1 ボツになった楽曲
(1)数多くの楽曲がボツになった
ビートルズは、公式に発表されたものだけでも213曲に及ぶ楽曲を発表しています。画家にスケッチブックがあるように、ビートルズの曲の中にも初期の下書きやスケッチのままで終わり、バンドから忘れ去られてしまったものが少なくありません。
しかし、そのようにして作られた曲の中には、グループとは違うステージで素晴らしい曲になったものもありました。ジョージの作品がそのほとんどを占めていますが、ジョンにもバンドにボツにされた曲があります。
(2)Cold Turkey
彼の作品である「Cold Turkey」には、その意味を巡っていくつかの解釈があります。これは、ジョンがビートルズの古くからの付き合いであるエリック・クラプトンの助けを借りてレコーディングした曲で、後にプラスティック・オノ・バンドからリリースされました。この曲は、彼の象徴的な作品となり、彼の2枚目のソロシングルとなりましたが、実は、ビートルズの楽曲としてリリースされた可能性もあったのです。
2 ヘロイン中毒に陥ったジョンとヨーコ
(1)彼らに対する厳しい仕打ち
ジョンは、この曲をヘロインを絶つために中毒者が経験しなければならない恐ろしい極限状態を臆することなく表現したものだと語っています。ジョンとヨーコがヘロインという最悪の薬物を常用するようになったのは、二人にとって特に困難な時期でした。
ジョンは、1970年にジャン・ウェナーにこう語っています。「(ヘロインを使用することは)あまり楽しいものじゃなかった。私は、注射などはしなかったが、本当に苦しいときは少し嗅いだ。」「みんなが我々に辛い思いをさせていたから、我々は、ヘロインを止められなかったんだ。」
「私や、特にヨーコにはたくさんの罵声が浴びせられた。ピーター・ブラウンみたいな人がオフィスに来て私と握手しても、彼女には挨拶もしない。そんな状態がずっと続いていた。それが我々に起こったことだ。それがあまりにも辛いので、何かをやらざるを得なかった。それが我々に起きたことなんだ。」
「ビートルズとその仲間たちが我々にしていたことのために、我々は、ヘロインを摂取した。そして、我々は、そこから抜け出したんだ。彼らにそうさせられたわけではないが、あの時期にいろいろなことが起きた。私は、そのことを忘れない。」*1
(2)孤立していた二人
「人生の辛さから逃れるために薬物を使用した。」というのは、薬物中毒者の常套句です。どんな理由があろうと、違法な薬物を使用してはいけません。しかし、ジョンとヨーコが、当時とても辛い立場に置かれていたことは確かです。
時代の最先端を走り、エキセントリックな言動で常に物議を醸していたヨーコ。彼女にインスパイアされ、彼女と行動を共にするようになったジョン。世間の彼らに対する風当たりは、極寒の地における吹雪のように辛く厳しいものでした。
ジョンがポールに対して辛辣な言葉を浴びせ、彼の心を削っていたことが目立ちますが、実は、ジョンとヨーコもビートルズのメンバーをはじめ、世間全体から厳しい仕打ちを受けていたのです。彼らは、全く孤立していて味方になってくれる人物は誰もいませんでした。
3 ヘロインを絶った
(1)「Cold Turkey」を選択
1969年は、ビートルズにとって様々な難題が降りかかった厳しい年となり、ジョンは、度々ヘロインを使用することでそれらから逃避しました。アルバム「Let It Be」のレコーディング中にみせた彼の不安定な態度や、自分で決めたこと以外には興味を示さなくなっていたことなど、彼がこの時期に取った問題行動の多くはヘロインが原因でした。
しかし、その年の終わりにジョンとヨーコはヘロインを止めるため、「Cold Turkey」と呼ばれるプロセスを踏むことを選択しました。ヘロインのような作用の強い薬物をいきなり絶ってしまうと、Cold Turkeyと呼ばれる激烈な禁断症状に襲われます。「冷たい七面鳥」という言葉の通り、羽をむしり取られた七面鳥のような哀れな有様になるのです。
一般的には専門家の指導の下に徐々に弱い薬物に置き換えて、薬物中毒から離脱させるという手法が取られます。しかし、彼らは、敢えて強い苦痛を伴う手法を選びました。
(2)薬物の怖しさを訴えたかった
ジョンは、1980年にデヴィッド・シェフとこの曲について対談したとき、「Cold Turkeyの意味は明白だ。」と語り始めました。
「この曲は、アメリカのラジオで再び放送禁止になってしまったので、発売には至らなかったんだ。彼らは、私がヘロインの宣伝をしていると思っていたようだが、そうじゃない...。あの連中は、薬物のことを何もわかっていない。」
「彼らは、数本の麻薬をポケットに持っている密輸業者や若者を逮捕するだけだ。彼らは、薬物問題の現状を見ようとせず、原因を追求しようともしない。なぜ、みんなが薬物をやっているのか?彼らは、何から逃げるているのか?人生は、そんなに酷いものなのか?アルコール、麻薬や睡眠薬の支えがないと何もできないような酷い状況で生きているのか?」
「私は、彼らを説教しているんじゃない。ただ、麻薬は麻薬だと言っているだけだ。」とジョンは、麻薬に対する進歩的な考えを述べて締めくくりました。「街角で誰が誰に売っているかではなく、なぜ服用するかが重要なんだ。」*2
ジョンは、政府が薬物を根本原因にまでさかのぼって撲滅する対策を取らず、密売人や使用者を逮捕するという末梢的な対策に力を注いでいたことを批判し、もっと抜本的で効果的な対策を取るべきだと主張したのです。これは、彼らが酷い中毒症状に悩まされた経験から得た考え方でした。
(3)作曲を開始
1969年9月初旬、ジョンは、新曲の最初の部分を書き始め、特別な友人であるクラプトンにも協力を求めました。ただ、彼らは、自分たちのバンドを作ろうとまでは考えていなかったので、ある程度の距離を置いていました。その時点ではジョンは、まだビートルズの一員であり、メンバーとして活動していましたから。
ジョンとアコースティック・ギターだけのテイク、クラプトンがギターを弾いているテイク、そして最後にヨーコがヴォーカルをとっているテイクがレコーディングされました。ジョンは、この曲を、グループのもう一人のメイン・ソングライターであるポールのところに次の展開を考えてもらおうと考えて持って行きました。
4 ジョンにビートルズ脱退を決意させたきっかけ
(1)メンバーは提案を拒否した
ジョンは、目を輝かせながら、この曲をビートルズの次のシングルとしてレコーディングすることをポールに提案しました。彼は、バンドのリーダーとして、ヘロイン中毒をテーマにしたこの曲をリリースすることが、グループにとってあまりにもリスクが高いことは十分に承知していました。
それでも、彼は、珍しくポールの機嫌を取りながら提案しました。しかし、ポールだけでなくジョージやリンゴも、ビートルズが薬物使用を勧めていると誤解されかねないと、ビートルズとしてリリースすることを拒否したのです。
結果的に彼らの判断は、正しかったといえます。実際にジョンがプラスティック・オノ・バンドの作品としてリリースしたときは、やはり世間の誤解を生み、英米の放送局で放送禁止になりました。
歌詞は、薬物中毒や禁断症状の恐ろしさを歌ったものであり、ジョンの考えもよく理解できる素晴らしい作品です。しかし、薬物の作用や禁断症状が逆に快楽であると訴えているようにも解釈できるため、当時の状況で発表するのは、リスクがあったといえるでしょう。
プラスティック・オノ・バンドの最初の作品である「Give Peace a Chance」は、ポールがなんら関与していなかったにもかかわらず、レノン=マッカートニーのクレジットでリリースされました。しかし、「Cold Turkey」のリリースを拒否されたジョンは、レノン=マッカートニーのクレジットを捨て、自分の名前でクレジットしました。
これは、ジョン・レノンという名前だけでクレジットされた最初のシングルとなりました。これは、ジョンがグループを脱退することを示す当時としては大きな動きでした。
(2)もしメンバーが了承していたら
カナダのトロントで開かれたトロント・ロックンロール・リヴァイヴァル・フェスティヴァルの前日である1969年9月12日、ジョンは、ビートルズから脱退するつもりであることをマネージャーのアラン・クライン、エリック・クラプトンそしてクラウス・フォアマンに打ち明けました。「Cold Turkey」をビートルズのシングルとしてリリースすることを拒否されたことが、ジョンに「もうこの連中とは一緒にやれない。」と見切りをつけさせたきっかけの一つとなったのです。
ジョンがポールとマネージャーのクラインに対してビートルズを脱退する意思を明確に伝えたのは、それから1週間後の9月20日でした。これもたらればの議論になりますが、もし、メンバーがこの曲をビートルズのシングルとしてリリースすることを了承していたら、ほんのわずかの間でも彼を引き止められたかもしれません。それでも可能性としては限りなく0に近いですが…。
プラスティック・オノ・バンドがトロントでライヴ演奏を披露した後、リンゴをスタジオに迎えてドラムを担当させてようやく完成したこの曲は、1969年10月20日にリリースされました。
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(参照文献)ファー・アウト、ザ・ビートルズ・バイブル
(続く)