1 棺桶に打ち込まれた最後の釘の1本
(1)ツアーはもうイヤだ
本題に入る前に、前回までのフィリピンツアーの後日談です。ビートルズは、地獄のようだったフィリピンからようやく出国しました。事件のあった翌日の1966年7月6日、マニラのイギリス大使館がフィリピン政府に対して抗議しました。当然ですよね。
もし、ビートルズ自身がケガでもしていたら、イギリスとフィリピンの外交問題に発展していたかもしれません。しかし、フィリピン政府は、何の謝罪も補償もしませんでした。ビートルズ自身は無傷だったので、イギリス政府もそれ以上追及することはしなかったのでしょう。
ジョンは「二度とあそこへは戻りたくない。上空を通過するだけでも嫌だ。」と語りました。また、後にジョージは「散々な目に遭わされたけど、良かったこともある。マルコスとイメルダが、どれほど国民を搾取して暴利を貪っているかということがよくわかった。僕らが、彼らに逆らった初めての人間だっただろう。その政治的意味が分かったのはずっと後になってからのことだけどね。」
運転手のニール・アスピナルは「あれでみんな、ツアーがイヤになった。あれが棺桶に打ち込まれた最後の釘の1本だったかもしれない。あれでツアーはもうやめようということになったんだ。」と語っています。
(2)オレたちのツアーはキャンセルしないのか?
7月8日午前6時30分、ビートルズは、ロンドン空港でインタヴューに応じ、フィリピンでの酷い体験について語りました。その日、ブライアンは、自分がマネジメントしていたイギリスの女性歌手であるシラ・ブラックのフィリピンツアーを中止しました。あんな危ないところへ、しかも、女性歌手を行かせるわけにはいきませんでしたから。
ただ、この話を聞いて憤慨したのはジョージでした。「オレたちがこんな酷い目に遭わされてもツアーはキャンセルしないのに、なぜ、シラのツアーはキャンセルするんだ?」
彼女のツアーがキャンセルできるのなら、オレたちのツアーだってキャンセルできるだろうと彼が憤慨したのも頷けます。ビートルズは、単にツアーの日程が過密だっただけではなく、24時間ファンに追い掛け回されて、精神的にも肉体的にも限界の状態が続いていた挙句、フィリピンでは死ぬ恐怖を味わうほど酷い目に遭いました。その傷がまだ癒えていないにもかかわらず、休息する暇も与えられなかったのです。
2 インドに滞在
(1)インドでもビートルマニアに追いかけられた
その日のうちに、当初の予定通り、彼らは、休暇を取るためにインドのカルカッタ空港に到着しました。彼らがインドに赴いたのはこの時が初めてでした。もっとも、1964年6月7日の朝、彼らは、アムステルダムから香港へツアーで行った際にカルカッタ空港に立ち寄ったことはあるんですが、それは、あくまでも航路の中継地としてにすぎなかったので、本格的にインドに滞在したのはこれが初めてだったんです。
彼らは、インドでゆったり時間を過ごし、インド音楽を聴いてみたいと楽しみにしていましたが、インドにも既にビートルマニアがたくさんいて、彼らをリラックスできるものではありませんでした。600人のファンがニューデリーのデリー空港への到着を迎え、彼らが滞在していたオベロイホテルはすぐにファンに取り囲まれました。
(2)インドを訪問したかったジョージ
元々インドを訪問してみたいと思っていたのはジョージでした。インド音楽に興味を持っていてシタールを買いたいと考えていたのです。でも、一人で行くのは嫌なので、ニールを誘って二人で行くことにしました。
その話を聞いた他のメンバーが、自分たちも行くということになり、結局全員が行くことになりました。他のメンバーは、ジョージほどインドに興味を持っていたわけではなかったのですが、インドならまだ自分たちのことを知っている人は少ないだろうから、ビートルマニアに追いかけ回されることもなく、のんびりできるだろうと考えたのです。
しかし、フィリピンで散々酷い目に遭わされた直後だったので、もう外国はたくさんだという気分になっていました。それで、ジョージ以外は、そのままイギリスへ帰ろうとしたのですが、フライトアテンダントがビートルズの予約していた席は、インドで搭乗する他の乗客に売ってしまったので、ここで降りてくれと告げたのです。
当初、彼らは、インドに滞在する予定だったので、航空会社もそこで空席ができると考えて、次の乗客の予約を入れていたのでしょう。やむを得ず、彼らは、そのままインドに滞在することになりました。彼らが機外へ出ると外はもう夜でした。
彼らが途方に暮れて佇んでいると、空港のフェンスの外はびっしりとビートルマニアが取り囲んでおり、口々に「ビートルズ!ビートルズ!」と叫んでいました。車を拾って走り出すと、後からたくさんのファンがスクーターで追いかけてきました。ジョージは、こう嘆きました。「キツネには穴ぐらがあり、鳥には巣があるが、ビートルズには眠る場所がない。」
これは辛いですよね、ゆっくりくつろげる場所がないんですから💦それも欧米ならまだしも、遠く離れたアジアのインドならゆっくりできるだろうと思ったのに、ここでも彼らはのんびりできませんでした。この頃は情報がダダ漏れで、関係者から簡単に外部に情報が流れていましたから、ビートルズがインドに来るという情報も早くからファンの間に伝わっていたのでしょう。
さて、あまりこのお話を続けると、インドでの滞在のお話がメインになってしまい、本題である「解散問題」から外れてしまいます。これはこれで一つのエピソードとして面白いのですが、また別の機会に譲るとして解散に関係する話に戻します。
3 「ビートルズはキリストよりも人気がある」
(1)ジョンの発言が大騒動に発展した
“We’re more popular than Jesus now.(ビートルズはキリストよりも人気がある)”
これは、ビートルズ時代のジョン・レノンの発言として最も有名なものかもしれません。ビートルズはフィリピンで酷い目に遭いましたが、加害者は、マルコス大統領夫妻とその部下であって、彼らはあくまでも被害者でした。
しかし、ジョンのこの発言は、記者のインタヴューに応じて応えたものであり、その責任は全て彼自身にあります。今でいうところの「誤爆」とか「炎上」とかいうヤツですね(^_^;)もっとも、この発言自体をどう捉えるかは色々と見方があるところなので、まずは事実から追っていきましょう。
(2)過去の発言が蒸し返された
「『テレビはイエスよりも人気がある』と言っていたら、こんな騒動にはならなかったかもしれない!」ジョンは、アメリカの3大テレビネットワークのそれぞれからカメラが回っている中でこう嘆きました。この発言は、集まったジャーナリストたちから笑いを誘いましたが、この当時の彼にそんなジョークで切り抜けられるほどの余裕はありませんでした。それは、1966年8月11日のことで、彼は、その約5か月前のインタヴューでの軽率な発言の責任を問われていたのです。
その時、ジョンは、「キリスト教は消滅するだろう。」と発言しました。「それは、衰退していくだろう。それについて議論する必要はない。僕は、自分が正しいと分かっているし、それは証明されるだろう。僕たちは今、イエスより人気がある。ロックンロールとキリスト教、どちらが先に消えるかは分からない。イエスは大丈夫だったが、弟子たちは鈍くて平凡だった。彼らがキリストの教えを捻じ曲げたせいで、僕にとっては台無しになってしまった。」
ジョン自身は、その発言をほとんど覚えていませんでした。そのインタヴューはその1966年3月4日にロンドンで発刊されたイヴニング・スタンダード紙に掲載されましたが、その時は何の論争も起きませんでした。タイトルを見てもキリストについては全く触れていません。イギリスでは問題発言とはみなされなかったのです。
しかし、それが7月29日にアメリカのティーン向け雑誌「Datebook」に転載されたとき、この引用は国際的な騒動を巻き起こし、ビートルズの将来と彼らの生命を脅かすことになったのです。
(参照文献)THE BEATLES BIBLE, Beatles History, RollingStone
(続く)
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