にハッキリしてきます。この音楽の方向性の違いがビートルズをさらに深めたともいえるし、解散の原因に繋がったともいえるかもしれません。
 
 
マーティンは、ドラッグ(特にLSD)が彼らの音楽に与えた影響は否定していません。それがなければ、花が開いたようなサイケデリックなイメージは生まれなかっただろうと。ただ、「Lucy In The Sky With Diamonds」については、明確にLSDとの関係性を否定しています。
 
 
4 ラストアルバムの作成

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マーティンは、アルバム「Let It Be」がビートルズとしての最後のアルバムになるのではないかと予想していました。これは、フィル・スペクターがプロデュースしたのですが、やたら口うるさく指示したので、ビートルズも嫌気がさして、レコーディングの途中でやる気を無くして中断してしまいました。それで、もう一度マーティンに新たなアルバムのプロデュースを依頼しました。ここで5人が本気モードになって完成したのが「Abbey Road」です。
 
 
「Let It Be」のどうしようもない「やっつけ仕事感」、これに対し、「Abbey Road」の「完成度の高さ」。とても同じグループが同じ時期に制作したとは思えません。
 
 
4 余談
マーティンは、20代の初めの頃、オーボエをマーガレット・エリオットという女性から教わりました。彼女は、何とポールの元恋人のジェーン・アッシャーの母親でした。こんな偶然ってあるんですね。
 
 
さて、ジョージ・マーティンの話はここまでとして、リンゴのドラミングの話が途中だったのでその続きを書きます。
 
(参照文献)theguardin, ABOUT THE BEATLES, beatlesdaily.com, LyricWikia, Historia.ro, The Beatles
(続く)