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★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(その70)ビートルズの名を生み出した夭折の天才アーティスト、スチュアート・サトクリフについて(その2)

1 リンゴ・スターとの出会い

ポールは、こう語っています。「スチュは、とてもカッコ良くなっていた。以前よりも少しにきびが増えて、芸術大学の学生みたいな感じだったね。彼は、良く僕たちからからかわれていたよ。でも、彼は、ハンブルクのステージで存在感が大きくなっていた。ジェームス・ ディーンみたいなレイバンのカッコいいサングラスを掛け、タイトなジーンズを履き、でっかいベースを構えるとグルーヴィーに見えた。彼は、髪をカットして少し陰のある男に突然変身したんだ。それは素晴らしかった。」

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THE BEATLES BIBLE)
サングラスをかけているのがスチュです。ポール、ジョージ、ピートもいますね。ビートルズハンブルクに巡業していた同じ時に、これも全く偶然にリンゴが「ローリー・ストーム・アンド・ザ・ハリケーンズ」のメンバーとして巡業に来ていたんです。彼は、初めて来たハンブルクの地理が分からず、グロッセフライハイトの辺りを彷徨い歩いて、スチュとぶつかったんです。
 
初対面にもかかわらず、スチュは、親切にもリンゴをカフェへ連れて行き、空腹の彼にパンケーキをご馳走してあげました。これがリンゴにとってハンブルクで初めての食事となったのです。しかし、まあ、何と心の優しい青年でしょう。イケメンで優しいと来れば、さぞ女性にモテモテだったのだろうと思いますが、その辺りのエピソードを書いた資料は今のところ見当たりません。
 
ビートルズは、巡業の間、芸名を使っていました。スチュは、スチュアート・ド・スタールというフランス人みたいな芸名を名乗っていました。これは、彼が傾倒していたロシア人画家のニコラ・ド・スタールにあやかったんです。
 
リヴァプールのミュージシャンにとって、ハンブルクは割と身近な存在でした。というのもどちらも港町で、大勢の船乗り達、娼婦達がいて飲み歩くには最高のロケーションだという所がとても良く似ていたからです。
 

2 アストリッド・キルヒャーとの出会い

ある夜、ハンブルクの住民ではないグラフィックデザイナーのクラウス・フォアマンがカイザーケラークラブをふらりと訪れ、ハリケーンズの演奏を聴きました。その次にビートルズが演奏したんですが、彼は、それを聴いてすっかり彼らの魅力にはまってしまい、ハンブルクに滞在しようと決めました。彼は、早速次の日の夜に、当時ガールフレンドだったアストリッド・キルヒャーと彼らの友人のユルゲン・フォルマーを連れてクラブへ行きました。これがスチュとアストリッドとの出逢いです。これがフォアマンです。いや、なかなかのイケメンです。アストリッドって面食いだったんですかね?
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(FILMREPORTER.DE)
フォアマンは、後にベーシストとして活躍することになり、ポールがビートルズを脱退した時は、彼が後任のベーシストとしてメンバーになるのではないかと噂されました。
 
スチュは、ドイツの魅力に取り憑かれ、ドイツについて学ぼうと努力しました。アストリッドとすぐにデートするようになり、プラトニックな愛を深めていくことになります。結果的にフォアマンはアストリッドに振られたことになりますが、しかたないと思ったみたいですね(^_^;)
 

 

 
ビートルズは、メンバー同士でしばしばケンカしました。特に、スチュとピートは新参者だったので、良くターゲットにされました。中でもポールとスチュは、良く揉めました。ステージの上で取っ組み合いの大ゲンカをやったこともあります。「何だこの野郎!」「てめえこそ何だ?」
 
スチュはポールより小柄でしたが、意外に腕力が強く、組み合ったまま動かなくなってしまったことがありました。どうも、アストリッドが素晴らしい女性だったので、ポールが嫉妬したところもあったようですねf^_^;ポールが彼女のことをけなしたので、大人しいスチュも流石に頭に来てポールを殴ったんです。メンバーが慌てて止めに入りました。「止めろ、お前ら!」 
 

3 画家として優れた才能を発揮

1960年11月、出逢ってから僅か2か月後にスチュとアストリッドは、ドイツの伝統的な儀式で指輪を交換し、婚約しました。翌月、彼は、絵の勉強のためにハンブルク芸術大学に入学することを決めました。彼は、ハンブルク大学の彫刻家エドゥアルド ・ パオロッツィの下で熱心に勉強し、大学院の奨学金を獲得しました。
 

 


パオロッツィは、ポップ・アートの巨匠ですが、後にスチュを「最高の学生の一人だった」と紹介するレポートを書いています。彼が残した作品は数が少ないものの、イギリスやヨーロッパの抽象画家に影響を与えました。彼の初期の作品は、写実的な物が多かったのですが、後期に入るとジョン ・ ホイランドやニコラ ・ ド ・ スタール等の影響を受けて、より叙情的で抽象的な作風に変わりました。 
 
彼の作品をご紹介します。これは、1959年の作品でタイトルは「Ye Cracke」です。これは、リヴァプールでジョンとスチュが通学していたアート・カレッジの近くにあるパブの名前で、その店内を描いた作品です。店名の由来は、古い英語で19世紀にあった公共住宅のことらしいですね。
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(INACTIVE BLOG) 
ここに描かれている2人の男性が誰だかわかりますか?そう、若き日のジョンとスチュです。彼らは、この店の常連でしょっちゅう飲みに来ていました。そうそう、ジョンは、後に妻となるシンシアともここに良く来てましたね。これが初期の頃の作風です。
 
 
 
皆さんは、フォーヴィズム(野獣派)という20世紀初頭の画家の一派をご存知ですか?マティス、ドラン、ルオーなどがその代表格ですが、野獣のような荒々しいタッチが特徴です。それを彷彿とさせる画風です。大胆な構図や色彩感覚は、とてつもない才能を感じさせます。これが何と19歳の時の作品だというのですから驚きです!ジョンが脅威を感じたというのも頷けます。彼は、10代の若さで既にリヴァプールの偉大な実業家サー・ジョン・ムーアが後援する絵画展に出展していたのです。
(参照文献)THE BEATLES BIBLE
(続く)