★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

(197)異次元の作品「ホワイト・アルバム」の不思議な世界(その4)

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1 「I’m So Tired」のデモ

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イーシャー・デモには「I’m So Tired」のデモが収録されています。これはジョンが、インドのリシケシでマハリシの下で瞑想していた頃、眠れなくなってしまったことについて歌ったものです。

私は、瞑想というものをしたことがないのでよく分からないのですが、どうやら瞑想により精神が異常に集中したため、一時的な不眠症に陥ってしまったようです。あるいは、ドラッグとアルコールを断ったことによる禁断症状だったのかもしれません。

曲の終わりにジョンのセリフが入っていますが、「When I hold you~」とどこかで聞いたことがあるような内容になっています。それもそのはずで、これは「Happiness Is A Warm Gun」の歌詞の一部です。つまりこの時には、I’m So Tiredの一部だったんですね。

ビートルズの楽曲制作の方法にはいろいろありましたが、これは、ある曲の一部から別の曲が生まれた例です。歌詞をそのまま使ったわけではなく内容は変更されていますが、これも彼らの楽曲制作では、当たり前に行われていたことです。

 

2 「Dear Prudence」はこうして誕生した

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(1)楽曲のヒントになった女性

ジョンは、「Dear Prudence」の終わりに、「プルーデンス・ファロー」という女性について語っていますが、その時は、彼自身の精神状態もかなりおかしくなっていたのです。眠れなくなっていたくらいですからね。彼は、最後のギターでリックを入れた時に「リシケシ、インディア」と語って、周囲のみんなを笑わせました。

プルーデンス・ファローは、映画「ローズマリーの赤ちゃん」で主演した女優のミア・ファローの妹です。姉はこちらです。

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つまり、この曲は、珍しく本人の名前を使っています。しかも、著名人ではない一般人ですね。この写真の一番左手前の女性です。

Prudence Farrow (front left) with Beatles Ringo Starr (center) and Paul McCartney (right) and their wives at an Indian ashram in 1968.

「遅かれ早かれ、マハリシ・マヘーシ・ヨーギーの導きで、彼女は、完全に凶暴になっていくのは目に見えていた。周囲の人たちは、どんどんおかしくなっていく彼女をとても心配していた。」そこで、彼は深呼吸しました。「だから、我々は彼女のために歌った。」

1968年1月、当時20歳のプルーデンスは、インドのリシケシでマハリシ・マヘーシ・ヨーギーの下で瞑想を学ぶという2年がかりの夢をようやくかなえました。姉のミアに付き添われて現地入りしたプルーデンスの後にビートルズメンバーとその恋人たちが到着しました。

ビートルズがインドに滞在したのは歴史的な事実ですが、彼らは、マハリシの下で悟りを目指しただけでなく、曲も書いていたのです。彼の功罪については様々な議論があるところですが、少なくともホワイト・アルバムの制作に当たって、ビートルズにインスピレーションを与えたことは間違いないでしょう。

(2)ジョンにインスピレーションを与えた

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プルーデンスは、合宿所でビートルズを取り巻いていた喧噪にのまれることなく、自室で長時間の瞑想に集中していました。一つのことに熱心に取り組む彼女の姿勢が、ジョンにインスピレーションを与えたのです。

ジョンは、プレイボーイ誌のインタヴューでこの曲について語り、それは、彼が亡くなった後の1981年に出版されました。彼は、「プルーデンスが滞在先の合宿所から出て来なかったので、僕らは彼女を外に引っ張り出したんだ。3週間こもりきりで外に出ようとしなかったからね。彼女は、誰よりも先に神を見つけようとしていた。マハリシの合宿所では、誰が先に宇宙的な体験ができるか競っていたんだよ。」

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現代社会から考えると異様に思えるかもしれませんが、1960年代後半としては別に不思議な話ではありません。当時、先進国では物質文明がどんどん進歩していき、社会が物で溢れていく一方で、多くの人々の精神は病み疲れていました。それで、西欧人は、東洋思想に救いを求めたんです。プルーデンスもそんな一人だったんですね。

どうやらジョンは、マハリシに師事はしたものの、のめり込むところまではいかなかったようです。だから、プルーデンスのことも冷静に見られたのでしょう。このエピソードを知った上で改めてこの曲を聴くと、その光景が目に浮かんできます。

 

3 ビートルズ、激動の時代へ突入

(1)アメリカのトーク番組に初出演

当時は、ビートルズにとって激動の時代で、数日後には彼らの人生のすべてが変わったのです。5月中旬、ジョンとポールは、新たに立ち上げたアップルコア社について発表するためにニューヨークへ飛びました。

彼らは、5月14日に「The Tonight Show」に出演しました。これは、ジョンとポールが初めて出演したアメリカのトーク番組でした。彼らにとって不運だったのは、トーク番組のメイン司会者が不在で、その代わりにビートルズのことについて何も知らない野球解説者が司会者を務めていたことです。共演した女優も彼らに興味がありませんでした。

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ビートルズが初めてアメリカのトーク番組に出演したというだけでも大きな出来事です。何しろコンサートを一切止めたため、メディアに登場する機会は激減していましたから。

インドでの貴重な体験や、リリース予定のニューアルバム、彼らが立ち上げたアップル・コア社の今後の方針など、聞きたいことは山ほどあったはずですが、殆どそれらの話題には触れられず、ビートルズにとっては散々な結果に終わりました。

天下のNBCがこの有様とはねえ〜。期待したファンや音楽関係者は、さぞがっかりしたことでしょう。

(2)シンシアがついに離婚を決意

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しかし、本当に大きな変化は、ジョンがイギリスへ帰国してから数時間で起きました。彼は、「Two Virgins」をオノ・ヨーコとともに、初めてベッドで夜通しセッションしてレコーディングしました。朝食の時にその話を聞いた妻のシンシアは驚き、とうとう離婚を決意しました。この頃のジョンの言動は、常軌を逸していました。

本当にシンシアは気の毒でした。学生時代にジョンと結ばれ、下積み時代の彼をずっと支えていました。ビートルズがブレイクすると彼は多忙になり、ほとんど自宅に帰らないばかりか、多くの女性と関係を持っていました。それでも彼女はじっと耐えていたのですが、その我慢も限界に達したんですね。

 

4 オノ・ヨーコがセッションに参加

(1)聖域が侵害された

ホワイト・アルバムの最初のセッションが始まった5月30日、メンバーの3人は、アビイ・ロード・スタジオのコントロールルームに、ジョンの傍にヨーコがいるのを見て驚きました。そこは、彼らにとって「聖域」であり、「関係者以外は絶対に入ってはならない」という不文律をジョンが破ってしまったからです。

彼女は、ずっとジョンの傍にいました。この日は、「Revolution1」のレコーディングの初日でしたが、彼女は、マイクを通してセッションに参加しました。それ以来、他のメンバーは、彼女を通してしかジョンにアクセスできなくなったのです。

(2)ポールの意外な反応

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関係者は一様に、ヨーコがスタジオに入ってきたことに不快感を示しましたが、意外なことにポールだけは、歓迎の意を表したというのです。

ヨーコは、6月4日のテープに記録した日記で「ポールはとても素敵でした。彼は、私を尊敬していました。私は、彼が私の弟、またはそれに近い存在だと感じました。私は、もし、彼が女性だったら、素晴らしい友達になっただろうと確信しています。」と語っています。

ヨーコは、こう語っているのですが、本当にポールが彼女を歓迎していたとはとても思えないのですが…。

5 イーシャー・デモがバンドとして最後のレコーディング

(1)ホワイト・アルバムのレコーディングはバラバラに行われた

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ビートルズは、5か月間ホワイト・アルバムのレコーディングに取り組んでいましたが、その間、しばしばメンバーそれぞれが、別々のスタジオでレコーディングしました。リンゴに至っては、ポールと喧嘩をしてしまい、1週間バンドを離れてしまいました。

レコーディング・テクニックが十分に発達していなかった頃は、メンバー全員が一緒にレコーディングする必要がありましたが、テクニックの発達により必ずしもその必要はなくなりました。テクニックの発達が、却ってメンバー間の距離を広げてしまうことになったとは何とも皮肉な結果です。

そう思って振り返ると、イーシャー・デモが、ビートルズが一つのバンドとしてレコーディングした、実質上最後のものだったことになります。

「Get Back/Let It Be」セッションで、彼らは、そのベースとなるテープの精神を再構成しようと試みましたが、それは、むしろ彼らの哀しい終焉(しゅうえん)を記録することになってしまいました。

(2)「Jealous Guy」の原型

イーシャー・デモの中で最も激しい瞬間は、インドについてのジョンの「Child of Nature」です。この曲は、3年後にジョンのヨーコへの愛の歌「Jealous Guy」のメロディーとして蘇りました。

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この曲でジョンは、「I’m just a child of nature」と歌っていますが、これは、ポールが「Mother Nature’s Son」と歌っているのと同じ精神で歌っているんです。都会で生まれた2人にとって、自然は彼らが共有した幻想であり、再び兄弟になることができる家族のような空間でした。

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「Child of Nature」と「Mother Nature’s Son」は、実際には自然とは何の関係もありませんが、互いに共通点を持っています。それは、「壊れたものはすべて治すことができる」という夢です。しかし、ビートルズには当てはまりませんでした。

イーシャー・デモでは、ビートルズは、まだ友情のきずなで結びつけられていたのです。哀しいことに、彼らは、その後もう二度と結びつくことはありませんでした。

 

(参照文献)RollingStone

(続く)

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