1 船上のホテル
(1)ボートがホテルだと?
ビートルズは、港でマリマ号というボートに乗船しました。当然、そこからホテルに送ってくれるのだろうと思っていたら、何とそのボートがホテルだというのです!確かに、映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」に登場したようなビートルマニアたちからは遠く離れた場所でした。実物がどんなものであったかという情報はないのですが、おそらく渡し船程度のもので、宿泊のできる豪華なクルーザーではなかったでしょう。
マニラコンサートを計画する中で、プロモーターは、ビートルズが宿泊できる高級ホテルを探すのに苦労しました。彼らは、1966年6月10日にアメリカの新聞に「募集:マニラにおけるビートルの宿泊施設」という広告を掲載しました。
かつてフィリピンはアメリカの植民地だったこともあり、マニラにも5つ星ホテルはいくつかありました。しかし、そのほとんどは、彼らのホテルに熱狂的なファンが殺到して大変なトラブルに巻き込まれるのではないかと恐れていたため、ビートルズの宿泊施設として名乗りを挙げることに消極的でした。
(2)ビートルズも呆れた
それでもビートルズは、リラックスしてインドのクラシック音楽のテープを聴いていました。ところが、18人の若者たちがボートに勝手に乗り込んできて、しばらく平然とそこにとどまっていたのです。これには、さすがのビートルズも困惑しました。ブライアンは、たちまち不機嫌になり、ブツブツ文句を言っていました。すぐに、彼は、自分たちをボートから降ろして、まともなホテルに変更するよう要求しました。
ジョージは、フィリピンの美の女王で同船していたジョシーン・パルドに「こんなバカげたことがなくなって、オレたちが有名じゃなくなったらまた来たいよ。」と語りました。いくらフィリピンが発展途上国だったとはいえ、このお粗末な待遇とセキュリティの甘さは信じられませんね💦
ビートルズは、この間、自分たちがまるで人質のように感じたと回想しています。ジョージは、数十年後、こう回想しています。「蚊が飛び回っている湿度の高い場所で、我々は汗をかき、怯えていた。それだけではなく、キャビンの周りには、銃を持った警官隊がずらっとデッキに並んでいた。本当に憂鬱で、とても落ち込んでいた。来なければよかったと思ったよ。」
警官隊がそれだけ厳重に警備していたのなら、なぜ、大勢の若者たちがボートに勝手に乗り込めたんでしょうか?どう考えても、警官隊の中の誰かが手引きしたとしか思えませんね。
2 大失敗だった陽動作戦
(1)ホテルに宿泊すると見せかけた
ビートルズの広報担当であったトニー・バロウは、回顧録の中で、ビートルズと彼らのスタッフがマニラ滞在中のホテルとしてボートを利用するように、先乗りしたヴィック・ルイスとキャバルカーデという会社のオーナーで現地プロモーターのラモン・ラモス・ジュニアが手配したと説明しています。ラモスは、デイヴ・クラーク・ファイヴをプロモートしたこともあり、それなりに実績はありました。マニラのホテルにはファンを欺くためのおとり部屋が予約されていました。
しかし、この陽動作戦は、大失敗に終わりました。到着の数週間前に地元のマニラ・タイムズ紙は、すでにビートルズがボートに宿泊するとスッパ抜いていたのです。大抵、こういった「極秘情報」は関係者から漏れてしまうものですし、ましてやこの当時はセキュリティなんてあってないようなものでしたから、別に不思議ではありませんでした。
宿泊先がバレていることに気づいたにもかかわらず、バロウは、彼らのマリファナが没収されていないことをニールから確認した後、ビートルズは、長期に亘ってファンから隔離されるというアイデアに最初は満足していたと振り返っています。
(2)こんなところは真っ平だ!
しかし、彼らは、むせかえるような暑さで参ってしまい、甲板の上で銃を持った警官に苛立ちました。さらに、彼らが下船できるのは、次の午後に予定されている最初のショーの直前であると知らされました。スーツや楽器の準備にはもっと時間が必要で、船上でずっと不満を漏らしていたブライアンとすぐに意見が一致しました。
来日した時も高温多湿な時期でしたが、エアコンの効いた一流ホテルにずっと宿泊していたわけですから、それは快適だったでしょう。しかし、フィリピンは日本以上に高温多湿で、しかも、湿度の高い海の上でしたから、なおさら不快だったことは容易に想像できます。
ブライアンは、ボートから何とか外部へ電話をかけて、ルイスに向かって食ってかかりました。「何もすることがない。この酷い小さな船でこれ以上時間を過ごすのは真っ平だ!」彼らは、マニラ・ホテルへ案内され、全員がスイートルームと6つの隣接した部屋を使用しました。やっと安息の地に落ち着けたというところでしょうか(^_^;)ジョン、ジョージ、リンゴは、そのままスイートルームに残り、ポールは、車に乗り込んでマニラの金融の中心地であるエスコルタ地区をドライブしました。
こうしてビートルズは、ようやく安心できる宿泊施設を確保できました。しかし、運命とは皮肉なもので、もし、彼らが船上に留まっていたら、当然のことながら、その後に行われたイメルダ大統領夫人主催の歓迎レセプションに出席していたことになります。そうすれば、何の問題もなく無事にフィリピンを出国できたでしょう。彼らが快適なホテルを確保したことは、結果的に裏目に出てしまうことになりました。
3 なぜフィリピンを選んだのか?
(1)香港と日本は正解だった
ビートルズがアジアツアーで香港と日本を選んだのは、正解だったと思います。香港はまだイギリスが中国から租借しており、実質的にはイギリス本土と同じでしたから、何の問題もありませんでした。
また、日本は、2年前の1964年に東京オリンピックを成功させており、高度成長の真っ只中であるとともに、日本人が規律正しく国内の治安も良かったので、ビートルズに危害が加えられる恐れは全くありませんでした。右翼の反対運動や脅迫があったものの、反対の急先鋒だった読売新聞社主で武道館会長の正力松太郎が、ビートルズが英王室から勲章を授与されていることを知り、歓迎することを約束して騒ぎは治りました。
(2)なぜフィリピンを選んだのか?
ただ、なぜブライアンがフィリピンを選んだのかは疑問が残ります。すでに欧米を制覇したビートルズでしたが、アジアも有力な市場に発展するだろうだという彼の考え方自体は正しかったと思いますし、単にレコードを売るだけでなくコンサートを開催することもファンを拡大するという点で重要な意義がありました。
しかし、フィリピンはまだ発展途上国で、治安もあまり良いとは言えませんでした。フィリピンは階級社会であり、低所得者層の生活は大変に厳しいもので、犯罪率も高かったのです。2016年に就任したドゥテルテ大統領が、数多くの麻薬犯を容赦なしに射殺しましたからね💦だとすると、50年前の1966年がどんな時代だったかは容易に想像がつきます。治安が良くないということは、警察が十分に機能していなくて、反社会的な集団が力を持っていたということです。
現地のプロモーターからの熱心な勧誘もあって、ツアーの最後に日程を追加したため、事前の調査が不十分だったと考えられます。少なくとも、現地の情勢についてフィリピンの英国大使館に事前に照会しておくべきだったでしょう。私が大使館員だったら「ここでは安全を保障できないから、やめておいた方がいい」と勧告したかもしれません。
それともう一つ「もし、来るならマルコス大統領夫妻の言うことには絶対に逆らわないように。」と付け加えたでしょう。
4 ビートルズは国王などからの招待には応じない
ビートルズが王室などからの招待に応じないことにしたのはある事件がきっかけでした。1964年、彼らの最初のアメリカツアー中に、ビートルズは、ワシントンD.C.のイギリス大使館で歓迎のレセプションに出席しました。すると、年配の女性たちがビートルたちをつかんでサインを要求しました。
それだけでなく、ある女性は、リンゴの髪の毛を爪切りバサミで切り取ったのです。こんな酷い目に合わされたため、ブライアンは、ビートルズとしての公式の方針として「国王や独裁者が主催する政府の公式行事には一切出席しない」と宣言しました。しかし、フィリピン政府がそれを知っていたとは思えませんし、仮に知っていたとしても無視したでしょう。
(参照文献)Esquire, Ateneo De Naga high school 1980
(続く)
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