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ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ジョンが中毒でさえなければ…(291)

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1 ジョンがヘロイン中毒に

Why The Beatles' Rooftop Concert 50 years ago was so magical

1960年代の薬物の流行は、欧米諸国において最大の健康上の危機であると、徐々に認識されるようになってきていましたが、その流れを止めるという方向転換までには至っていませんでした。実際、事態は、悪化の一途をたどっていたのです。アメリカの保健機関は、薬物中毒があまりにも蔓延しているため、自動車事故よりも薬物の過剰摂取で死ぬ可能性の方が高くなっていると報告しました。

ビートルズのメンバーも1965年にはLSDを使用するようになり、1968年の夏にポールは、コカインに長期間依存するようになっていました。しかし、彼らは、薬物に依存しながらもすばらしい楽曲を制作し、レコーディングを続けてシングル、アルバムとも大成功を収め、ポピュラー音楽界のトップを走り続けていました。その一方で1969年初頭になると、ジョンとヨーコは、重度のヘロイン中毒に陥っていました。

ジョンの依存症は、メンバーを警戒させました。ゲット・バック・セッションが始まる頃には、ヨーコは、公然とヘロインを摂取することが二人のエクササイズになっていると冗談を言っていました。ポールは、こう語っています。「二人は、ヘロインを飲んでいたんだ。これは、我々にとってかなり大きなショックだったよ。確かに、我々は型破りな人間ばかりだったが、そこまで酷いとは思っていなかった。」

ヘロインは、その依存性の強さや強烈な離脱症状などのため、最も危険な薬物とされています。他のメンバーもあれだけは手を出してはダメだと自戒していたのだと思いますが、リーダーのジョンがそれに手を出していたことにショックを受けたのです。

 

2 依存症に陥っていた

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麻薬所持容疑で起訴され、法廷を出るジョンとヨーコ

ジョンは後に、ノーマン・ピルチャー刑事巡査部長が率いる悪名高い麻薬捜査班によるモンタギュー・スクエアのアパートで大麻の家宅捜索が行われたことをきっかけに、二人がヘロイン中毒に陥ったと主張しています。

彼は、1968年11月中旬にヨーコが流産したのはこの捜索の余波によるものだとし、ヨーコの流産後に「我々は、本当に苦しんでいた。」と語っています。他方で彼は、ヘロインに手を出したのは、メンバーがヨーコを自分たちと対等な存在として受け入れることを拒否したからだと主張し、「メンバーが我々にした仕打ちのせいで」ヘロインを吸い始めたと主張しています。

しかし、実際には、ジョンの薬物依存はもっと前から始まっていました。「注射はしていない。ただ嗅いでいただけだよ。」と彼は盛んに主張していました。しかし、ジャーナリストであり、ジョンの親友でもあるレイ・コノリーが観察したところによると、ジョンは「好きなことを中途半端にすることはほとんどなかった。いつの間にかヘロインが彼の中で主役になっていた。」と主張しています。

下積み時代の彼の性向から見ても、薬物依存に陥りやすい傾向にあったのではないかと推察されます。ヨーコの流産やメンバーが彼女を拒絶したことも一つのきっかけになったかもしれませんが、彼は、もっと以前から薬物に依存しており、その二つの事件は、彼のそういった傾向を助長しただけなのかもしれません。

3 自動車事故が拍車をかけた

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事故車で記念撮影するジョンとヨーコ

ビートルズがようやくアルバム「Abbey Road」のレコーディングに取り掛かった時、ジョンは、スコットランドで自動車事故を起こし、レコーディングへの参加は遅れ、彼とヨーコは、一時的に入院して傷口を縫い合わせる手術を受けました。7月中旬になってようやく他のビートルと合流したとき、ジョンは、スタジオにハロッズのベッドを置いて、ヨーコが彼の傍で療養できるようにしました。

驚くことではありませんが、この事故の余波で、ジョン夫妻は、ヘロインを治療薬として使うようになりました。この時期になると、ジョンは、精神的に不安定な状況が続き、レコーディングをすっぽかしてしまうことも珍しくありませんでした。彼の不規則で予測不可能な行動の変化は、ヘロインの使用が長引いた結果である可能性が高かったのです。

後に音楽史家のバリー・マイルズは、こう語っています。「他のビートルズは、彼の爆発的な怒りを避けるために、卵の殻の上を歩かなければならなかった。以前であれば、ヨーコの存在がレコーディングに邪魔だと彼にクレームを付けたり、口論できたりしたかもしれないが、ジョンは予測不可能な状態にあり、明らかに身体的苦痛を感じていたため、あの時点となってはそれも不可能だった。」

ジョンは、ただでさえヘロイン中毒に陥っていたのに、自動車事故がきっかけでますますそれに依存するようになってしまいました💦ヘロインは、彼の身体と精神を蝕み、常に不安定な状況におきました。それまで他のメンバーは、まだ彼に対して文句を言えたのですが、ボロボロの状態になっている彼に対しては、それすらもはばかられるようになってしまったのです。

数年後、ヨーコの友人であるアメリカ人俳優のダン・リクターは、彼女がジョンの最新の治療法を提供するためにEMIスタジオの中に入ったことを思い出しました。「ビートルズがスタジオの向こう側で作業をしている間に、ベッドの上に座ってヨーコと話しているのは変な気分だった。アビイロード・スタジオの真ん中にあるベッドの上に座って、ヨーコに小さな白い小包を渡している間に、彼らがロックンロールの歴史を作っているんだと思わずにはいられなかったよ。」

「小さな白い小包」ってヘロインのことですよね。確かに、スタジオの真ん中に置かれたベッドでヨーコにヘロインを渡している一方で、ビートルズが「史上最高傑作」と呼ばれるアルバムを制作していたんですから奇妙な風景です。

 

4 ヘロインを止めることを決意した

The Last Photo Session - Tittenhurst Park, 1969 | The Beatles

1969年8月22日にティッテンハースト公園で行われたビートルズの最後のフォトセッションの後、4人のビートルが一堂に会した最後の機会に、ジョン夫妻は、きっぱりとヘロインを止めようと決意しました。ヨーコは、ヘロインから脱け出すために、彼女の仕入先であるリクターの助けを求めました。

ヨーコは、こう語っています。「私たちは、ある意味では非常に正直だった。誰にも知られたくないから、病院ではヘロインを止めなかった。コールドターキーは酷かった。注射をしていたとは思えない......まあ、ハマってはいたけど、量が多かったとは思えない。それでも離脱症状は酷かったわね。コールドターキーは、とてもキツかった。」

後に、ジョンが自分のソロ曲のタイトルにした「コールドターキー」ですが、これは薬物などへの依存習慣を急に断ち切ること、あるいはそれによって起こる鳥肌のことを指します。離脱症状として生じる鳥肌が、まるで羽をむしって冷蔵された七面鳥の肌みたいに見えることから名付けられました。 

このようにヘロインの離脱症状があまりに酷いため、現在では中毒者に対する治療としては、いきなり投与を止めることはせず、徐々に減らしながらより危険性の低い薬物に置き換えていって、最終的には寛解させるという手法が取られています。

しかし、1969年8月当時は、まだこのような治療方法は確立されていませんでした。ですから、ジョンにとって唯一の手段は、ヘロインをいきなり止めるコールドターキーしかなかったのです。自分をヘロインから解放させようと必死になって、彼は、ヨーコに自分を椅子にロープで縛りつけるように命じたと言われています。約36時間、彼は、体内からヘロインを取り除こうとして痛みに耐えていました。

 

5 薬物問題に警鐘を鳴らした

ヘロイン中毒から抜け出そうとした自身の経験を記録に残そうと、ジョンは「コールド・ターキー」を作曲しました。My feet are so heavy / So is my head / I wish I was a baby / I wish I was dead(オレの足はとても重い/頭もそうだ/赤ん坊ならいいのに/死んでしまえばいいのに」

しかし、ジョンがヘロインに打ち勝ったのは、がっかりするほど短期間でした。数日後にディランのためにこの曲を披露した時には、彼は、またヘロインを吸っていたのです。彼は後に、彼とディランは「二人とも日陰にいて、麻薬に手を出していた」と振り返っています。彼は、それが椅子とロープよりもはるかに多くのものを必要とすることを分かっていました。彼は、「クソみたいに神経質になっていた。」と認めました。

ジョンが薬物に打ち勝つためには、さらに何度かの試みが必要でした。彼の薬物問題についての偉大な功績として、自分の生き方を公開し、多くのインタヴューで彼の試練と苦難を世界に伝えました。1980年9月、彼は、1969年にBBCがラジオ番組で「コールド・ターキー」を禁止したことを嘆きました。彼は、薬物の危険性を訴えようとしたのに、BBCは、薬物を推奨していると誤解したのです。

現代において薬物中毒の危険性が叫ばれるよりずっと以前のことでしたが、ジョンは、この問題に対する社会の理解の無さ、依存症との戦い方を率直に語りました。「社会は、麻薬について無理解だ。」と彼は強調しました。

「社会は、薬物問題の原因に目を向けていない。中毒者は、なぜ薬物に手を出したのか?何から逃れるためだったのか?人生は、そんなに酷いものなのか?我々は、アルコール、タバコに依存しないと何もできないような酷い状況の中で生きているのか?アスピリン睡眠薬、アッパー、ダウナー、ヘロインやコカインは、薬物のほんの一部に過ぎないことを重視すべきだ。」

6 解散への影響

ビートルズにはあまりにも多くの不幸が重なりました。ジョンが酷い薬物中毒に陥ったこともその一つです。リーダーの彼がそんな状態でレコーディングもまともにできない状態が続いたため、ポールが何とかビートルズを立て直そうとしたのですが、そうすればするほどかえって他のメンバーの反発を招き、彼を窮地に追いやることになってしまいました。

ジョンが薬物中毒に陥っていなければ、メンバー同士があれほど対立することもなかったかもしれません。これもまた解散の遠因の一つではあるものの、その深刻さは一番大きかったかもしれません。

仮に彼が正常であっても、遅かれ早かれ解散は避けられなかったとは思いますが、それももう数年先のことで、メンバー全員がきちんと話し合って納得する形で解散を決定し、記者会見して世間に事情を説明するという、円満な形で解散できたのではないかと今さらながら残念に思います。

 

(参照文献)salon

(続く)

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