★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

「Across the Universe」のレコーディングに参加した唯一のファン〜リジー・ブラヴォー(342)

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1967年、ジョンとともに撮影

1 ビートルズのレコーディングに参加した唯一のファン

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ジーが出版した本

ビートルズには「レコーディングする時は、関係者以外はスタジオに入れない。」という不文律がありました。誰が決めたというわけでもなく自然にそうなっていたようです。それを初めて破ったのはジョンとヨーコでした。プロのミュージシャンですらレコーディングに参加するのでない限り、スタジオに入ることは許されなかったのですから、ましてファンが入ることなどありえませんでした。

しかし、ファンの一人に過ぎないにもかかわらず、唯一レコーディングに参加できたとても幸運な人がいました。それがブラジル人女性のリジー・ブラヴォーさんとその友人のゲイリーン・ピースさんです。

そのリジーさんが、2021年10月4日、70歳で亡くなりました( ノД`)私は、彼女とFacebookでお友達になっていたんです。

彼女が撮影したメンバーの写真を見せてほしいとお願いしたことがあるんですが、写真集を出版する予定があるからと断られてしまいました。実際、彼女は、2015年にポルトガル語ビートルズとの想い出や写真を掲載した「Do Rio a Abbey Road」というタイトルの本を出版しました。

もっと色々なことをお聞きしておけば良かったと後悔しています。今回は、ファンとして生涯忘れられない貴重な体験をした彼女について触れてみたいと思います(以下、敬称略)。

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Facebookで友達になっていた

2 ビートルズの「追っかけ」として有名だった

(1)ブラジルからロンドンへ

ジー・ブラヴォー(エリザベス・ブラヴォー)は1951年5月29日、中流階級の上位層の家に生まれました。1964年にビートルズの音楽に出会って熱狂的なファンとなり、憧れていたジョンが「Dizzy Miss Lizzy」を歌ったことから、自分のことをリジーと呼ぶようになりました。友人のデニスと一緒にビートルズを崇拝し、2人でビートルズがブラジルに来てコンサートを開催してくれることを待ち望んでいました。

1966年にビートルズがツアーを止めたことを知ると、彼女たちは、もはやブラジルでビートルズを観られなくなったことを悟りました。デニスは、15歳の誕生日プレゼントとして、彼女たちをロンドンへ行かせるよう自分の両親とリジーの両親を説得しました。

あの当時、ブラジルからイギリスへ行くにはかなり費用が掛かったはずです。よほど両親が裕福だったのでしょう。未成年者のリジーが一人で海外旅行をするには父親の署名が必要なので、海外にいた父親の帰国を待たなければなりませんでした。彼女たちのロンドン旅行の目的はただ一つ、ビートルズを見ることでした。

 

(2)到着した日にビートルズと出会う

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ジーが撮影した自宅から出るポールの写真と彼のサイン

1967年2月、リジーは、ついにロンドンに到着しました。早速、EMIのスタジオがあるアビイ・ロードに赴き、その日のうちにビートルズの4人とブライアン・エプスタイン、マル・エヴァンズの姿を目にしました。いやはや、到着したその日にメンバー全員とブライアンやマルにまで出会うとはかなりな強運の持ち主ですね(^_^;)ビートルズは、当時、アルバム「Sgt.Peppers~」のレコーディング中であり、レコーディングが終わった夜になってEMIスタジオを後にしました。

(3)ロンドンで働き始めた

それ以来、リジーは、ほとんど毎日のようにアビイ・ロードのスタジオビルの前に現れました。ビートルズのレコーディングは、夜はもちろんのこと、午後や夕方にも行われていたので、彼女は、やがて昼間はホテルのメイドの仕事をするようになりました。

彼女は、中流階級の上位層の家庭であり、家にはメイドがいたため、ベッドメイキングなどしたことがなかったのです。ロンドンでの休暇は、より永続的な滞在となり、休暇中はリオデジャネイロに帰宅するようになりました。休暇がいつのまにか滞在になっちゃったんですね。

ここで気になるのは「ビザはどうしたのか?」ということですよね(^_^;)だって、イギリスへ行ったときは一時的なものだから、観光ビザであり就労ビザではなかったはずです。ってことは、働いて報酬を得たら不法滞在になったはずですが…。ま、そこはおいておきましょう。

ジーは、仕事がないときは、アビイ・ロードに出没する女の子の一人でした。彼女は時々、自分が「アップル・スクラッフ」の一員ではなかったと主張していました。

彼らは、サヴィル・ロウ3番地にあるアップル社のビルの外にたむろしていた別のファンの集団です。リジーたちは、小さなカメラを持ってきて、ビートルズのメンバーがスタジオを出入りするたびにファンとして写真を撮影していました。

 

 ついにレコーディングに参加!

(1)ポールに誘われた

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ポールとともに

1968年2月4日、ビートルズは、ジョンの新曲「Across The Universe」をスタジオ3でレコーディングしました。この曲は、前日に2テイクがレコーディングされていました。

この日の最初のセッション(14時30分~17時30分)では、「テイク3」ではなく、「4~7」の4テイクがレコーディングされました。ジョンがアコースティック・ギター、ジョージがタンバリン、リンゴがドラムという構成でベーシック・トラックでした。

夜のセッション(20:00~22:00)では、テイク7のオーバーダブが行われました。ジョンは、メイン・ヴォーカルをレコーディングしましたが、再生時に音程を上げるために、通常よりテープを遅くしてレコーディングしました。

ポールは、高音で女性の声をバック・ヴォーカルにすることを思いついたのですが、もう夜になっていてプロの歌手を呼ぶには時間が遅すぎました。しかし、彼は、プロの代わりにいつもスタジオの外をうろついている女の子たちが歌えるのではないかと考えたのです。

(2)ジョン、ポールとレコーディングした

その夜、彼らの出待ちをしていたファンは、ほんの一握りしかいませんでした。その日は日曜日で、彼らは、週末にはスタジオにいないことが多かったのです。スタジオのドアマンが親切なことに、寒い外で待っている彼らを暖房のきいた建物の中に入れてくれました。

ポールがスタジオの扉を開けて出てきて、「君たちの中で高音を出せる子はいるかい?」と尋ねました。16歳のリジーは、17歳の友人のゲイリーン・ピースと一緒にできると申し出て中に入っていきました。彼女たちは、毎日のようにビートルズのメンバーに会っていましたが、この日はスタジオの外ではなく中にいたので、より素晴らしい状況でした。

ジーとゲイリーンは、約2時間、スタジオでビートルズのメンバーと一緒に歌い続けました。彼女たちは、ジョンとポールとマイクを共有していましたが、マイクは2本あり、リジーはまずジョンと歌い、その後入れ替わってポールと歌いました。

このできごとは、「ビートルズ・マンスリー・ブック」3月号に掲載されましたが、それ以外では、少女たちがビートルズの曲に参加して歌わせてもらったことについては、何の騒ぎにもなりませんでした。これも不思議ですね、レコーディングにファンが参加したなんて聞いたら大騒ぎになりそうなものですが。レコーディングしたものの、この曲はお蔵入りになり、しばらく未発表のままとなっていたのです。

 

4 「Across The Universe」がリリースされた!

(1)自宅に帰った

www.youtube.com1969年の夏を境に、ビートルズがスタジオやアップル社に以前のように頻繁に来なくなりました。彼らの間で何かが起こっていることは、少しずつ明らかになっていきました。どうやら、この頃になるとファンもビートルズは解散するのではないかと薄々感じていたようです。

ジーは、自分の人生を歩みたいと思っていました。彼女は、三流ホテルのメイドや家政婦、さらに、別の家庭で子どもの世話をしていました。そして、いよいよ自分の家に帰る時が来たのです。

完成した曲を、DJのケニー・エヴェレットが出演するラジオ番組で初めて聴いたとき、リジーは最高の気分を味わいました。1969年10月下旬、彼女はリオの自宅に戻りました。

(2)「Across The Universe」がリリースされた

NO ONE'S GONNA CHANGE OUR WORLD | beat-o-ya-jiのブログ

そして、1969年12月12日、「Across The Universe」は、WWF-世界野生生物基金への寄付金を募るために発売されたコンピレーションアルバム「No One's Gonna Change Our World」にこの曲が収録され、リリースされました。このアルバムに収録されている曲のバックでリジーとゲイリーンの歌声を聴くことができます。

しかし、半年後にリリースされたアルバム「Let It Be」に再びこの曲が収録されたときには、プロデューサーのフィル・スペクターは、彼女たちの声をカットし、ジョンのメインヴォーカルを遅くし、自然の音もカットしました。

 

5 ポールと再会

一市民に戻った後、リジーは、普通の生活を送り、70年代にはしばらくニューヨークに住んでいました。憧れのジョンと同じ街に住むことになったにもかかわらず、彼に会おうとはしなかったのです。もう夢見る少女ではなくなっていたし、平穏な生活を送っているジョンとヨーコの邪魔をしたくなかったのでしょう。

1990年2月、ポールがブラジルでのコンサートを開催する計画に伴い、インディアナ州でブラジルのメディア向けに開いた記者会見に、リジーは出席しました。ポールは、その女性に見覚えがあると思い、リジーに「どうして僕は、君のことを知っているんだろう?」と尋ねたところ、彼女は、自分の話をしたのです。

彼女がレコーディングに参加した時は18歳、ポールと再会した時は39歳です。容姿も大分変っていましたが、ポールは、誰とはすぐに分からなかったものの、かかわりのある人だと気づいたんですね。昔話に大いに花を咲かせたことでしょう。

(参照文献)ザ・デイリー・ビートル

(続く)

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