- 1 母親のように世話してくれた
- 2 被写体となる技術を教え込んだ
- 3 ビートルズの本質を見抜いていた
- 4 写真家としての道を歩む
- 5 能力の限界を感じた
- 6 映画「BACKBEAT」で再び脚光を浴びる
- 7 その後のアストリッド
1 母親のように世話してくれた
ビートルズの伝記作家マーク・ルイソンは、アストリッドのことを冗談めかしてこうツイートしました。「アーリー・ビートルズの写真を撮影していなければ、あなたがこれほど偶像化されることはなかった。」確かに、そうかもしれません。一連の写真は彼女を世界的な有名人にしましたが、その後、彼女が一流のプロカメラマンとして華々しく活躍したという経歴はありませんから。
しかし、彼は、続けてこうもツイートしています。「しかし、他の人がまだ見ていないものを見てくれる人が必要なのだ。あるいは、最初から自分の価値を信じてくれる人が必要なのかもしれない。」
これもまた真実であり、どれほど成功を収めた人であっても、必ずその才能を認めてサポートしてくれる人が必要でした。どんな偉大なアーティストであっても、最初からその才能が認められていた人はほんの一握りです。また才能があったとしても、それが広く世に知られるためには、様々な人のサポートが必要なのです。
彼女の優しさに溢れた自信、何ものにもとらわれないボヘミアンなライフスタイル、そしてドラマチックなエキシ・ルック(ショートヘアに黒のレザー)でオープンカーを運転する彼女は、若きビートルたちを惹きつけました。彼女が彼らに鮮烈なインスピレーションを与えたことが、どれほどその成長を促したか計り知れません。
1960年、ビートルたちは、自分で普段着や衣装を洗濯していました。彼らは、窮屈で汚い部屋で寝起きを共にしていました。もっとも、貧乏ながらもストリッパーや女の子たちから誘惑されて、そっちの方はそれなりに楽しんでいたようです(笑)
ジョージは、アストリッドが木の枝で装飾された美しく魅惑的な自宅で、愛情を込めて食事を与えてくれ、世話をしてくれたことは、20代の若者たちにとって天国のように感じられたと語っています。
アストリッドのセルフポートレートの鏡の上部には、ジョージが語っていた枝の一つが写っています。この写真は、彼女自身を最もよく象徴している作品であり、彼女がビートルズの写真を撮影したときに、ビートルズが見せていたのと同じような優しいながらも強靭な自己主張を表しています。
2 被写体となる技術を教え込んだ
アストリッドは、バンドに対する彼女の主な貢献として友情を挙げています。彼女は、愛情と技術を通して、プロミュージシャンとしての写真撮影に慣れていなかったビートルズのメンバーに、カメラの見方やポーズの取り方を教え、それによって彼らは、どうやったら最高の自分を見せられるかを学んだのです。
これは、非常に重要なことでした。もちろん、彼らはミュージシャンですから音楽で勝負するんですが、それはレコードをかけるか、彼らのコンサートを見に行くか、ラジオから流れてくる曲を聴くしかありません。
一般の人々がまず彼らの何を見るかといえば、レコードのジャケット写真です。あるいはポスターや広告かもしれません。その時に彼らがどう写っているかが極めて重要なのです。メジャーデビューする前にそういったテクニックを学んだことは、彼らにとって貴重な財産となりました。ハンブルクで演奏のテクニックはメキメキと上がっていましたが、写真を撮影される機会はあまりなかったので、そういった点は鍛えられていなかったのです。
3 ビートルズの本質を見抜いていた
アストリッドの回想によると、彼女は、ビートルズの人間的な資質を見ていました。それは、後年になって桁外れの才能として開花したのですが、メジャーデビュー前の時点でもうその芽を見出していたのです。例えば、彼女は、ポールがただ可愛いだけではないことに気づいていました。彼は、彼女の著書や芸術に興味を持っていたのです。それは、長年に亘たり、彼の創作意欲をかき立てました。
アストリッドは、バンドのもう一人のメンバーが持つ評価されていない芸術性と美しさも見ていました。彼女にとって最も魅力的なビートルは当時のベーシスト、スチュアート・サトクリフであり、彼女は、彼と結婚することに決め、彼は、バンドから脱退することになりました。
数年後、スチュアートが脳出血で急死したとき、アストリッドは、ジョンとジョージの写真を撮影し、彼らの悲しみと友情の深さを目の当たりにしました。薄暗い狭い部屋にモノトーンの写真。その象徴的な写真撮影にあたって二人がポーズをとるとき、彼女は、二人にどうやったら悲しみを表せるかを教えましたが、その写真を通して我々にも彼らの悲しみを伝えることになったのです。
4 写真家としての道を歩む
アストリッドは、多くのビートルズファンの間で愛され続けていますが、その理由は、彼女が婚約者の死という悲劇を迎えながらも、そこから立ち直り、優雅さと尊厳を持って生き抜いたからです。彼女の不屈の精神は、ギリシャ神話に登場する美しい女性、プシュケーを思い起こさせます。愛の神エロス(キューピッド)に突然見捨てられた愛らしい彼女は、一人で旅に出なければならなかったのです。
アストリッドは、スチュアートの死後、1960年代初頭にビートルズの写真を撮り続け、2度の再婚を経て、写真家としての道を歩み続けました。その間も、彼女は、スチュアートとの想い出を大切にしていました。バンドの歴史に彼女が名を刻んだことは、スチュアートの物語と、アーリー・ビートルズの時代を遺産として後世に残しておくために不可欠な要素となったのです。
1964年、アストリッドは、フリーランスの写真家になりました。同僚のマックス・シェラーと一緒に、ドイツの雑誌「シュテルン」の依頼でビートルズの初主演映画「A Hard Day's Night」の舞台裏の写真を撮影しました。また、ジョージがプロデュースし、ビートルズのメンバーによる初のソロアルバムとなった「Wonderwall Music(1968年)」のインナースリーブ写真も撮影しています。
5 能力の限界を感じた
しかし、アストリッドは、1960年代に写真家として認められることは難しく、1967年以降はほとんど写真を撮っていないと述懐しています。
「どの雑誌や新聞も私にもう一度ビートルズを撮って欲しいと言ってきたわ。私の昔の写真を欲しがっていたの。他の作品は見向きもされなかった。60年代の女性写真家が認められるのは、とても大変なことだった。結局、私は写真家の道を諦めたの。」
皮肉なことに、彼女が撮影したアーリー・ビートルズの写真は、彼女に名声を与えましたが、世間が欲しがっていたのは彼女が撮影したビートルズの写真であって、彼女自身でもなく、彼女の他の作品でもなかったのです。一度ついてしまった「アーリー・ビートルズの写真家」としてのイメージを払拭することはとても難しかったのです。1960年代当時ではヨーロッパ先進国といえども、まだまだ女性が社会で活躍できる時代ではなかったんですね。
6 映画「BACKBEAT」で再び脚光を浴びる
彼女は、ビートルズがハンブルクで過ごした時代とスチュアートとの関係を描いた1994年の映画「BACKBEAT」のアドバイザーを務めました。彼女は、この映画でスチュアートを演じたスティーヴン・ドーフに感銘を受けたと語っています。
「人生で初めてというくらいの衝撃を受けたわ...彼は、年齢的にもピッタリだったんだけど、顔を上げて彼の姿を見たとき、腕に鳥肌が立ったわ。喋り方、煙草の吸い方、仕草がスチュにそっくりだったのよ。とても感銘を受けたわ。」
恋人だった彼女がここまで言うくらいですから、よほどそっくりだったんでしょうね。出演する俳優は、本物のイメージを損なってはいけませんし、演技だけでなく演奏の技術も求められます。それだけハードルが高いわけですが、それを見事にクリアしたといっていいでしょう。
アーリー・ビートルズは好んで様々な作品のテーマにされますが、デビュー後のビートルズは、逆にほとんどテーマにされませんね。やはり、あまりにも大物すぎて誰も手が出せないのでしょう(^_^;) クイーンやエルトン・ジョンは映画化されましたけどね。
2016年に公開された「EIGHT DAYS A WEEK」にしても、2020年秋に公開が予定されている「LET IT BE」にしても、ほぼドキュメンタリー映画ですからね。誰かチャレンジしてくれる人がいても良さそうなもんですが。
7 その後のアストリッド
アストリッドは、写真シリーズを発表し、ハンブルク、リヴァプール、ブレーメン、ロンドン、ニューヨーク、ワシントンDC、東京、ウィーン、ロックンロールの殿堂で作品を展示しました。
彼女はまた、友人であるステファニー・ヘンペルが書いているように、音楽に忠実であり続けました。「彼女は、ロックンロールを愛し、ロックンローラーを愛し、クレイジーな人々を愛し、鮮やかで率直だった。彼女は、最後までヘビースモーカーであり、最も忠実で親切な友人であり、地球上で最も素敵な人になれるでしょう(もし、彼女があなたのことを好きになったならば....)。」
最後の言葉は「あなたが彼女のおメガネにかなえば、彼女の友人になれて、なんて素敵な人なんだと思えるだろう。」 という意味なのでしょう。
さて、かなり寄り道しましたが、次回からはビートルズの解散についてのお話に戻ります。
(参照文献)CultureSonar, THE BEATLES BIBLE
(続く)
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