★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズの良きライヴァルだったビーチ・ボーイズ~互いにポップスターとしてスタート(383)

数々の賞を勝ち取ったビートルズビーチ・ボーイズ

1 互いに仲良く切磋琢磨した

(1)中身の濃いライヴァル関係

1963年、ハリウッドボウルでのビーチ・ボーイズ

ビートルズはイギリスを代表し、ビーチ・ボーイズアメリカを代表するロックバンドです。1960年代を通じてこの二つのバンドは良きライヴァル関係にありました。両者は、1960年代のポピュラー・ミュージックの作曲、アレンジ、制作といった様々な局面で革命をもたらしたという点において類似しており、そういう意味においては、ビートルズのミュージシャンとしての最大のライヴァルは、ビーチ・ボーイズであったといっても過言ではないでしょう。

このようにビートルズビーチ・ボーイズは敵同士ではなく、友人であり、お互いの音楽のファンであり、それぞれの音楽に影響を与えていました。彼らの創造的なライヴァル関係は、ビートルズローリング・ストーンズのようにマスコミによって表面的に作り出されたものではなく、それぞれのバンドのキャリアのあらゆる場面で存在した、もっと充実した内容の濃い競争だったのです。

(2)互いの作品が影響し合った

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ビートルズの「Rubber Soul」に触発されてブライアン・ウィルソンが「Pet Sounds」を制作し、それがまたビートルズに影響を与えて「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」とそのアルバムに収録されなかったシングル「Strawberry Fields Forever」に大きな影響を与えました。

この曲は、ブライアンが名盤「Smile」によってやろうとしたことが、すでにビートルズによって達成されてしまったとして、制作を断念させる原因となったのです。ブライアンは、ある日、自分の車を運転していた時にこの曲がラジオから流れてきて、すぐに道路脇に車を停車して黙って聴いていました。曲が終わった後、彼は、バンドメイトやスタッフが集まっているところに行き「さあ、みんな、このプロジェクトのことはもう忘れよう。」と話し、「Smileプロジェクト」は棚上げされたのです。制作中のアルバムを断念させるほど、彼が受けた衝撃は大きかったのです。

1960年代、ポップ・ミュージックは急速に発展していきましたが、それは、この時代を代表する二つのバンドが、常にしのぎを削っていたことが大きな要因でした。いつの時代もどんな世界も、良きライヴァルは、思わぬ相乗効果を生み出します。ビートルズビーチ・ボーイズもまさにそんな関係でした。

リスナーがどちらを選んでもそこには正当な理由があります。この切磋琢磨の中から生まれた素晴らしい音楽を聴くことのできる私たちは、とても幸運なのかもしれませんね。「ビートルズビーチ・ボーイズ」は、50年以上前に終わったライヴァル関係かもしれませんが、この楽しい競争は、後世に至るまで語り続けられるでしょう。1960年代を通じてこの二つのバンドが繰り広げた創造的な競争を詳しく見てみましょう。

 

 

2 1960年代を代表する両雄

(1)競争のピークは1964年から1967年

1962年(ビートルズが最初のシングル、ビーチ・ボーイズが最初のアルバムをリリースした年)から1970年(ビートルズが最後のアルバムをリリースした年)までの間を1年ごとに見ていくと、彼らのライヴァル関係のピークが1964年から1967年にかけてであることが分かります。その前段階とその後の影響についても見ていきます。この8年間に余りにも多くのできごとがあり、すべてを語り尽くせませんが、世界最高のポップアルバムを作るという競争において、二つのバンドの重要な瞬間に焦点を当ててみましょう。

(2)1962年〜競争の始まり

1959年、バディ・ホリーリッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーことJ.P・リチャードソンが飛行機事故で亡くなりました。ドン・マクリーンは、1971年にリリースした「アメリカン・パイ」でこの事故があった日のことを「音楽が死んだ日」と痛切に歌ったほど人々は嘆き悲しんだのです。

1960年、エディ・コクランが交通事故で亡くなり、チャック・ベリーが逮捕され、ジェリー・リー・ルイスが女性スキャンダルで表舞台から消え、エルヴィス・プレスリーが徴兵され、リトル・リチャードが引退するというように、1950年代を代表するスーパースターたちが次から次へと姿を消し、ロックンロールはもはや終わってしまったかに思われました。

(3)ほぼ同時期にデビュー

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ポピュラー・ミュージック・シーンが沈滞した1960年代初頭、彗星のように現れた新しいバンドがこのジャンルを様々な形で変え始めていました。カリフォルニアでは、ビーチ・ボーイズがロックンロールをドゥーワップやサーフミュージックと融合させ、リヴァプールでは、ビートルズがスキッフルや地元で誕生したマージービートと融合させたのです。

ビーチ・ボーイズは、1961年にデビューシングル「Surfin'」により地元で成功を収め、1962年にはデビューアルバム「Surfin' Safari」とそのタイトル曲でさらに人気を博しました。同年、ビートルズもデビューシングル「Love Me Do」を発表し、すぐに地元でヒットしました。

1963年にはビートルズの最初の2枚のアルバム「Please Please Me」「With the Beatles」とビーチ・ボーイズの3枚の新しいアルバム「Surfin'USA」「Surfer Girl」「Little Deuce Coupe」が発売され、ポップスターへの競争が始まったのです。

 

 

3 1963年〜完璧なポピュラー・ミュージックを制作

(1)アイドル時代からアーティストとしての才能が芽生えていた

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1963年当時、ビートルズビーチ・ボーイズは、まだ本格的な競争は初めていませんでしたが、この二つのバンドを比較するためには、その記念すべき年の作品を比較する必要があります。

ブライアン・ウィルソンビートルズが1960年代半ばにツアーをやめ、マリファナLSDを見つけ、スタジオにこもってアルバムをメインとする楽曲制作にこだわって、その技術を磨くことに夢中になったとき、このライヴァル関係はピークに達したことは確かです。ただ、「Pet Sounds」「Revolver」のような核心的な傑作に音楽ファンは魅了され、目を奪われてしまいがちですが、彼らのアイドル時代を忘れてしまうと、彼らの最も重要な音楽のいくつかを見逃してしまうことになります。

(2)ポピュラー・ミュージックが原点にあった

ビートルズビーチ・ボーイズの最も批評家に支持された作品は、通常、サイケデリック・ポップ、バロック・ポップ、アート・ポップ、プログレッシブ・ポップ、サンシャイン・ポップなど様々な呼称がつけられています。それぞれに共通するのは「革新的でありながらポップであったこと」です。この相反する要求に同時に応えられたアーティストはそう多くありません。

1960年代半ばから後半にかけて、両バンドは、スリリングで革新的な方法でポピュラー・ミュージックの境界線を外へと押し広げていきました。しかし、曲作りに対する彼らの実験的なアプローチには拍車がかかったものの、彼らがすでにポップソングを書く技術を完成させていたという事実によって常にバランスが取れていました。つまり、逆説的な言い方ですが、ポピュラー・ミュージックを制作できるという基礎があったからこそ、革新的な音楽を制作できたのです。

(3)ポピュラー・ミュージックを大ヒットさせた

長髪、ドラッグ、コンセプト・アルバムといった彼らを象徴する現象の前に、この二つのバンドは、最も純粋で最高のポピュラー・ミュージックを作っていたのです。ビーチ・ボーイズは、「Surfin' U.S.A.」「Shut Down」「Little Deuce Coupe」「Be True To Your School」など、サーフィン、ガール、車に夢中になって、チャック・ベリーのリフをドゥーワップのハーモニーに乗せて、時代を超えた珠玉のポピュラーミュージックを提供していました。

一方、ビートルズは「Please Please Me」「I Saw Her Standing There」「From Me to You」「She Loves You」「I Want To Hold Your Hand」など、甘くてキャッチーでリスナーが踊りだしたくなるラヴソングを生み出し、それらは、これなくしてポップスの原型は完成しなかったとまでいえるものでした。

 

 

4 ティーンエイジャーの心をつかんだ

(1)コーラスが素晴らしかった

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この時代の両バンドの曲は短くシンプルでしたが、それだけで1960年代のティーンエイジャーの心をつかみ、その後のすべての世代にインパクトを与え続けることができたのです。そして、ビートルズビーチ・ボーイズがこの時代の同世代のバンドと大きく異なっていた点は、両バンドともヴォーカルができるメンバーが複数いたことです。彼らの初期の楽曲は、いずれも華やかなヴォーカル・ハーモニーが素晴らしく、この点は、両バンドが1960年代を通してサウンドを拡大するにつれ、ますます重要なものとなっていきました。

(2)次第に天才になっていった

ビートルズビーチ・ボーイズが初期の珠玉の作品を書いていた頃は、今でいう「ポップスの天才」という概念はなく、どちらのバンドもその時点では天才になることを目標としていませんでした。しかし、天才は一夜にして生まれるものではなく、徐々にそこに到達するものなのです。両バンドが1963年頃に書いていた音楽を振り返ると、すでに天才の種が蒔かれていたことが分かります。

(参照文献)ブルックリン・ヴィーガン、ミュージック・マーケティング・ガイ

(続く)

 

 

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