1 ビートルズと特別の関係にあったモーリーン・クリーヴ
(1)当時は珍しかった女性ジャーナリスト
ジョンは、イギリスの女性ジャーナリストで古い付き合いのモーリーン・クリーヴの取材に応じていました。彼女は、才能があり、洞察力に優れたジャーナリストで、その若さと洗練されたスタイルは、彼女を同業者と肩を並べるレヴェルにまで高めました。
1960年代で女性が社会で活躍できる分野は、先進国のイギリスといえどもまだまだ限られていたのです。写真を見ても美人で知的センスに溢れた女性であることが窺えます。
ビートルズのすべてのメンバーと親しかった彼女は、特にジョンと仲が良かったのです。二人が不倫していたという噂が立ったほど、二人は知的な親密さを共有していました。
「ジョンは、モーリーンをよく知っていた......かなりね。」と、ビートルズ・アンソロジー・ドキュメンタリーのインタヴューを受けたポールはそう回想しました。ちょっと思わせぶりな言い方ですね。「僕たちは、並みのジャーナリストよりも少し優秀な彼女に惹かれていた。僕たちは、おバカなだけのロックンロール・スターじゃないと思っていたんだ。」と語っています。
(2)ジョンと不倫関係にあったのか?
Norwegian Wood (This Bird Has Flown)
当時、「ビートルズは、音楽の才能はあっても知性には乏しい」と考えていたジャーナリストがほとんどだったのです。その中で彼らと知的な会話ができたモーリーンがジョンと親しくなったのも、ある意味で当然の成り行きだったのかもしれません。
マネージャーであるブライアン・エプスタインもまた、彼女の質の高い仕事を高く評価していました。彼は、他のジャーナリストの取材には厳しく制限をかけていましたが、モーリーンにだけはビートルズへの自由な取材を許可したため、彼女は、メンバー一人一人の詳細な人となりを記事にしました。ここまで詳細な取材ができたのは、彼女をおいて他にはいなかったのです。
「ジョンとモーリーンは、不倫関係にあった」という噂も当時から盛んに飛び交っていました。「Norwegian Wood(ノルウェーの森)」の歌詞は、明らかにジョンの不倫体験を窺わせるものですが、これは、モーリーンとの関係を示唆したものではないかとずっと言われています。しかし、彼女は、ジョンが彼女に関係を迫ったことは一度もなかったと否定しています。実際のところは…分かりません(^_^;)
2 ジョンの不満
(1)ライフスタイルに不満を抱いていたジョン
ジョンへのインタヴューは、ロンドン郊外のウェイブリッジにある彼の妻シンシアと幼い息子ジュリアンと共に暮らしていた緑豊かな自宅で行われました。
ジョンは、十分な富と名声を得ていたにもかかわらず、モーリーンは、彼が家庭生活や社会的な地位に深く不満を持っていることに気付きました。「僕は、ちょうどバス停のバスのように停車している。自分が何をしたいのか分かったら、本当の家を手に入れるんだ。」とジョンは、高価な子どものおもちゃが散らばっている自分の邸宅を彼女に案内しながら話しました。「ほら、他にもやることがあるんだ。自分には向いていないということだけは分かっている。」
ジョンがライフスタイルに不満を抱くようになったのは、自分自身を見つめ直す期間が長くあったことが引き金でした。1966年の初めの数か月間、彼は、ビートルズの活動にあまり関わっておらず、彼としては、世界的な名声を獲得してから初めての実質的な休養を取りました。
ずっと家にこもりがちだったジョンは、ドラッグを服用し、新聞、本を読むことで精神面での活動を充実させました。この時期、彼は、世界の宗教について幅広く研究しました。ティモシー・リアリーの「チベットの死者の書」から、ヒュー・J・ショーンフィールドのベストセラー「過越祭のプロット」まで、彼は、世界の宗教について書かれた本を片っ端から読んでいました。
ショーンフィールドの本を念頭に置いて、親しいモーリーンとの間で普段より饒舌になり、後に「Imagine」という名曲の中で宗教のない世界を描き、世界に挑戦することになる男は、とても率直な発言をしました。
(2)シンシアは良妻賢母だったが
これは、あくまで私の憶測ですが、この頃からジョンは、妻のシンシアに対して不満を抱いていたのではないでしょうか?もちろん、彼女に何の非もありません。むしろ、ジョンがほとんど家にいない母子家庭のような状況にありながら、家庭をよく守り、幼いジュリアンを育てていたのです。しかも、夫のジョンがあちらこちらで女性と関係を持っていることも知っていました。
それでも、彼女は、世間の好奇の目にさらされながら、それにじっと耐えていたのです。自己主張の強い女性ならとっくに子どもを連れて離婚していたでしょう。
しかし、そんな健気な彼女は、ジョンのあくなき芸術性を追求しようとする欲求を満たすには、良妻賢母でありすぎたのでしょう。ジョンの心の中にぽっかりと空いた隙間を埋める役割は、彼女が背負うにはあまりにも重すぎたのです。
3 キリスト教離れは深刻だった
(1)ロンドン・イヴニング・スタンダード紙に記事が掲載
モーリーンの「ビートルズは、どんな生活を送っているのか?ジョン・レノンは、こんな風に生きている」と題した記事は、1966年3月4日発刊のロンドン・イヴニング・スタンダード紙に掲載されました。
キリストに関する言及はたった2千字に過ぎず、残りは、ビートルズのライフスタイルに関する記事でした。「イギリスでは誰も注目しなかった」とジョンは、1974年に回想しています。「多くの人にとっては、それは、25歳のポップスターが発した軽はずみな発言に過ぎなかった。」この発言は、ニューヨークタイムズ紙など世界的な新聞にも引用されましたが、その時は何の問題も起きなかったのです。
(2)キリスト教離れが起きていたのは事実だった
敬虔なクリスチャンの方からは怒られるかもしれませんが、当時、特に若者の間でキリスト教離れが顕著でした。ですから、ジョンが特に飛びぬけた主張をしたわけではないのです。個人的な人気を測るバロメーターとしてキリストを引き合いに出す勇気のある人はほとんどいなかったでしょうが、教会へ足を運ぶ敬虔なクリスチャンが急減していることは誰も否定できませんでした。
当時、キリスト教を擁護する人々は、デイリー・メール紙やチャーチ・タイムズ紙に掲載された論説で同様の主張をしていました。つまり、聖職者たち自身もキリスト教が人々の支持を失っていることを自覚していたのです。イギリスでは「キリスト教」という言葉は、イギリス国教会と同義語になっており、多くの人からかつてのような権威はなく、ばかばかしいほど時代遅れになっていると思われていました。
キリスト教は、尊敬されるどころか、ピーター・クック、アラン・ベネット、ピーター・セラーズのような人気のある風刺家たちによって頻繁にジョークのネタにされていました。聖職者たちは、それを自覚していたので、自分たちのイメージを回復しようと必死でした。こういった傾向にあったことは、2016年に全世界で公開されたドキュメンタリー映画「EIGHT DAYS A WEEK」の中でも少しですが触れられていましたね。
どこの国の映画だったのか、そのタイトルも忘れてしまったのですが、確か、1970年代に製作された映画の中で、若者たちのキリスト教離れをなんとか回復させようと、聖職者がビートルズのようなアイドルを人気回復のための広告塔として起用しようとしていました。彼らが演奏する姿を苦笑いしながら見つめている聖職者たちの姿が印象的でしたね。
(3)ビートルズはむしろキリスト教を支持していた
「聖職者たち自身が信者が減っていることに危機感を抱いていた。」とポールは、アンソロジーシリーズの中で回想しました。「僕たちのライヴにはカトリックの神父が何人も来ていて、楽屋でよく議論をしていたんだ。...僕らは『教会でゴスペルを歌うべきです。誰もが聞いたことのある古臭い賛美歌を歌うのではなく、もっと生き生きとした歌い方をすべきです。』と言った。僕たちは、教会がしっかりした行動をとるべきだと強く感じていた。むしろ、僕たちは、とても教会を支持していたんだよ。ジョンが表現しようとしたのは、悪魔のような反宗教的な視点じゃなかったんだ。」
つまり、ビートルズは、キリスト教に反対していたどころか、むしろ支持していたんですね。ただ、昔ながらのやり方では時代遅れだから、もっと若者に受けるようにゴスペルなどを取り入れた方がいいと提案していたぐらいです。
確かに、ずっと後の時代の1992年になってからですが、ウーピー・ゴールドバーグ主演の映画「天使にラブ・ソングを…」は大ヒットしましたね。ひょんなことから、修道女になった歌手がどうしようもなかった聖歌隊を鍛え上げ、退屈な聖歌をモータウンの楽曲にアレンジして街中の人気者になるというストーリーでした。ポールが提案したのは、こういうことだったのでしょう。
いつの時代でもそうですが、片言隻句(へんげんせっく)だけを切り取ってクローズアップすると、その意味が変わってしまう場合があります。時代背景や状況なども十分に考慮に入れる必要があるのです。
(参照文献)RollingStone
(続く)
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